EP02 医務室にてⅡ
カーテンの向こうに見える細身のシルエットは女性のそれであった。彼女はベッドの方を見ると、隼人が起き上がっていることに気付いたのか、様子を窺うように立ち止まる。
「あれ? 隼人君、起きたの?」
親しみのある明るい女性の声が聞こえた。この医務室の主である桑野成実医師の声だ。
「はい、起きてます」
開けるわよ、と断りを入れた成実は、カーテンをわずかに開けると、隙間からひょいと顔を覗かせた。彼女の覗き込んだ動きに合わせて、栗色のボブカットがふわりと揺れる。
「おっ、もう起き上がれるのね。体調はどう?」
「大丈夫です」
力強く頷いた隼人を見て、成実は満足したように微笑んだ。
「そっかそっか。なら、よろしい」
カーテンをさっと開けた成実は、パンプスを鳴らしながら隼人のベッドに近づいてくる。軍服やスーツにも似た葬魔機関の制服の上に白衣を羽織るスタイルが彼女のトレードマークであり、今日も相変わらずの格好だ。
「起きたばっかりで悪いけど、メディカルチェックしてもいいかしら?」
「いつもなら、寝てる間に終わってるんじゃ……?」
「ああ、うん。今回は負傷者が多くてね……君の検査をしてる余裕がなかったのよ」
申し訳なさそうな表情の成実を見た隼人は、彼女の言わんとしていることを理解した。
隼人には常人よりも傷が早く治る特性があった。鋭利なナイフを思わせる魔獣の爪に切り裂かれても、止血であれば、ものの数分とかからない。完治とまではいかないが、大人しくしていれば、一〇分もしないうちに傷が塞がる。そのため、検査は他の葬魔士が優先されたのだろう。それは仕方ないことだ、と隼人は勝手に納得した。
「ああ、なるほど……そういうことですか。大丈夫です」
「理解が早くて助かるわ。じゃ、早速だけど始めましょうか」
言うが早いか成実は検査に取りかかり、隼人の状態を手際よく確認する。簡単な問診と触診、レントゲン撮影やCTスキャンといった一般的な検査に加え、体内の瘴気による汚染状況を測定する瘴気汚染度の測定や魔獣による侵蝕状況の確認等、葬魔士として必要な検査を行っていく。そうして三時間ほどでメディカルチェックは完了した。
「ちょっと待って……今、まとめちゃうから」
カーテン越しに成実の声が聞こえた。検査を終えて病衣を脱いだ隼人は、用意されていた葬魔機関の制服に着替えていた。すると、普段は着替えの中に用意されている右腕に着用する手甲がないことに気付く。
「先生、手甲はないんですか?」
「ああ、予備が一つあったんだけどね。君が眠っている間に、支部長が持ってちゃった」
「持ってちゃった……?」
成実の軽い声に釣られるように、どこか気の抜けた声で隼人が返した。
「ええ。右腕の状態が安定してるから、別の人に使わせるって」
「誰が使うんだ……? 俺の腕に合わせて作ってあるのに……」
「さぁね、私は聞いてないわ。なんか急いでる様子だったから、理由も聞けなくて……」
疑問は残るが、ないものは仕方がない。着替えを終えた隼人がカーテンを開けて机の方に目を向けると、成実はノートにペンを走らせていた。
彼女に近づいた隼人は隣の丸椅子に座り、そっとノートを覗く。日本語で書かれているはずのその字は、遠い異国の文字のように達筆すぎて内容が読み取れなかった。おそらく成実自身にしか読めないであろうこのノートは、ある意味で患者のプライバシーを守るにはちょうどいいのかもしれない。
机の上にはパソコンがあるのだが、画面はデスクトップのまま、操作されていない。パソコンの隣にはブックエンドに支えられた資料やノートが林立しており、その隣で規則正しく秒針を鳴らす小さな時計に目をやると、八時を回っていた。
「俺はどのくらい眠っていたんですか?」
「えっと、そうね……ここに運ばれてから大体五〇時間ってとこかしら」
「そんなに」
「仕方ないでしょ……戻ってきたときは、本当にもう酷い状態だったんだから。あたしとしては、もっとゆっくり休んでいてもいいと思ったんだけどね。秋山君もそうだけど、君も無理しすぎ」
「そういえば、秋山さんは……?」
「命に別状はないわ。ただ、しばらく戦線復帰は無理ね……彼、生体義足使ってるでしょう? 運悪く傷から瘴気に汚染されててね。汚染が酷かったから、新しいものと取り替えたわ。そういうわけで、義足が馴染むまでは安静にしてもらわないといけないの」
生体義足とは本人の細胞から抽出した遺伝情報を利用し、生成、培養した特殊な細胞を用いて作られた生きた義足のことである。
義足の他にも、義手や義眼、臓器等が存在し、必要に応じてその部位を作成することが可能であり、細胞内に含まれている遺伝情報を利用するため、拒絶反応が起こりにくく、本来の肉体と変わらない使用感が特徴である。
ただし、生きた細胞を用いていることから、既存の義足に比べて繊細なうえに、高価であるという欠点があった。
生体義足を取り替えたばかりの圭介は、血管や神経の接続が安定するまで、絶対安静が求められることだろう。
「そうですか……」
