EP08 家路
ようやくエントランスホールに着いた隼人は、美鶴の姿を探して辺りを見回した。ホールには来客用のソファーや長椅子が複数置かれているが、そこに彼女はいなかった。
待ちくたびれて帰ってしまったのではないか、と一抹の不安を覚えた隼人は、少し焦りながらホールの中を急ぎ足で探す。
すると、すぐに壁際にいる美鶴が目に入った。どうやら柱に隠れて見えなかったらしい。制服から私服に着替えていた彼女は、壁に飾られた一枚の絵画をじっと見つめていた。
西洋の騎士の鎧に似た防具を身に着けた葬魔士と巨大な魔獣が対峙している様子を描いたそれは、支部長室に飾られている絵画と同じものだった。
「すまない、待たせた」
美鶴の隣に立ち止まった隼人は、申し訳なさそうな声で謝った。
「大丈夫です、私も来たばかりですから」
絵画から目を離した美鶴は、彼を安心させるようにそっと微笑んだ。
「……そうか」
彼女の言葉は、隼人を気遣った嘘だろう。圭介と会う前にも、隼人は支度を整えるために装備保管室に寄り道をしており、支部長室を出てから優に三〇分は経過していた。
「……」
隼人は胸の内に罪悪感を抱きながらも、彼女の優しい微笑みに安らぎを覚えずにはいられなかった。自然と肩に入っていた力が抜ける。きっと彼女の人柄がそうさせたのだろう。
「……じゃあ、行くか」
「はい、よろしくお願いします。長峰さん」
* * *
支部を出た隼人と美鶴は彼女の家を目指し、肩を並べて国道の歩道を歩いていた。時刻は夜の一〇時を過ぎたところであり、車通りは日中に比べてめっきりと少なくなっていた。初夏の夜にしてはやや涼しく、時折吹くそよ風が肌寒く感じる。
隼人は葬魔機関に所属することが美鶴本人の意思だったのか、彼女に確認しようと思っていたが、中々切り出せずにいた。無論、美鶴に選択肢がなかったことは、彼自身、百も承知であった。
美鶴もまた、思い詰めたような表情を浮かべたまま、口を閉ざし続ける隼人に話しかけることができず、二人はしばらく無言で歩いていた。
「あの……」
隼人の顔色を窺うように、美鶴は遠慮した様子で彼に声をかけた。
「ん……?」
「秋山さんのこと、支部長から聞いたんですけど……怪我は大丈夫なんでしょうか……?」
自分の考えていたことと無縁な話題を振られた隼人は、内心どこかほっとしながら、問いに答える。
「怪我って脚のことか?」
「はい。手術を受けた、と聞きましたが……」
心配そうに美鶴が尋ねると、隼人は努めて何事もない様子で話す。
「それなら大丈夫だ。さっき会ったときは、元気そうだった」
「秋山さんと会ったんですか?」
「ああ」
「もしかして、秋山さんの病室に……?」
「いや……秋山さんと会ったのは、偶然だ」
「そうですか。でも、元気そうなら、よかったです」
「そうだな。まぁ、しばらくは入院生活になるだろうけど……」
「あの人のことだ。退屈だ、暇だ、って俺に電話してくるんだろうな……」
と、困り顔で隼人は呟いた。
「それなら今度、お見舞いに行きましょうか」
「それもいいな。どうやら、早くもじっとしてられないみたいだし……ん?」
美鶴の提案を聞いた隼人は、彼女が病室に訪れていたことを思い出した。
「どうしたんですか?」
「そういえば、俺が寝てるときに見舞いに来てくれたらしいな。これ、冬木が置いていったんだろう?」
ポケットから紙の鶴を取り出した隼人は、手の平の上に乗せて美鶴に見せた。
「え? あっ、はい……」
「ありがとう……その、礼を言っとけって、先生が……」
「いえ、私の方こそ、助けてもらったばかりか、またこうして送っていただいて……ありがとうございます、長峰さん」
「ああ……」
照れ隠しに成実のことをだしにした隼人だったが、素直に礼を言った美鶴と自身を比べて、気恥ずかしくなってしまった。熱くなった顔を誤魔化すように、慌てて手に乗せた折り鶴に話を移す。
「それにしても、よくできてるな……メモ用紙で作ったんだろう? こんなに綺麗に折るなんて、器用だな」
美鶴は苦笑しながら、小さくかぶりを振った。
「私、器用じゃないです。小さい頃、おばあちゃん……あっ、いえ、祖母に教わってよく折ってたので、それですっかり身に付いたと言いますか……」
「そうか……じゃあ、最近は作ってなかったのか」
「はい。久しぶりでしたけど、思い出しながら、なんとか作れました」
「おばあちゃん、か……一緒に住んでるのか? こんなことになって、心配してるよな……家に連絡は――」
「……亡くなりました」
認めたくないと言わんばかりに、美鶴は感情を押し殺した声で、突き放すように言い放った。
「えっ……」
