EP28 蘇る悪夢Ⅱ
一方、獣鬼は美鶴たちに向かってゆっくりと近づいていた。
圭介は美鶴を庇うように彼女の前に立ち、ライフルによる射撃で応戦していたが、獣鬼は歩みを止める気配がない。
結界を破壊したときには、胴体を撃つと怯んでいたが、今の獣鬼はまったく動じなかった。有効打であった口腔への狙撃は鋭く太い歯に阻まれ、銃弾と歯がぶつかる甲高い音を響かせるだけだ。
「効果なし、か……」
撃ち尽くした弾倉を交換する間も惜しい圭介は、ライフルを足元に投げ捨て、背中のショットガンを手繰り寄せ、構えると同時に連射する。獣鬼の目を狙って次々に撃ち込むも、焦った手元では正確な射撃など望むべくもない。とうとう手の届く範囲まで近づいてきた獣鬼は、美鶴目掛けて手を伸ばした。
「美鶴ちゃん、下がるんだ!」
美鶴を守るために彼女の前に割り込んだ圭介は、獣鬼の剛腕で薙ぎ払われ、鮮血を撒き散らしながら床を転がった。
「秋山さん!」
美鶴の悲鳴じみた呼び声が空しく響く。
獣鬼の爪は一本一本が隼人の大型ナイフのように鋭く長いうえに、腕は丸太のような太さである。その爪で薙ぎ払われては常人ではひとたまりもない。圭介は床に突っ伏したまま動かなくなった。
獣鬼の前に美鶴を守る者はもういない。獣鬼が歪めた口から涎を垂らしながら、ゆっくりと美鶴に手を伸ばす。
美鶴は後ずさってその手から逃れようとしたが、すぐさまその背中は壁にぶつかった。
左右を見渡し、逃げ場を探そうとするが、瘴気の中から現れた無数の餓鬼が美鶴を囲んで退路を塞いだ。獣鬼が近づくと、美鶴を囲んでいた餓鬼が包囲を緩め、獣鬼の花道を作った。
ゆっくりと近づいた獣鬼は美鶴の体を固定するように覆い被さって両の手を壁につけると、鼻を体に近づけて匂いを嗅いだ。
「うぅ……、あっ……ん……」
獣鬼を拒むように身を捩るが、かえってその動作が獣鬼の興奮を煽った。
荒い息を吐きながら、美鶴の体に鼻を密着させ、腿から股座、腹部から胸部、そして首から顔へとその輪郭をなぞるように丹念に鼻を這わせて彼女の反応を愉しむ。
美鶴の匂いを堪能した獣鬼は口腔から生臭い吐息を漂わせ、赤く太い舌を伸ばしてきた。
「いや、やめて……」
唾液でぬめりを帯び、怪しい光沢を放つ舌が美鶴の頬を目指して伸びてくる。少しでも舌から遠ざかろうと、目を瞑って顔を背けるが、じわじわとその先端が迫ってくる。
獣鬼の舌先が美鶴の頬に届く――その瞬間、獣鬼の背後の資材を足場にして隼人が飛び上がり、真上から獣鬼の舌に刀を投げ刺した。
如何に堅牢な肉体を持っていても、舌は柔らかい。鍔まで深々と刀が突き刺さった獣鬼は激痛に悶え苦しみ、美鶴の拘束を解いた。
刀を投擲した隼人は、美鶴と獣鬼に割って入るように着地すると、大型ナイフを右手で腰から抜き放ち、逆手に構えた。美鶴の眼前に立つ隼人は自身の血と魔獣の血で全身が真っ赤に染まっていた。その様相から繰り広げられた激戦を想像して、美鶴は息を飲む。
「長峰、さん……!」
「守ると言っただろう」
「……はい」
舌に突き刺さった太刀を抜こうと獣鬼が錯乱して暴れる。巻き込まれないように餓鬼が慌てて離れ、美鶴を取り囲んでいた包囲網が崩れた。
「今だ! 離れろ!」
「は、はい!」
隼人の合図に従って、そのわずかな隙間から美鶴は転げるようにして群れから逃れる。
「グゥオオオオオオオ!」
獣鬼は突き刺さった刀を太い指で引っ掛け、舌が裂けるのも構わず、強引に引き抜いた。力任せに抜いた刀を掴んだ獣鬼は片手で刀を握り潰し、床に投げ捨てる。
予想外の奇襲による痛みと至福の時間を隼人に邪魔されたことで、獣鬼の相貌が憤怒に染まった。怒りの咆哮を上げた獣鬼は、美鶴が逃げ出したことに気付く。
悦楽の時間を味わう前にこの闖入者を始末せねば、と獣鬼は思考を切り替えると、隼人を攻撃する標的に定めて爪を振り上げた。
