EP32 禁忌の代償
美鶴と圭介は瘴気の暴風が静まったのを見計らって、コンテナから姿を現した。
周囲を見渡した圭介は、後頭部に手を当てて、呆れたような声を出す。
「これはまた、酷いね……」
倉庫の建屋は、隼人が力を解放した余波で窓と天井が吹き飛んでいたが、獣鬼を倒した一撃は、残った壁をも薙ぎ倒し、柱をへし折り、積み重なっていた資材を消し飛ばして見るも無残な瓦礫の山へと変えていた。
瘴気の暴風によって、あれだけ燃え盛っていた炎はかき消され、燻る残り火と立ち上がる煙が火災のあったことを示していた。
偽装拠点一帯を包んでいた紺色の瘴気は夜の闇に溶けるように霧散し、大気は雨上がりの清浄な空気へと戻っていた。空を覆っていた暗雲が途切れ、雲の隙間から丸い月がその姿を覗かせる。
「長峰さんはどこに……?」
獣鬼と闘っていた隼人の姿が見えないことに気付いた美鶴が、圭介に問いかける。
圭介は月明かりに目を凝らすと、潰れたコンテナに寄りかかって座り込み、眠るように俯いている隼人を見つけた。
「いた、あそこだ」
「長峰さん!」
駆け寄りながら美鶴が名前を呼ぶと、その声を聞いた隼人がゆっくりと顔を上げた。
「獣鬼は倒したぞ……」
「うん、よくやった。これだけ派手にやったんだ……直に他の葬魔士が来るだろう」
圭介が隼人に近づいて、静かにそう言った。
その言葉を聞いて安堵したのか、頬を緩ませた隼人が穏やかな口調で呟く。
「そうか、なら秋山さんたちは帰れるな……」
「長峰さんも帰れるんですよ。あとはゆっくり休んで……」
隼人に労いの言葉をかけた美鶴は、彼が左手で抑え込むように掴んでいる右腕が、黒く染まったままだと気付く。
それどころか腕の血管が鈍く赤く明滅し、黒く焼け焦げたような魔獣の侵蝕が徐々に腕から肩に広がっていくように見えた。
「侵蝕が止まらないんですか……?」
「封印を解いたからね、こうなることは分かってたんだろう?」
「あぁ、覚悟はしていた……」
右腕に視線を落とした隼人は自嘲気味に笑みを浮かべ、吐き捨てるようにそう言った。
「そんな……どうにかできないんですか?」
「僕にできることは、これだけだ」
腰のホルスターからベレッタM9A3ハンドガンを抜き、スライドを引いて薬室に初弾が装填されていることを確認すると、隼人の心臓に向けて狙いを定める。
「なっ……! ちょっと待ってください!」
圭介の行動に驚いた美鶴が、銃を構えた彼を慌てて止めようとする。
「長峰さんを撃つんですか!?」
「うん。こうなってしまった以上、彼にとっての救いはこれしかない」
「救いって……本気ですか?」
「魔獣化の進行を抑える術がないんだよ……僕も他の手段があるなら、そうしたい」
問い詰める美鶴の瞳から逃れるように圭介は目を逸らした。
言い争う圭介と美鶴に、隼人が顔を上げて他人事のように呟く。
「悪いが、自分の手で始末をつけるのはどうやら難しいみたいだ。手を煩わせてすまないが、俺を殺してくれ……俺が、俺でいるうちに……人であるまま、死なせてくれ」
額に血と脂汗を滲ませて、息も絶え絶えに隼人が懇願する。
右腕の裂けた血管を押さえる左手の下から血が流れ、腕を伝って床に滴り落ちたその血から紺色の瘴気が湯気のように立ち上り、瘴気が床を這うように広がっていた。獣鬼を倒すために吸収した瘴気が、隼人の意志では制御が効かなくなっているのだ。
「あぁ、分かってる……何か言い残すことはあるかい?」
「特にない。強いて言うなら、世話になった」
「僕も君には世話になった……ありがとう」
礼を言った隼人は瞳を閉じて俯き、どこか安らかな表情を浮かべる。
圭介は溢れ出た瘴気から数歩距離を取ると、ゆっくりとハンドガンを構え直して、隼人の心臓に狙いを定める。
引き金に指を添えると、あの獣鬼を狙っていたときでさえ、震えることのなかった指先が細かく震えていることが分かった。納得して銃を構えたつもりだったが、心のどこかで彼を撃つことに躊躇いがあったのだ。
圭介は心の迷いを振り切るように一度目を瞑って深呼吸をする。あれは魔獣だ、と自身に言い聞かせて、指先の震えを無理矢理打ち消す。
再び瞼を上げた圭介の指にもう震えはなかった。静かに息を吐き出しながら、徐々に引き金を引き絞っていく。
