EP10 月下の死闘
背後から殺気を感じた隼人は、己の直感に従って、遮二無二地面を転がった。
「――ッ!」
その直後、今まさに彼のいた場所が、轟音を響かせて吹き飛んだ。
「なっ……!」
ぱらぱらと土塊が降り注ぐ中、隼人は体勢を整えて、背後を振り返った。
地面が深く抉れ、地割れのような溝が刻まれている。濃紺色の霧――疑似瘴気を吐き出していた香炉は無残に砕かれ、溝の周囲に破片が散らばっていた。逃げるのが一秒でも遅かったら、隼人は今頃、あの香炉のように血肉を撒き散らしていたことだろう。
「背中に気をつけろ、か。まさか秋山さんの忠告通りになるとはな……」
砕かれた香炉の先に漂う土煙と疑似瘴気が混じった煙幕を凝視すると、ゆらりと揺れる影が見えた。そのシルエットはどうやら魔獣ではなく、人間のようだ。
長身で肩幅の広い体格――男だろうと思われるその人影は、地面から這い出るように立ち上がる。
源泉が失われたことで疑似瘴気の発生が止まり、視界が徐々に晴れていく。襲撃者の正体を探ろうとする隼人は、薄れゆく煙幕の向こうにいる人影を凝視した。
まず見えたのは、男が持っている武器だった。男の右手が上がると、地面がめくれ上がり、中から巨大な剣が現れる。隼人の脳天を狙って振り下ろされた凶器は、彼が躱したことで地面に突き刺さったのだ。
薪を割る鉈を巨大化させたようなその剣は、身の丈を超える長さと分厚く幅広な刃を備えており、まさに大剣と呼ぶにふさわしい。地割れのような深い溝を刻んだその一撃からも相当な重量があることが窺える。
大剣が徐々に持ち上がり、男の肩に担がれる。そうして大剣を担いだ男は、ゆっくりと腰を落として前傾姿勢に構えた。
それは突撃の前兆だ、と見抜いた隼人が身構えようとしたその瞬間、男が煙幕の向こうから突っ込んできた。
「――!」
とても大剣を担いだ速度とは思えない高速の突進で、男は隼人との間合いを一瞬で詰める。
「葬魔士――!?」
煙幕を突き破って現れた男は、隼人と同じ灰黒色のコートに身を包んでいた。それは葬魔機関で支給されるものであり、同じ葬魔士による襲撃に動揺した隼人は、初動が遅れた。
間合いに踏み込んだ男は、躊躇なく隼人の首へ大剣を振り下ろす。迫る刃を見た隼人は、回避は間に合わないと判断し、腰の対魔刀を引き抜いて防御を試みる。
だが遅い。完全に刀を構え終わる前に、唸るような風切り音を上げる巨大な刃が衝突した。
「がぁ、っ……!」
突進の速度が上乗せされた斬撃は、隼人の想定を超えた威力だった。男の大剣を受け止めようとした対魔刀があまりの威力に押し返され、深々と左肩に食い込んだ。
「っ……!」
隼人の左肩に激痛が走る。痺れるような痛みで左手には満足に力が入らない。対魔刀と肩の骨でかろうじて大剣を受け止めたような有様だった。
「何、しやがる……!」
「……」
「やめろっ! 聞いてるのか!?」
「……」
必死に訴える隼人の言葉を男は黙殺した。苦悶に顔を歪めながら、隼人は襲撃者の表情を読み取ろうとするも、その表情はフードによって覆い隠されているため、はっきりと見ることはできない。
「ぐっ……!」
大剣が押し込まれ、互いの刃を挟んで至近距離で睨み合うかたちとなる。すると、わずかに見えた男の口元、その顎に縦に走る傷跡があることが分かった。
「顎に傷のある男……まさか!」
隼人の驚愕した声に男が口元を歪めた。それは嘲るような笑みだった。
「お前は――!」
美鶴を狙った男が眼前にいる、と理解した隼人の脳が、一気に燃えるような熱を帯びた。大剣に押し込まれていた腕に凄まじい力が入り、それまでの劣勢が嘘であるかのように一気に弾き返す。男はその勢いに押されて大きく仰け反り、よろけながら後退した。
姿勢を崩した男に隼人は追撃を試みるが、左肩の激痛で我に返り、後方へ跳躍して男から大きく距離を取った。
左肩から流れた血が腕を伝って、指先からぽたぽたと芝生に滴り落ちる。血の滴る左手から右手に視線を移すと、対魔刀は根元から“へ”の字に折れ曲がっていた。たった一撃――それだけで刀をお釈迦にされた。その事実に隼人は戦慄した。
刀が折れ曲がった原因は、刀身に無理な力が加わったせいだ。しかし、荒々しい使い方をするのは実戦刀としては当然のことである。それにしても、その前提を覆す破壊力があの一撃にはあったのだ。
まだ改良型の七二式だから防げたのだ。これが偽装拠点で使用した改良前のモデルであったら、おそらく今頃、刀もろともその身を両断されていたことだろう。
辺りを見回すと、すっかり瘴気の霧は晴れていた。月明かりの下、男の姿が明確に見えた。彼が身に着けている灰黒色のコートやブーツは、やはりどれも葬魔機関の支給品だ。どのような関係かは知らないが、機関に所縁がある者であることは間違いない。