群れから逃れた美鶴を目の端で追っていた隼人は、彼女から自身の武装に目を走らせる。隼人の装備で残っているのは、手の内にある大型ナイフと投擲用の短剣のみ。そのいずれも獣鬼には有効ではないが、他に使える武装は残されていない。
どれだけ餓鬼を倒しても、瘴気のある限りいくらでも獣鬼が呼び寄せる。故に、群れの長である獣鬼を倒さなければ、無意味である。
護衛の餓鬼は獣鬼が暴れていたために距離が離れており、今なら守る者はいない。怒りに任せた大振りな獣鬼の爪を躱せば、おそらく隙が生まれるだろう。
手段は限られているが、一か八か勝負に出るしかないと判断した隼人は、振り下ろされた爪を紙一重で躱し、心の臓に狙いを定めて間合いに飛び込むと、大型ナイフの刃先を力一杯獣鬼の胸部に叩き込んだ。
「ちっ、浅い!」
しかし、渾身の力を込めた突きは獣鬼の胸部に刃先がわずかに食い込むだけであり、その傷は浅かった。
獣鬼に尾で叩き付けられ、餓鬼に体のあちこちを食い破られた満身創痍の隼人には、刃を突き刺すことができるだけの力が残っていなかったのだ。
攻撃の失敗を悟り、隼人は後方へ飛び退いて距離を取るが、背後から瘴気の中から現れた餓鬼が襲いかかる。
餓鬼の気配を鋭敏に感じ取り、その爪を咄嗟に身を捻って躱したが、これは獣鬼の策だった。
餓鬼の攻撃を無理な体勢で回避をした隼人は、無防備となり、機敏に迫ってきた獣鬼の攻撃に対して回避も防御も間に合わなかった。
「しまっ――――」
獣鬼は隼人の左腕を掴むと、無造作に床に叩き付けた。コンクリートの硬い床に背中から叩き付けられ、隼人は悶絶する。
「ぐはぁっ!」
「長峰さん!」
逃げようとした足を止めて振り返った美鶴の悲痛な叫びが隼人の耳朶を打った。
悶え苦しみ、体勢を崩したままの隼人に獣鬼が容赦なく怒りの鉄拳を叩き込む。二度、三度と拳が叩き込まれる度に隼人の体から骨の折れる音が響き、口や傷口から血を吐き出した。
「うぐぁっ……あっ、がぁ……」
隼人が何度も殴られる姿を見た美鶴は、思わず目を背け、あまりの光景に身を震わせた。
「あぁ、そんな……酷い……」
「グオウォォォォ!」
雄叫びを上げた獣鬼は太い脚を持ち上げると、鉄槌のように振り下ろし、隼人を踏みつけた。
「っはぁ、ぁ…………!」
コンクリートの床に亀裂が入り、細かな破片が地面を跳ねて隼人の体が地面に沈んだ。その体をこれでもか、と言うように何度も何度も踏みにじる。
「もう、止めて! お願い、だから……」
なおも隼人を蹂躙する獣鬼に向かって、美鶴は震える声で懇願した。さらに追撃を加えようとしていた獣鬼はぴたりと動きを止め、美鶴の方へゆっくりと振り向く。美鶴は胸元に手を当て、怯えながらも獣鬼の双眸を見据えて訴えた。
「あなたの狙いは私でしょう。私を、食べたいのでしょう……?」
「駄目、だ。ふゆ、き……」
隼人は、なんとか喉に力を入れて美鶴を止めようとするが、掠れた声は音にならない。伸ばした腕は空を切り、力なく落ちて床を這う。
美鶴と隼人の二人を交互に見比べた獣鬼は、裂けた口に喜びの笑みを浮かべて美鶴に向かって歩き出す。美鶴は迫りくる獣鬼から目を離し、倒れ込んだ隼人を見つめていた。
「いいんです、もう……これで、いい」
「よく、ない。こんな、こんなこと認めて、たまるか……!」
「私を食べれば、きっとあれは満足する。そうすれば、あなたはもう傷つかなくて済む……」
「駄目だ……俺は、まだ――」
隼人は途絶えかけた意識を懸命に繋ぎ止め、体中の至る所で感じる骨の砕けた痛みを無視して、倒れ伏した体を起き上がらせようと試みる。
軒先から落ちる雨垂れのように前髪から血の滴る重い頭を持ち上げ、霞んだ視界で声の方向へと頭を動かす。
そして、少女の顔に目の焦点を合わせると、彼の目が大きく見開かれ、その意識が急速に鮮明になっていく。
「ありがとう。さようなら……」
美鶴の頬は涙に濡れ、諦めを悟った悲しい笑みを浮かべていた。
それは隼人がいつか見た大切な人の最期と同じだった。彼が幼い心に二度と繰り返すまいと誓ったあの日の光景がそこにあった。