「今回の任務がどれだけ過酷だったか、秋山君から話は聞いてるわ。だから、これは仕方のないこと、だったのでしょうけど……」
そう呟いた成実はノートからペンを離して椅子にもたれかかり、深く息を吐き出した。思い悩むようにノートを見つめ、じっと黙り込む。
沈黙という言葉とは無縁な彼女が見せたその姿は、これから告げられる言葉がいかに深刻なものか、嫌でも予感させるものだった。
「……先生?」
「一応、確認なんだけど……右腕、使ったのね?」
「はい」
「そっか、使っちゃったか……」
「……侵蝕が進んでいるんですね?」
成実はパソコンを操作して、三枚のレントゲン写真を画面に映し出した。左右に並べられた三枚の写真のうち、中央と右の画像は右腕に異様な白い影が映っていた。
「左が通常の成人男性のレントゲン写真、真ん中が出撃前の君の、そして右が……」
「今の俺、ですね」
そのレントゲン写真は明らかに異常だった。樹木に絡みつく蔦のように、白い影が腕の骨に絡みつき、肩から首、そして肺の付近へとその先端を伸ばしていた。
「そう、封印を解く前は指先から肘が侵蝕範囲だったけど、解いた後は首、そして肺にまで到達してる。表面上はさほど侵蝕が進んでいないように見えるけど、体内は魔獣化が著しく進行しているわ」
「あと、どのくらい俺は生きていられますか? その、人間として……」
「……」
画面から目を離した成実が隼人の方を向く。その目は本当に聞きたいのか、と隼人に問いかけていた。
「先生……?」
答えを促すように隼人は成実に声をかけると、彼女は観念した様子で深い溜め息を吐き出した。
「……あと一年、ってところかしら」
「――っ!」
覚悟していたとはいえ、改めてその余命を告げられた隼人は、衝撃のあまりに絶句する。
「あと一年、それが俺に残された時間……」
そうして目を伏せた隼人は、自分に言い聞かせるようにぽつりと呟いた。
「隼人君、君の余命は確定したわけじゃない。侵蝕をうまく抑制できれば、君はもっと長く生きられる。今だって封印のおかげで侵蝕の進行は、ほぼ停止した状態よ」
「……」
隼人の右腕に視線を向けた成実は、驚きを隠すように口元に拳を押し当てる。
「でも、正直こんなに侵蝕が進むと思わなかったわ。因子の活性化がここまで影響を与えるなんてね……」
「右腕を使ったから、か……」
「そうね。それも大きな要因だけど……君、今回の任務で傷を負ったでしょう? それも相当な深手を」
「ええ、まぁ……」
「どうしてそんな深手を負ったのに、君は戦うことができたのかしら?」
曖昧に返した隼人を追及するように、やや尖った口調で成実は彼に尋ねた。
「……魔獣の因子が傷を治したから、ですか」
「そう。君の傷が早く治癒するのは、侵蝕による副作用なの。意図的に力を使わなくても、傷を負えば魔獣の因子が強制的に傷を治す。でも、それは人間としてじゃない。治癒した箇所は魔獣の肉体として置き換わっていく。要するに傷を負えば負うほど侵蝕が早まるってこと」
「……」
「右腕の使用と全身の負傷……それが今回、侵蝕が著しく進んだ要因ね。今回は封印が間に合ったから、その程度で済んだの。でなければ、今頃とっくに魔獣化してたわ……今後は安易に封印を解こうとしないことね」
「もし、また封印を解いたら……どうなります?」
隼人の問いを聞いた成実は、愚問だ、と言わんばかりに横目で視線を投げた。
「今度こそ、君は魔獣に成り果てる。再び封印を施しても、きっと間に合わないでしょうね」
「……」
「だから、封印は解かないこと。あと、なるべく怪我をしないこと。擦り傷とか、ちょっとした切り傷くらいなら大丈夫だと思うけど、命に関わるような深手を負うと、宿主を生かそうとして因子が活性化するわ」
「こんな状態じゃ、本当なら引退を勧めるところなんだけど……」
言い淀んだ成実は、探りを入れるような視線を隼人に向ける。彼は膝の上に置いていた右手を胸の高さまで持ち上げ、その手の平をじっと見つめた。
「俺は、まだ剣を置くことはできません。ここで戦うことを止めたら、俺が今まで犠牲にしてきたものが無意味になる。それは……それだけは、してはいけないと思うんです」
喉の奥から絞り出したような彼の声は力がなかった。しかし、それでもその声にはそうしなければならない、という確かな意志があった。
「俺がこうして生きていられるのは、先生も含めて色んな人の世話になったからです。まだ命があるなら、俺にできることでその恩に報いたい」
そう言った隼人は、見つめていた右手をゆっくりと握る。それはまるでその手に乗った小さなものを、落とさないように包み込むような動作だった。
斬魔の剣士をご愛読いただき、ありがとうございます。
予告ですが、二章冒頭は支部内での会話が続き、戦闘シーンはしばらく後になります。
また、話は変わりますが、一章と二章では、隼人の口調に違和感があるかもしれません。
本編ではまだ触れてませんが、彼は圭介以外の年上、目上の相手には、敬語や丁寧語を使います。これは後々、補足が必要ですね。
2023/05/29 改行修正しました。