EP03 魔の呼び声
ふと、声が聞こえた。遠くから誰かを呼ぶようなそんな声だった。
喫茶店の窓際の席に座っていた少女――冬木美鶴は、携帯電話の画面から顔を上げて学生の多い店内を見回すが、声の主は分からなかった。きっと気のせいだったのだろうと自分に言い聞かせ、コーヒーカップに手を伸ばした。
コーヒーを一口飲んで窓の外を見ると、すっかり雨が上がっていた。ネットニュースを閲覧している内に、いつの間にか雨は降り止んでいたようだ。
雨雲のせいで薄暗かった表通りは普段よりも早く街灯が点灯し、とっくに夜の街へ移り変わっていた。雨宿りのつもりで喫茶店に立ち寄ったが、思いの外長居してしまったらしい。
大きなガラスにうっすらと映った自分の姿に気付き、外の景色から自分へと焦点を変える。化粧気のない顔とそれを縁取るような黒い髪は胸元まで伸び、飾り気の無い白いブラウスの上に垂れている。ベージュのスカートから伸びた足を組み替えてカウンターテーブルに肘をつくと、肩にかかった髪の毛の先を指で摘まみ、絡めるようにして弄んでわずかに吐息を漏らす。
厳格な祖母が元気な頃だったら、喫茶店で雨宿りして遅くなった、などと言ったら散々に文句を言われたことだろう。
幼い頃に両親を亡くした美鶴にとって、唯一の身内だった祖母が亡くなってから二ヵ月が経った。冠婚葬祭の右も左も分からない美鶴は、親切な親類の手助けもあってどうにか弔事をこなすことができたが、次々に迫られる役所や銀行への書類の提出や手続きに追われ、悲しむ暇もなかった。やっと一段落できるようになったのは、四十九日を終えてからのことだった。
息つくゆとりができるようになって考えるのは、学生としての生活である。進学し、学生として新たな生活を歩もうとしていた矢先に訪れた不幸によって、美鶴は希望に溢れた周囲の学生との隔たりを感じてしまっていた。共に進学した友人もいるが、彼女たちはすでに新たな環境に馴染んでいる。そんな彼女たちと会話をしても、どこか疎外感を感じる自分がいた。一応、学生の本分として講義は出ているものの、今一つ身が入らなかった。
果たしてこのままでいいのだろうか、と何度目になるか分からない溜息を吐き出して、ぼんやりと外の景色を見つめる。
「……?」
不意に美鶴は自身に向けられた視線を感じた。それは喫茶店の外からだった。視線の主を探して車道を挟んだ反対側の歩道を歩いている人々に目を向けた。
駅から出てきたと思われる彼らはただ、家路を急いで足早に通り過ぎていくだけだ。しかし、その中に奇妙な人物がいた。
灰黒色のコートを着た人物だった。フードを目深に被っており、その表情は全く見えない。背が高く肩幅の広いがっしりとした体格は男性のものだ。男は人の流れなど気にも留めない様子で歩道に立ち止まって、じっとこちらを見つめていた。
きっと店内の様子を見ているのだろう、と思った美鶴は気付かないふりをして男から視線を外し、手元の携帯電話に目を移す。しかし、あの男からの視線は途切れない。どうにも気味の悪い美鶴は、ちらりと目だけを動かして盗み見ると、やはり男はこちらを見つめていた。それはまるで獲物を狙う肉食獣のような威圧感があった。
顔こそ隠れて見えないが、真っ直ぐ射貫くようなその視線は、疑う余地もなく美鶴に向けられている。胃を掴まれるような腹の底から迫る恐怖を感じた美鶴は、慌ててその男から目を逸らした。
「…………っ」
得体の知れない男に凝視されるその恐怖から、携帯電話を持つ手が震えた。顔を俯かせて目を瞑り、暗雲が通り過ぎるのを待つかのように男の気配が遠ざかるのを待つ。
すると突然、男からの視線がぷっつりと途切れた気がした。意を決して恐る恐る顔を上げると、向かいの歩道には相変わらず帰宅途中の人々が歩いている。しかし、その中にあの男の姿はなかった。まるで元々、そこには誰もいなかったかのように、忽然と姿を消している。
「……はぁ」
重圧から解放された美鶴は深い溜息を吐き出した。あの男は幻だったのだろうか、と自身に問いかけるも、その答えは出ない。ただ、胸の内に渦巻く不安だけがその痕跡として残っている。
気分転換に飲みかけのコーヒーを口に運ぼうとした美鶴は、カップの中で揺れるコーヒーを見つめ、途中で手を止めてしまう。喉が詰まるような閉塞感があり、どうにも飲み込める気がしないのだ。
カップをぼんやりと見つめる彼女の耳に新たな客の来店を告げる鈴の音が届き、物思いに耽っていた美鶴は現実に引き戻された。いつまでもここにいるわけにもいかない。
雨宿りの必要がなくなった美鶴は携帯電話を鞄に入れると、カップの乗ったトレイを返却し、陰鬱な表情で喫茶店を後にした。