「一人なんです、私。父も母も幼い頃に事故で亡くなって、祖母と一緒に暮らしてたんですけど、二ヵ月ほど前に亡くなりました」
沈んだ表情になった美鶴の横顔を見た隼人は、胸が締め付けられる思いがした。
「そうか……その、悪かった……」
「……いえ、大丈夫です」
「……」
こうも失言続きでは、どうもばつが悪い。隼人は気まずい顔をして、後頭部を掻く。
「あの、長峰さん」
隼人の様子を窺うように、美鶴はちらりと彼の顔を見た。
「ん……何だ?」
「立ち入ったことを聞くようですが、長峰さんは養子に出されたんですよね? もしかして、ご両親は……」
「ああ、俺にとっての父と母はもういない」
「……?」
美鶴の訝しむ視線を感じた隼人は、意図せずに含みを持たせるような口振りになったことを後悔して、目を逸らした。
「ああ、いや……実の父親は生きている。勘当されたんだ、俺」
「えっと、どうしてですか……?」
「こっちが知りたいくらいだ。小さい頃、剣の基礎を叩き込まれてすぐに追い出された。何か言われたかもしれないが、当時の俺は、言葉を話せなかった。いや、分からなかったと言った方が正しいか……」
美鶴の顔に浮かんだ疑問の色が濃くなった。
「それは、どういう……?」
「あの家じゃ、剣以外のことは教えられなかった。言葉も文字の読み書きも教えられなかった」
「そんな……だって、意思の疎通ができないんじゃ、どうやって教えるっていうんですか……」
「間違ったことをすれば、殴られた。正しいことをすれば、殴られなかった。痛みが俺にとっての教訓だった」
「なっ……!」
美鶴は衝撃のあまり、絶句した。それは教育ではない。虐待だ。
「言葉を話せるようになったのは、剣の師匠……俺の叔父の家に預けられてからだ。俺は師匠の家に行って、言葉を教えてもらった。文字の読み書きを、箸の持ち方だって教えてもらった。そうして俺は、初めて人間らしく生きられるようになったんだ」
淡々と語る隼人の口調が次第に柔らかくなっていった。口調だけではない。いつもは仏頂面をしているその顔も、いつの間にか優しげな表情を浮かべていた。
「……」
それだけで美鶴は、彼が養子として暮らした時間は幸福であったことを感じ取った。
「そうだな……俺に血肉を与えたのが産みの親なら、俺にとってあの人たちは、心の親だ」
「長峰さんがそこまで言うなら、きっと素敵な人たちだったんでしょうね……」
「ああ、素敵な人たちだった……本当に……」
思い出を懐かしむように、隼人は遠くを見るような眼差しをした。そんな彼を見た美鶴は、圭介から偽装拠点で聞いた育ての母を手に掛けた、という言葉に疑問を抱いた。目の前の彼には、到底そんなことが可能だと思えないからだ。いくら掟といえども、そんなことが可能なのだろうか。しかし美鶴には、その疑問を目の前の本人に聞くことはできなかった。
「……」
再び二人は無言で歩く。互いに聞きたいことは山ほどあったが、それが言葉になることはなかった。
国道から脇道に入り、遊水池を備えた公園を中心とした閑静な住宅街へと進んでいく。分譲地として開発されたと思われるよく似た家並みが続いており、家々の窓から漏れた明かりが道を照らしていた。その中で一軒だけ明かりが灯っていない家があった。美鶴はその家の前で立ち止まる。
「私の家、ここです」
「そうか。それなら、俺はここまでだな」
ドアの鍵を開けた美鶴は、ドアノブから手を放して、隼人の方へと振り向いた。
「あの、せっかくですからお茶でもいかがですか? 家まで送って頂いたのですから、せめて一杯だけでも……」
「いや、今日はもう遅い。遠慮しておく」
「そうですか……」
少しがっかりした表情を浮かべた美鶴を見た隼人の胸が、ちくりと痛んだ。
「それでは――」
「待ってくれ」
送迎の礼を言おうとした美鶴を遮るように、隼人が慌てて声をかけた。どうしても、葬魔機関に入ることが彼女自身の意思なのか、確認したかったのだ。
だが、言ってから、後悔した。彼女に選択肢がなかったことなど、聞かずとも分かっていることではないか、と。
「……っ」
「……長峰さん?」
美鶴に顔を見つめられた隼人は、視線を逸らして沈黙する。疑問に思った美鶴は、ドアから離れて隼人に歩み寄り、彼の目の前で立ち止まった。
「あの、どうかしたんですか……?」
訝しんだ美鶴に見つめられた隼人は、悩んだ末に意を決して問いかけた。
「……冬木、確認したいことがある」
「はい、なんでしょう……?」
「支部長に……葬魔機関に入れって言われたのか?」
「……はい」
「入るって、答えたのか?」
「はい」
「そうか……」
