EP04 魔の呼び声Ⅱ
喫茶店から出た美鶴は、街灯に照らされた雨上がりの歩道に点々と広がる水たまりを避けて歩く。
今朝の予報では晴れ時々曇りの予報だった。そのため、傘を持たずに家を出た美鶴だったが、予報外れの雨に降られてしまった。
いつもなら鞄に入っているはずの折り畳み傘もこんなときに限って入っていなかった。おそらく鞄の中身を整理したときに入れ忘れたのだろう。
突如、振り出した雨に驚いた美鶴は、咄嗟に喫茶店に駆け込んで難を逃れたつもりだったが、とんだ雨宿りになってしまった。
ここ最近、妙な疲労感が続いていたが、幻聴に続いて幻視を見たとなっては、とうとう頭がどうにかなってしまったのだろうか、と美鶴は苦笑する。
飲食店の並ぶ通りの曲がり角から現れた車のライトが視界に入り、ふと顔を上げると、灰黒色のコートを着たあの男が、待ち構えていたかのように立っていた。
「嘘……」
幻だと思った男が、美鶴の前方、約二〇メートル先にいる。
背筋が凍りつくという感覚を、彼女はこの時、生まれて初めて味わった。
逃げようとしたが、足が恐怖にすくんで動かない。体に力を入れようとして、動かないのは足だけではないと気付く。悲鳴を上げようにも喉から声が出ない。
男はだらんと力なく下げた手をゆっくりと持ち上げて、美鶴へと伸ばしてきた。
すると突然、周囲の空気が圧縮されるかのように不可視の重圧が彼女を襲った。まるで巨人の手に握られるように全身を強く圧迫され、堪らず両膝をついてしまう。
「うぅ……」
全身が潰されそうな重さを感じていたが、特に苦しいのは喉だった。喉を締め付けられるような圧迫感により、呼吸が全くできず、窒息寸前まで追いやられる。
男は手をかざしたまま、水たまりなどお構いなしに足を踏み出して真っ直ぐ近づいてくる。
美鶴は遠のく意識を必死に持ち堪えながら、重圧に抗うように喉元を押さえて男を見据える。
距離が狭まるにつれて、フードの影に隠された男の顔が次第に見えてきた。その口元はただ無表情であり、何を考えているのか美鶴にはさっぱり読み解くことはできない。ただ、男の唇から顎にかけて縦に走った傷痕が目に入った。
その傷痕を凝視していた美鶴の視線が男の視線と交錯する。未だ影に潜むその全貌は美鶴には見えなかったが、その瞳が美鶴を捉えていることは容易に想像できた。
かざされた男の手が、あと一歩で美鶴に届く――――その時だった。
『来い!』
力強く叫ぶ声が遠くから聞こえた。喫茶店で聞いたあの呼び声を思い出す。男の足がぴたっと止まり、舌打ちをし、その声がした方角へと顔を巡らせる。男の視線が外れると同時にふっとその重圧から解放され、体の自由が戻ってきた。
体の自由を取り戻した美鶴は、咳き込みながら声のした方向に視線を向けると、喫茶店と隣の店との間に奥へと続く細い路地があることに気が付いた。
とにかく目の前の男から逃げたい美鶴は、一も二もなくその路地へと駆け込む。
「ほう……」
逃げる彼女の背を見つめ、男は感心したような声を漏らす。
無論、美鶴には男が感心した理由など知る由もなく、その理由を探る余裕もない。今はただ、男から離れようと必死に走るだけだった。




