EP30 絶対禁忌
「うぉおおおおおお!」
渾身の戦意を込め、聞く者を震わせる魂の雄叫びを上げて、隼人が立ち上がる。
魔獣を思わせる咆哮を耳にした餓鬼が、獣鬼が、美鶴が一斉に隼人に視線を集めた。
「長峰さん……?」
「……隼人君、なのか?」
隼人の大気を震わす咆哮が、気を失っていた圭介の意識を呼び覚ました。
圭介に念信は届かないが、喉が裂けんばかりの荒々しい叫びは、意識を失った者の目を覚まさせるほどの威力があった。
朧気だった圭介の意識は、隼人の右腕を視界に納めると急速に覚醒する。
「なっ! 封印が……!」
隼人の右腕から、紺色のドライアイスを思わせる気体が血と共に指先から滴り、床を這うように広がっていく。
それは奇しくも倉庫内を満たす瘴気と同じものだった。隼人はゆっくりと右腕を持ち上げ、上腕部の手甲の留め具に指をかける。圭介は隼人の意図を察して叫びを上げた。
「隼人君、ダメだ! それを使ったら、君は……!」
圭介の叫びを耳にしながらも坦々と留め具を外し続け、まるで禁断の扉に掛けられた錠前を外すかのように、ゆっくりとその戒めを解いていく。
「奴を倒すのに、今の俺達じゃ他に方法がない」
「俺は誓った。あの過ちを、あの後悔を二度と繰り返さないと!」
「冬木を、守り抜くと!」
そう言った隼人の目には、揺ぎ無い意志が見えた。
「長峰さん……」
「隼人君、いいんだな? 本当に……」
制止を促すような二人の声を聞きながらも、隼人は手を止めることなく、とうとう留め具を外し終えた。
「俺はもう目の前で誰かが犠牲になるのを見たくない! 誰かが犠牲になって後悔を抱えたまま生きていくというのなら、俺は……俺は、悔いの無い死を選ぶ!」
心の内を吐き捨てるように叫んだ隼人は、右腕を覆う手甲の端に手をかけると躊躇いを振り払い、刀を鞘から抜き放つかのように脱ぎ捨てた。
「あぁ……」
露わになったその右腕を見た美鶴は目を見開き、思わず口元を手で覆った。
隼人の右腕は、手首から肘の上まで焼け焦げて炭化したように黒く染まっており、手首付近についた噛み痕から、じわじわと瘴気が流れ出ており、大きく広げた腕を伝って、肘から滴り落ちた。
隼人の右腕を見た餓鬼が慌てふためき、獣鬼が一喝するように吠えた。
獣鬼は低く唸り声を上げ、隼人の右腕をじっと睨む。正体は分からずともあれは脅威であると魔獣の生存本能が警告した。一刻も早く殺さなければ、命が脅かされると歴戦の勘が告げている。
「グワァァァァァ!」
獣鬼は激しく吠えて、周囲の餓鬼に向けて隼人を殺すよう命令を出した。群れ長の命令に従い、無数の餓鬼が隼人目がけて駆けていく。
周囲に魔獣がいなくなった頃合いを見計らって、圭介が美鶴に駆け寄った。
「美鶴ちゃん、隠れるよ」
「長峰さんが!」
「彼は、右腕の封印を解くつもりだ」
「そんな、そんなことをしたら……!」
「いいから、早く隠れるよ。ここにいたら危ない!」
圭介は強引に美鶴の手を引いて、積み上げられた物資の影に隠れようとする。腕を引かれながら振り返った美鶴の視線が、隼人の視線と一瞬、交錯した。燃え盛る烈火のような激情を込めた瞳がその刹那、穏やかな微笑みに変わる。
「長峰さん……」
それは、尊いものを慈しむような優しさと命の終わりを悟って、諦めを受け入れた悲しみを秘めた静かな微笑みだった。
美鶴と圭介が隠れたのを見て、隼人は今一度、己に潜む魔獣の力を解き放つ決意を固める。
自らの息の根を止めようと迫りくる餓鬼の群れを一瞥すると、指揮者が指揮棒を振るように右腕で空を切り、右手を天高く掲げ、宙を掴む。
左手で右腕を押さえ、力強く掴んで保持する。
それはまるで目に見えない巨大な剣を振り下ろさんとするようだった。
吸い込んだ息を、振り絞るように長く深く吐き出す。既に封印の鍵は外された――あとは、その禁断の扉を開くのみ。
隼人はかつてこの右腕が魔獣を閉じ込めた檻であると言われたことを思い出した。なるほど、忌まわしき彼の獣は檻から解放されれば、己ごと眼前の敵を喰らい尽くすだろう。
「覚悟はいいな?」
魔獣に問うたのか、それとも己に問うたのか。呟くように問いかけた隼人の目に迷いはなかった。
隼人は己に潜む絶対の禁忌、魔に侵された右腕の封印に手をかけ――
「絶対禁忌……解!」
そう叫ぶと同時に、掲げた右腕を地に叩きつけるように振り下ろした。振り下ろされた腕の動きに従って空間が両断され、扉が開くように光が奔る。
閃光と轟音。