銃口が火を噴き、弾丸が発射される――――その直前。
美鶴が射線を割り込むように圭介の前を横切ると、瘴気の霧に沈む隼人へと近づいていった。
引き金から指を離し、銃口を逸らした圭介が、美鶴に向かって叫ぶ。
「危ないな! 撃たれたいのか!?」
「……」
警告が聞こえていないのか、あるいは聞こえていても無視しているのか、美鶴は迷いなく隼人に歩み寄っていく。
「美鶴ちゃん! 近づいたらダメだ……」
頑として進み続ける美鶴を引き戻そうとしたが、濃い瘴気のせいで圭介は咳込み、二人から距離を取らざるを得なくなる。
「俺に近づくな……俺はもうここで終わりだ」
自分に近づく足音を聞いて、隼人は俯いたまま呟くように言い放つ。
瘴気に覆われた床を意にも止めずに近づいた美鶴は、コンテナに寄りかかって座る彼の右側に立つと、膝を折って隣に座った。
隼人は力を振り絞って重い顔を上げて、自分の傍らに座った美鶴を見た。彼女は悲痛な表情の中にどこか責めるような瞳で、隼人を真っ直ぐに見つめていた。
「ここで終わり……ですか」
「ああ……」
「長峰さん、ここで死んだら……私、あなたを一生許しません」
「え……?」
「あなただって自分を庇って目の前で亡くなった人を想って、ずっと後悔してきたんでしょう。ずっと苦しんできたんでしょう……私にも同じ思いをさせるつもりですか?」
「秋山さん、余計なことを……」
圭介を責めるように視線を送った隼人は、深く息を吐き出して足元にその視線を落とす。彼は口では非難していても、その口調には怒気は含まれていなかった。
そんな隼人をしっかりと見据えて、美鶴ははっきりとした口調で彼に告げた。
「命が助かっても、助けた人がいなくなって、その死を背負って生きる辛さをあなたは知っているでしょう」
「私を守って死ぬことがあなたの贖罪だって言いましたよね?」
「それは、違うと思います」
「え……?」
「あなたがもし、罪の意識を感じているなら、生きてください。死んで楽になるなんて、罰から逃れようとしているだけじゃないですか……」
「……」
「もっと悩んで苦しんで、最後まで生きて戦ってください……それが、あなたの贖罪です」
隼人の目がまるで天啓を受けたかのようにはっと見開かれ、美鶴に向けられた。そんな隼人の目を見つめて、美鶴は優しく微笑むと言い聞かせるように語りかける。
「私は、あなたが悪いと思っていません。きっとあなたを庇ったその人も一緒です。長峰さんを一番責めているのは、きっと自分を許せない長峰さん自身だから……」
「だから、それを許すことができるのは、私じゃない。その罪を許すことができるのは、長峰さん……あなただけなんです」
「…………!」
美鶴の言葉を聞いていた圭介が、彼女の言葉を反芻するように小さく頷くと銃口を下ろした。
隼人は叱られた子供のようにばつの悪そうな顔をして、目を伏せた。
「私は、いつかあなたが自分を許せる日が来ると信じています」
「俺は……」
美鶴の諭すような言葉を聞いた隼人は、心を揺さぶられたように躊躇いを見せる。
そして彼女に言葉を返そうとした時、肩から胸に進んだ侵蝕によって魔の根が肺まで伸び、肺を焼かれるような激痛を隼人は味わった。
「ぐぅッ……!」
「長峰さん!?」
「隼人君!?」
つい今しがたまで沈みかけていた隼人の意識が、激痛によって急速に鮮明になった。歯を食いしばって苦しみながら、左手で掻きむしるように右胸を力強く鷲掴みにする。
「そんな日は来ない……俺は、俺に裁かれる」
侵蝕の進んだ瘴気の溢れ出す黒い右腕を見せつけるように美鶴の前に持ち上げる。
その腕を見つめた美鶴はゆっくりと両手を伸ばし、隼人の右手を包むようにそっと手を重ねた。すぐさまその手が隼人に宿った魔の力に侵蝕され、木の根のように皮膚の下を這って、美鶴の白い手を侵していく。
「うっ……」
痛みに耐えきれず苦悶を漏らし、美鶴は顔をしかめる。
隼人は予想外の行動に出た美鶴の手を、慌てて振りほどこうとするも、優しく包まれた右手はその両手から逃れることを拒むように、吸い付くように動かなかった。
「な、何やってんだ! 手を離せ!」
「美鶴ちゃん、離れるんだ! 君も死ぬ気か!」
「もし、私にあなたたちの言う力があるなら……魔獣に侵蝕されたこの腕だって鎮めることができるはず……!」
