EP09 予兆
美鶴の家を後にした隼人は、ぼんやりとした様子で来た道を引き返していた。彼の胸の内にあったのは、先ほどの彼女との会話だった。
「素敵な手、か……」
魔獣に侵された忌まわしき右腕は、蔑まれることや疎まれることはあっても、誰にも褒められたことなどなかった。例外があるとすれば、それは兵器としての賞賛であり、およそ人間らしい扱いではなかった。
住宅地の中心にある公園の入り口に差し掛かったところで、美鶴との会話を再び思い出し、その足を止めて右手を見つめる。
「そんなこと……言われたことなかったな」
右手には彼女の柔らかな手の平の感触が残っていた。細く白い指は少し冷たく、無自覚に拳を握っていた隼人にとっては、手の平に籠った熱を冷ましてくれる心地よい温度だった。
「……」
手の平から視線を外した隼人は、天上の月を見上げる。真円から少し欠け始めた月はそれでもなお煌々と輝き、夜空を照らしていた。白く輝く月にどこか郷愁を感じた隼人は、胸の内に溜まった澱を吐き出すように深い溜め息をついた。
「――!?」
吐き出した空気と入れ違いに鼻腔へと飛び込んできた空気に、強い違和感を覚えた。まるで肉食獣の吐息のように強い不快感を与えるそれは、明らかにそれまでの夜の空気とは異質だった。
「瘴気か……!」
一気に隼人の全身の毛が逆立つ。どこか浮ついていた彼の意識は、瞬時に戦闘のそれへと移行した。
瘴気が発生しているということは、いつ魔獣が現れてもおかしくない状況であり、住宅地の真ん中で魔獣が現れるなど、考えうる限り最悪の事態だ。
油断なく公園の外周道路に視線を巡らしたが、瘴気に由来する濃紺色の霧は視認できない。意識を集中させて不快な気配を辿ると、目の前の公園からうっすらと漂ってきていることが分かった。
木々に囲まれた公園の内部に目を向けた隼人は、街灯に照らされている公園の一角に、塗り潰されたように闇に沈んで見通せない空間があることに気付く。
「あそこだな……」
隼人はスマートフォン型の携帯端末をポケットから取り出して、通知を確認する。葬魔機関から貸与されているこの端末は、機関独自の回線を使用しており、各地の支部や端末を持っている葬魔士と連絡を取れるほか、機関の瘴気レーダーとリンクして瘴気や魔獣の発生を確認することが可能である。
しかし、端末の画面には瘴気を感知した通知も魔獣出現の通知もない。ログに目を通しても、この付近では同様の通知は一切なかった。どうやらこの瘴気はどこからか流れてきたのではなく、目の前の公園で発生したようだ。
葬魔機関では瘴気の発生源である源泉の位置を把握しており、大気中への漏出を検知する態勢が整えられている。先日、隼人と圭介が魔獣の出現前に山中で迎撃できたのはそのためだ。
瘴気の源泉があると分かっている場所にわざわざ住宅地を造成することはない。つまり、新たな源泉である可能性が高い。
支部ではまだ瘴気が発生した情報を掴んでいないと推測した隼人は、端末を操作して、支部の指令室と連絡を取る。一度目の呼び出し音が鳴り終わる前に途切れ、端末から指令室の物音や会話が聞こえた。
「オペレーター、こちら第三支部特戦班の長峰だ」
「こちら第三支部、オペレーターです。ご要件をどうぞ」
はっきりとした聞きやすい女性の声が端末から流れた。
「緊急の事案だ。瘴気の漏出を確認した。新しい源泉が発生した疑いがある」
「レーダーに反応はありませんが……?」
端末から困惑した様子のオペレーターの声が聞こえた。おそらく支部の大型モニターには異常を知らせる表示は見られないのだろう。
「端末の位置情報から付近をスキャンできるか?」
「少々、お待ちを……やはり異常は見られません」
「何だって……?」
「調査部隊の派遣は可能です。いかがしますか?」
「支部長はいるか?」
隼人は指示を仰ぐため、支部長につなぐように促した。
「お待ちを……現在、資料室です。お呼びしますか?」
てっきり支部長室に戻っていると思っていた隼人は、心の中で舌打ちした。四六時中呼び出されることを嫌う陽子は、支部内では端末を持ち歩かないのだ。支部長室から指令室はそう遠くないが、資料室から指令室はかなりの距離がある。アナウンスで呼び出された陽子が指令室に到着するまで最低でも五分はかかるだろう。
魔獣は群れで動く。一体でも実体化が始まれば、次々に現れることは目に見えている。全周約五〇〇メートルの小さな公園は、魔獣の群れにとってはあまりにも狭すぎる。
実体化したばかりの群れは、飢えを満たすためにすぐさま狩りを始めることだろう。無論、獲物は付近の住民である。一刻も早く手を打たなければ、手遅れになる可能性が高い。