「私、あの夜まで、この声のことを知りませんでした。もしかしたら、知らないうちにあの怪物を呼び寄せていたかもしれない。そう思うと、恐ろしくて……」
「それは……仕方のないことだろう。お前は何も知らなかったんだ」
「そうだとしても……いいえ、だからこそ私は、この力を制御する方法を身に付けないといけない。ううん、身に付けたいんです」
かぶりを振った美鶴は隼人の方へと向き直り、その顔をじっと見つめた。
「長峰さん……」
「……何だ?」
「私に念信の制御を教えていただけませんか?」
「え……」
「この声――念信を使える方は少ないと聞きました。この支部だと支部長と長峰さんしか使えないって……」
「ああ……」
「私は、この世界のことを何も知りませんでした。葬魔機関のこと、魔獣のこと、長峰さんや秋山さんみたいな葬魔士のことを、何も……」
そう言って視線を落とした美鶴を隼人は無言で見つめていた。
「……」
「正直に言うと、まだ葬魔機関のことを信じることが……できません。でも、あの夜、私を救ってくれたあなたなら信じられると思うんです。だから――」
そっと想いを込めるように、美鶴は息を吸い込むと、隼人の目をじっと見つめた。
「長峰さんにしか、お願いできないんです」
「……」
ああ、それは殺し文句だ。そんな風に言われたら、断ることなんてできるはずがない。
「お願いします」
深々とお辞儀をした美鶴を見て、隼人は深く息を吐き出した。心はとっくに決まっていた。だが、その一言を口にするのが、少し、怖かったのだ。
「分かった」
「本当ですか! ありがとうございます!」
顔を上げた美鶴は、咲き誇る花のように満面の笑みを浮かべていた。
「……」
あと一年。残されたその時間の中で、どれだけのことができるか分からない。きっと全てを伝えることは難しいだろう。それでも、この笑顔を守るためなら、残りの生涯を費やすことは決して無駄ではないはずだ。
誰かに命じられたからじゃない。俺自身がそうしたいんだ――そう、湧き上がる思いに隼人は胸の内に火が灯るのを感じた。
「……?」
物思いに耽っていた隼人に、美鶴はそっとその右手を差し出した。
「えっと、これは……?」
「握手を……この間は、できなかったので」
知らず知らずのうちに拳を握っていた右手を開いた隼人は、差し出された美鶴の色白の右手と自身の黒い右手を二、三度見比べる。
「いや、あれは……」
「長峰さんには、これからたくさんお世話になると思うんです。いえ、もうお世話になりっぱなしですけど……だから、私がしたいんです。だめですか……?」
どうも美鶴の落胆する様子に弱いきらいがあるらしい、と隼人は心の中で小さな溜め息を吐きだした。
「……だめじゃない」
「なら……!」
隼人の返答を聞いた美鶴の顔が、ぱっと明るくなる。
「右手で、なのか……?」
「はい。だって左手じゃ、おかしいでしょう?」
「いや、でも……」
困り顔で口ごもった隼人は、自身の右手から美鶴の顔へと視線を移す。どこかすがりつくような弱々しいその視線を、美鶴の優しい眼差しが受け止めた。
「……」
美鶴は何も言わない。ただ、隼人の答えを待っていた。おそらく、隼人が右手を差し出すまで彼女は右手を下ろさないだろう。観念した隼人は、ゆっくりと右手を差し出した。
「分かった。これからも、よろしくな」
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
隼人の右手と美鶴の右手が重なる。美鶴の細く長い白い指は、少し冷たかったが、ぎゅっと握られた手の平は驚くほど柔らかな感触があった。
「はぁ……温かい素敵な手ですね」
自身の右手に重ねられた隼人の右手を、美鶴は感じ入る様子で見つめていた。
「そうか……?」
「はい」
「……多分、ずっと拳を握っていたから、だろう」
「そうですか……えっと、あまりうまく言えないんですけど、きっとこの温かさは長峰さんの手だから、だと思います」
「……そうか」
わずかな沈黙の後、何の合図もなく、どちらともなく指がするりと離れる。美鶴の手から離れた隼人の右手には、名残惜しい感触が残っていた。隼人はその感触を誤魔化すように、軽く拳を握った。
「送っていただいて、ありがとうございました。気を付けて帰ってくださいね」
「ああ、おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
ぺこり、とお辞儀をした美鶴は隼人から離れ、ドアを開けて家の中に入る。ドアが閉まる間際、再び小さくお辞儀をした美鶴に、隼人は片手を軽く上げて返した。彼女の姿が消え、家の明かりが灯るのを見届けた隼人は、美鶴の家を後にした。