魔の右腕から瘴気が噴き出し、空気との摩擦によって生じた火炎は、爆風となって閉鎖空間を蹂躙する。
隼人の周囲に殺到していた餓鬼は爆風の奔流に耐えきれず、砂状に崩壊して消し飛ばされた。
圭介と美鶴は物資の影で身を縮めて、その暴虐の嵐が通り過ぎるのを待つ。目も眩む閃光と大気をも焦がす熱により、永遠に続くと思われた洗礼は、まるで夢幻であったかのように唐突に終わりを告げた。
圭介と美鶴は恐る恐る物資の影から身を出して、周囲の状況を確認する。
「どうなったんですか……」
「分からない。餓鬼はもう、いないみたいだ」
二人が隠れていた場所を避けるようにコンクリートの床がVの字に煤けていた。
積み上げられた物資に掛かった防塵シートが燃えており、ぱちぱちと木箱が爆ぜる音がする。
爆風により窓はおろか天井も吹き飛び、瘴気の闇を照らすのは至る所で燃え盛る紅蓮の炎だった。
その炎に囲まれるようにして、獣鬼と隼人が対峙していた。
獣鬼は体の表面が燃えて、体表の毛が粗方無くなっていたが、未だ健在であった。
隼人は振り下ろした右腕を左手で押さえて、険しい表情をしている。彼の右腕を目にした美鶴はすぐにその異変に気付いた。
漆黒の右腕に浮かび上がった血管が、まるで暖炉の炭が燃えるように微かに光る赤い輝きを湛えていたのだ。
「ぐっ……」
隼人が痛みに耐えるように歯を食いしばって、悶える。
肘の上――まだ正常な上腕部に延焼するように、皮膚の下に透けて見える血管が赤い光を帯びていき、焼け焦げたように肌が黒く染まっていく様は、まるで火の点いた導火線を思わせた。
「右腕が、燃えてる……?」
「違う。侵蝕が進んでいるせいでそう見えるんだ」
「止められないんですか?」
「彼が望んだことだ。それに獣鬼を倒すには、もうあの力に縋るしかない……」
「長峰さん……」
美鶴は、隼人の身を案じて祈るように胸の前で指を組む。
その眼差しの先に立つ隼人は身を焼くような苦痛に耐えながら、懸命に意識を繋ぎ止めようとしていた。
傍から見れば、その男はもはや死に体である。魔獣の爪牙で切り裂かれ、あるいは抉られ、全身血塗れの傷だらけだった。
それでもなお彼が立っていることができるのは、呪いの象徴とも言える右腕の恩恵だった。頸木を解かれた魔獣の因子は、彼を己の器として染め上げようとその身を焼く灼熱と化して体内で燃え上がる。
血が沸き立ち、肉が焦げる。骨が灰となり、魂すら炭となる地獄の亡者の如き苦痛を味わいながらも、さらなる力を求めて深淵へと意識を深く沈めていき、魔の領域へと足を踏み入れる。
隼人が苦痛に耐えながら、右腕に意識を集中している一方で、獣鬼はただその様子を傍観していた。
腕を押さえ、目を瞑って苦しむあの男は無防備であり、もはや満身創痍の肉体はその命を絶つことは容易いだろう。
しかし、獣鬼の脚は動かない。いや、動けなかった。
隼人の腕を目にするまでは、捕食の欲求で頭が支配されていたが、あの得体の知れない力を目撃してから、その欲求はすっかり消え失せ、獣鬼の心は恐怖で満たされていたのだ。
餓鬼は隼人が力を解放した余波で消し飛び、獣鬼のみが生き残った。獣鬼は群れがいなくなった以上、もはや戦闘を続ける意欲は失せていた。
あの少女を喰わずに逃げ出すのは癪だが、生きていればまた襲う機会はある――そう考えた獣鬼は、隼人が動かない隙に瘴気の中に逃げ込もうとするが、先の爆風で瘴気が吹き飛ばされたことに気付いた。
「グゥオオオオオ!」
遠くまで轟く雄叫びを上げて、霧散した瘴気を呼び戻す。
夜の闇から染み出すように湧き出た紺色の瘴気が、獣鬼と隼人の足元に這い寄る。
獣鬼は肉体を霧の中に潜めようとして違和感を覚えた。瘴気が獣鬼を拒んでいるのだ。それは、城の主が入城を拒まれているのに等しかった。
獣鬼は困惑し、低く唸り声を上げる。つい先刻まで獣鬼の意のままに操られていた瘴気が、その主を変えて別の者に隷属しているのである。
それはまるで城を奪われ、亡国の王となった暴君の様相だった。鉄壁の守りを誇る要塞も、城を攻めてくる軍勢を滅ぼす兵器も何もかも奪われたのだ。
静かに渦巻く瘴気の中心は、隼人だった。
彼の右腕目がけて瘴気が押し寄せるように集まり、緩やかに漂う。
眠りから覚めるようにゆっくりと目を開けた隼人が、翼を広げるように右腕を大きく振るった。その動きに合わせて、周囲の瘴気が従者のように追随する。
獣鬼はこの空間の支配者が変わったことを、身を以て実感した。瘴気によって守られていた獣鬼は、瘴気によってその身を滅ぼされるのだ。