しかし、なぜこの男が美鶴を狙い、そしてまた隼人を襲ったのか――その理由は見当がつかない。
男は力を抜いて腕を下ろし、剣の切っ先を地に着けている。だが、不用意にあの間合いに踏み込めば、あの刃の餌食になることだろう。
大剣の間合いから離れて様子を窺っていたが、埒が明かないと判断した隼人は、無駄と思いながらも男に問いかける。
「目的は何だ、答えろ!」
「……」
隼人の問いを無視すると思われた男に動きがあった。大剣を持った右手がゆっくりと持ち上がる。攻撃の予備動作だと思った隼人は、腰を落として身構えるが、男はその場から動かない。
徐々に持ち上がっていく大剣の切っ先が、やがてぴたりと静止した。その先端は隼人の胸に向けられていた。
「俺、か……!」
額から冷や汗を垂らしながら、隼人はそう呟く。その反応を合図にしたかのように、胸に向けられていた大剣が、地面と平行に移動した。その剣先が指し示したのは、隼人の右腕だった。
「なっ……!」
隼人の右腕が魔獣に侵蝕されていることを知っているのは、彼に身近な人間と機関の中でも一部の人間である。この男が右腕の秘密を知っていると確信した隼人は、激しく動揺した。
「ふっ……!」
鼻を鳴らして嘲笑する襲撃者は、隼人の動揺した隙を見て、真っ向から突進した。小細工なしの愚直なまでの突進は、それゆえに先のものよりも格段に速い。おそらく繰り出される斬撃の威力も増しているだろう。
先の攻撃で手傷を負った隼人には、その斬撃を受け止める自信がなかった。右手に持った用をなさない刀を投げ捨てると、回避のために両脚に力を込める。
剣の間合いに踏み込んだ男は、今度は横薙ぎに剣を振るった。迫る刃が風を切って唸りを上げる。
暴風のような斬撃が胴に直撃するその瞬間、隼人は後方に飛び退いて攻撃を躱す。通り過ぎる切っ先が、わずかに彼のコートを掠めた。
男が剣を振り抜いた隙を狙って、隼人は反撃を加えようとする。しかし、それは叶わなかった。隼人が反撃を試みる前に、驚くべき速さで振るわれた追撃の刃が彼に迫っていたのだ。
「――!」
返す刀で逆袈裟から叩き込まれた一撃を間一髪で回避するも、攻撃はまだ続いていた。二撃、三撃と続けざまに大剣が振るわれ、嵐のような猛攻で隼人に反撃の機会を与えない。怒涛の連撃に翻弄される隼人には攻撃の余地はなく、回避に専念するほかなかった。
そうして大剣を躱し続けた隼人は、いつしか公園東部の芝生から中央部のインターロッキング舗装の遊歩道まで押し込まれていた。意図せずに公園の入口へと近づいていた彼は、男が美鶴に接近することを恐れた。ここで男を食い止めなければ、次に彼女を襲うであろうことは想像に難くない。
この窮地を打開しようと、隼人は決死の博打に出た。後ろ手に腰の短剣を引き抜いて袖口に忍ばせた隼人は、横薙ぎの刃を鮮やかな側方宙返りで躱しつつ、空中で身を捻り、上下反転の姿勢で短剣を投げ放つ。
男の喉元を狙って投擲された短剣は、闇を貫く矢のように一直線に飛んでいく。月明かりのない夜であれば、視認できなかっただろうが、生憎と今宵の月は真円に近い。男は臆することなく大剣から片手を放すと、間近まで飛来した短剣を裏拳であっさりと弾き飛ばした。
横薙ぎの斬撃を躱した隼人は跳躍した勢いのまま、着地と同時に地面を転がって近くの大木の影に隠れる。大剣から片手を離したせいか、男からの追撃が途絶えた。
地面から起き上がった隼人は、回避の連続で乱れた呼吸を整えながら、大木を背にして様子を窺うと、月光を反射して眩しく光るものが目に入った。それは彼が投げた短剣だった。
男に弾かれた短剣は、山なりの軌道を描いて回転しながら、公園の外へと飛んでいく。だが、闇の中へと消えていくはずだった短剣は、突如、空中で甲高い金属音を立てて火花を散らし、あらぬ方向へ跳ね返った。それはまるで見えない壁にぶつかったようだった。目を凝らすと、短剣の跳ね返ったと思われる空間が、石を投げ入れた水面のように波紋を描いて歪んでいる。
「結界だと……!」
男の意図を察した隼人の背に冷たい汗が流れた。偽装拠点や各地の支部等を守る拠点用の防御結界には劣るものの、持ち運びのできる結界が存在する。
限られた時間でしか使用できないその結界は簡易結界と呼ばれ、負傷者の保護や瘴気内で遭難した際に魔獣の襲撃から身を守るための即席の避難所である。
しかし、この男は本来の用途ではなく、獲物を閉じ込めるための檻として使用した。それは標的を必ず仕留めるという意思表示である。自身が置かれた状況を理解した隼人は、名も知らぬ襲撃者の強い殺意に戦慄した。