「無茶だ。下手したら死ぬよりも悲惨なことになるぞ……お前はそれでもいいのか」
動揺しながら問い詰める隼人の目を見て、美鶴は静かに、それでいて力強く答える。
「よくないです。でも、長峰さんだって自分が魔獣になってしまうことを覚悟してこの力を使った……だから、今度は私の番です」
美鶴はそう言うと、瞳を閉じて深く息を吐き出し、隼人の右手を包んだ両の手をそっと握り締めた。
「お願い、止まって……」
「……」
「駄目だ。駄目なんだよ、もう」
二人から目を逸らした圭介が吐き捨てるように呟く。
美鶴は圭介の言葉を否定するように、握った手に力を込めようと前屈みになると、顔が自然と隼人の右手に近づくようになり、唇が指に触れるほど間近に迫った。
「私を助けてくれた人がいなくなるなんて嫌なんです。だから、お願い。どうか止まって……!」
少女によって捧げられたその祈りは、清浄な調べを奏でて夜の静寂に凛と響く。
その祈りがまるで天に届いたのかのように、雲間から月光が降り注ぎ、二人を照らす。
祈りを捧げる少女の姿が月明かりに彩られ、思わず隼人は目を奪われた。
月の光を浴びて輝くように浮かび上がる瞳を閉じた少女の端正な顔立ちとそれを縁取る黒い絹のような長い髪、白く細長い指先――その幻想的な光景は侵蝕の痛みを忘れるほど美しく、右腕を焦がす魔獣の荒ぶる魂が宥められ、鎮まっていくのを隼人は身を以て感じた。
「痛みが……侵蝕が止まった……」
魔獣の侵蝕が抑制されたことで隼人の周囲の瘴気が薄くなり、どこへともなく霧散していく。
「もう、大丈夫です」
隼人の手をそっと離した美鶴が、微笑みながらそう言った。
「……あ、あぁ」
驚愕のあまり声の出ない隼人は、やっとのことで喉から声を絞り出してその声に答えた。
隼人は信じられないもの見るように、侵蝕の止まった自分の右腕をしげしげと見つめる。
右腕はかつて噛まれた箇所こそ傷痕が残ったままであるが、力の解放によって侵蝕が広がっていた箇所は漆黒の痣が消えており、以前のように封印が施された状態に戻っていた。
「馬鹿な……こんなことがあるのか……」
隼人の驚きは圭介にとっても同じだった。魔獣を呼び寄せる念信使いは珍しくないが、魔獣による肉体の侵蝕を念信で鎮めた者など聞いたことが無く、一〇〇〇年以上続く葬魔機関の歴史でも圭介が覚えている限り、前例が無い。
「奇跡だ……」
圭介には目の前の現象をそう形容するしかなかった。
彼とて歴戦の葬魔士である。人の理から外れた超常の存在である魔獣と長年戦ってきた彼はいくつも不可思議な現象を目にしてきたが、美鶴の力は驚愕に値するものだった。
驚きに目を見張る圭介の眼差しの先にいた美鶴は、いきなり力が抜けたように崩れ落ちる。
「お、おい。しっかりしろ」
頭から倒れ込みそうになった美鶴を、隼人が慌てて両腕で抱えて受け止め、たまたま視界に入った壊れた木箱の中にあった毛布を引きずり出すと、床の上に敷き、その上に彼女の体を横たえた。
「大丈夫かい?」
「分からない。どうやら眠っているみたいだ」
「彼女は、一体……」
眠る美鶴の顔を観察するように眺めながら、圭介は不思議そうに呟く。
美鶴の無事を確認した隼人は、安堵して深く息を吐き出し、立ち上がる。すると突然、彼の視界が歪み、世界が遠のくような感覚に陥る。
「んん……?」
額に手を当て、ふらつく頭を押さえようとするが、その手は力なくだらりと滑り落ち、隼人は頭から前のめりに倒れ込む。
今まで戦闘中だったために気が張り詰めていたが、戦いが終わったことでとっくに限界を超えていた肉体が休息を求めたのだ。
「隼人君、大丈夫か! しっかりするんだ!」
「……」
自身を呼ぶ声を聞いた隼人は沈む意識に抗おうとするが、その視界は彼の意志とは裏腹に閉ざされていく。
眠りに落ちるその間際、近づいてくる圭介の姿が見えたが、隼人はもう意識を保つことができなかった。
斬魔の剣士をご愛読いただきありがとうございます。これにて一章完結となります。
ここまでお付き合いいただいた皆様には、感謝の言葉をいくら並べても足りません。
さて、一章が終われば次は二章と続くのですが、次回の投稿までしばらく期間が空きそうです。
どうか気長にお待ちいただければ幸いです。
よろしくお願いします!