「……!」
急激な瘴気濃度の上昇を察知した隼人の額に汗が流れた。本来であれば、支部長の指示を待つべきであるが、幾許の猶予もない。彼は自身の直感に従って、行動することに決めた。
「……呼び出しは不要だ。調査部隊の派遣を頼む。位置は端末の座標を追ってくれ」
「了解しました。これから調査部隊を派遣します」
「俺は先行して調査を開始する」
「了解しました。ご武運を」
通信を終えた隼人は、険しい顔で闇を睨む。魔獣は実体化していないが、それも時間の問題だろう。
端末をしまった隼人は、通行人の目を避けるためにコートの下に隠していた装備を手早く確認する。美鶴の送迎時に襲撃があることを想定していた隼人は、万一に備えて武装を整えていたのだ。
隼人が装備していたのは、私物である一対の穿刃剣と投擲用の短剣四本、そして機関で支給された七二式対魔刀後期改良型、その一振りだった。
獣鬼との戦いを顧みた隼人は、七二式よりも頑丈な対魔刀を装備したかったが、装備保管室の在庫は、連日に渡る魔獣討伐によって底をついており、選り好みできる余裕はなかった。まだ在庫があっただけましだ、と自身に言い聞かせた隼人は、腰や腿のベルトに取り付けられた装備を点検し、不備がないことを確かめると、慎重に公園へと足を踏み入れた。
この公園は南北に走る遊歩道を挟んで、東西を二分するように分かれており、西側が遊水池、東側が芝生となっている。
西側の遊水池は三方を擁壁に囲まれており、遊歩道からは数メートルの高低差がある。遊歩道から続く階段を下りると、低く刈り揃えられた草地が広がっており、侵入防止柵を越えた先に水面が広がっている。
景観を考慮してのことだろうか、柵の付近には狙って植えたように葦が部分的に群生し、池には点々と大岩が設置され、飛石のように水面から突き出している。
肝心の瘴気はその反対、東側の芝生が広がる広場から漂ってきていた。インターロッキング舗装が施された遊歩道の上で立ち止まった隼人は、芝生の方に目を向ける。外からでは分からなかったが、内部に入ると瘴気の霧をはっきりと視認することができた。
低く地表を漂う濃紺色の霧は芝生の広場に近づくにつれて、次第に濃くなっている。あの最も暗い闇の奥に瘴気の源泉があるのだろう。
手前の芝生に目を落とすと、まだ青々とした生気を保っており、枯死が始まっていないことに気付く。
「変だな……」
はっきりと視認できる瘴気濃度であれば、数分と待たずに植物は何らかの異常を示す。葉の全体が枯れることはなくとも、先端が焼けたように変色するのである。まったく変化がないということは、思ったよりも濃度が低いのだろうか、と隼人は首を傾げる。
「……ん?」
瘴気が漂う地表を凝視した隼人は、芝生の上にある奇妙な物体が目に入った。霧のせいではっきりと見えないが、瘴気はその物体から吐き出されているようだ。辺りに視線を走らせ、自身を狙う魔獣の気配がないことを確かめた隼人は、用心深い足取りでその物体へと近づいていく。
「これは……香炉、か?」
瘴気の発生源は、手の平に乗るほど小さな香炉だった。もくもくと濃紺色の霧を吐き出す香炉の前に立ち止まった隼人は、ゆっくりと腰を下ろし、片膝立の姿勢で覗き込む。
金属製の香炉は、所々に緑青が生じており、かなり年季が入っているようだ。蓋に開けられた複数の隙間から放出されている霧は未だに途切れることなく、延々と出続けている。
香炉の周りに目を走らせた隼人は、眉をひそめた。瘴気の源泉付近では毒性によって草木がたちまち枯れ果てる。だのに周囲の芝生はまるで変化がない。
「毒性がない……? まさか、疑似瘴気か!」
隼人の脳裏に稲妻が走った。目の前の香炉は、教本に載っていた写真で一度だけ見たことがあった。瘴気に似せた毒性のない濃紺色の気体を放出させるそれは、古の葬魔士が魔獣を誘き寄せるために使用した道具であり、現代で使用されることはない。歴戦の葬魔士である隼人でも、実物を見たのは初めてだった。
瘴気の発生源が人工物であったことに驚きを隠せない隼人は、香炉を凝視して考え込む。
「これは、一体……」
そう呟いた隼人の背後に、いつの間にか人影が立っていた。その手には身の丈を超える巨大な剣が握られており、上段に構えるや否や、処刑人よろしく隼人の脳天へと振り下ろした。
いつも斬魔の剣士をご愛読いただき、ありがとうございます。いいねや評価ポイントが増えていて驚きました。励みにして頑張ります!
……と言ったところで早速ですが、次回投稿まで間が空きます。(やっとバトルシーン来たのに……)
ご了承ください。




