EP21 瘴気を抜けて
隼人が会議室から廊下に出ると、それを見計らったかのように保管庫のドアが開き、圭介と美鶴の二人が現れた。
「すまない。遅くなった」
「こっちもちょうど支度が終わったところさ」
見せつけるように圭介が片手に携えたショットガンを持ち上げてみせる。愛用の対物ライフルはベルトで背中に保持されており、その動きに合わせて軽い金属音が鳴った。
圭介の支度は問題ないと判断して顔を巡らせた隼人は、どこか躊躇うように見つめる彼女の視線に気付いた。
声を可能な限り抑えて痛みに耐えていた彼は、よもや二人に声が聞こえていたとは思わず、そのまま何食わぬ顔で尋ねる。
「……どうかしたのか?」
「いえ、その……」
「……?」
話すな、と言われた右腕のことを聞きづらい美鶴は、目を伏せて口ごもる。そんな彼女を気遣うように圭介が一歩前に出た。
「隼人君、体は大丈夫かい?」
「ああ、大丈夫だ」
右腕か、背中の傷か隼人は言及しなかった。美鶴がいる手前、右腕のことについては隠しておきたいのだろう。やはり、他人に知られたくはないのだ、と圭介は隼人の胸中を見抜く。
「そうか……悪いけど、多少の無茶は覚悟してもらうよ」
「多少じゃないだろ、まったく」
呆れたように小さく息を吐き出した隼人が、肩をすくめた。ふっと漏らすように微笑んだ圭介が二人に向き直り、すぐにその笑みを掻き消して戦士の顔を作る。
「これから僕らは、瘴気の霧の中を抜けて、地下シェルターのある倉庫に向かう。途中、餓鬼の襲撃が予想されるけど、戦闘は最低限にするんだ」
「隼人君が先頭になって、道を切り開いてくれ。僕が殿になって後方をカバーする。美鶴ちゃんは、隼人君の背中を追っていけばいい。ああ、それと銃声に驚いても、足を止めないで。立ち止まれば、奴らに囲まれるからね」
「はい、分かりました」
「よし。じゃあ、行こうか」
「ああ」
事務所の玄関に向かった隼人たちは、窓から見える外の景色が一変していることに気付く。
結界が破壊された箇所から敷地内に瘴気の霧が流れ込んでおり、数メートル先を見通すことができないほどの深い闇を作り出していた。
「瘴気が濃い……そういえば、美鶴ちゃんの瘴気耐性はどうなんだい、隼人君?」
「冬木の瘴気耐性は秋山さんよりも高いぞ。公園でも瘴気に囲まれたが、咳一つしなかった」
「本当かい? それはすごいな。念信が使えて、瘴気耐性が高いなんて本部からお呼びがかかるレベルだよ」
「……?」
隼人と圭介の話についていけない美鶴は、きょとんとした顔で二人を見る。
「おっと、呑気に話してる場合じゃないね。これ以上、瘴気が濃くなる前に突破しよう」
「俺が先に出て合図をする。準備はいいか?」
大型ナイフを片手に携え、空いた手で玄関のドアを開けようとした隼人は、一度、振り返って二人に声をかける。美鶴が緊張した面持ちで返答し、圭介は手に持ったショットガンを腰だめに構えながら頷く。
「はい」
「問題ないよ」
「行くぞ!」
隼人がドアを開けるなり、足元が見えなくなるほど濃密な闇が、這うように屋内に流れ込む。こうなっては、もうこの建物の中にはいられないだろう。美鶴は、改めて死地を駆け抜ける覚悟を決めた。
安全を確認するため、事務所の外へと隼人が足を踏み出す。霧に包まれた偽装拠点は、周囲の世界から隔絶されているような錯覚を感じた。
外部からの音は一切、聞こえない。初夏の夜に響く虫の声や風の音、車の走行音といった瘴気の霧の向こう側で発生したであろう音は、すべて霧に飲み込まれているようだった。
澄ました耳に届くのは、自分の足音と霧に潜む魔獣の荒い息遣いだ。美鶴が事務所から出てくれば、魔獣はすぐに襲いかかってくることだろう。いや、事務所に留まっていても襲撃されるのは目に見えている。
辺りを見回した隼人は、まだ魔獣が現れないことを確認すると、片手を上げて後ろ手に手招きをした。
「よし、行って」
圭介に促された美鶴は無言で頷いて返し、隼人の近くへと歩み寄る。最後に事務所の外に出た圭介は、後方や背後の事務所の屋上から敵が来ないか確認しながら、二人に近づいた。
「小走りで行こう。離れないようにね」
「了解」
数メートル先も見えない紺色の霧の中を三人は小走りで進む。先導する隼人の背後を追う美鶴は、瘴気が濃くなる前には、それほど離れていなかったように見えたあの倉庫がとてつもなく遠くにあるように感じた。
事務所付近の駐車場を抜け、順路案内の矢印が舗装に描かれた通路を抜け、ようやく中間地点に差し掛かったその時、隼人が身を震わせた。
「来るぞ! 囲まれる前に走れ!」
「分かった!」
隼人が警告してから間を置かずに、周囲から足音が響いてくる。走る速度を上げて霧の中を駆け抜けるが、次第に足音が近づいてきた。一番近いその足音は隼人の正面から迫ってくる。
「はぁあああ!」
隼人は大型ナイフを逆手に構え、正面から跳びかかってきた餓鬼にすれ違うようにして斬りつけ、噛みつこうとした顎の下に刃を潜りこませ、力任せにその首を刎ねた。強引に薙ぎ払われ、隼人の進路から弾き出された餓鬼の亡骸は、霧の中で鈍い落下音を響かせた。
「秋山さん!」
「分かってる!」
隼人が前を向いたまま、殿の圭介に警告した。美鶴は背後をちらりと振り向くと、後方から餓鬼が圭介に跳びかかる寸前だった。
ショットガンを抱えるようにして走っていた圭介は、片足を軸に半身を引きながら、後方を振り向くと、腰だめに構えて餓鬼の胴を撃ち抜いた。まるでアイスクリームをスプーンですくったかのように脇腹を抉られた餓鬼は、たまらずに倒れ込むと、痛みに悶えて叫びを上げる。
その叫びが上がる前に、圭介は前を向いて駆け出す。止めを刺す必要はない。追跡する力を奪えばそれでいいのである。
再び走り出した圭介の左前方、美鶴の左側面で瘴気の霧が激しく揺らぐ。霧の中から餓鬼が飛び出す前兆だ。
「美鶴ちゃん! 左だ!」
「えっ……」
圭介の警告に慌てる美鶴の左側面から、新手の餓鬼が瘴気の霧を突き破って飛び付いてきた。反応する間もなく、餓鬼の牙が首筋に迫る。
「させるか!」
あわや餌食になるその瞬間、餓鬼の側頭部に短剣が突き刺さり、力なく路面を転がった。隼人が咄嗟に投擲用の短剣を投げたのだ。足を止めた美鶴に向かって隼人が振り返って叫ぶ。
「足を止めるな! 食われるぞ!」
「はい!」
「あと少しだ、頑張って走れ」
隼人の警告と激励に頷いて返し、美鶴は疾走する彼の背中を追って、必死に足を動かした。
霧の向こうに巨大な倉庫のシルエットが次第に浮かび上がってきた。この倉庫はあくまで地下シェルターの入口を偽装するものである。
大型トラックがそのまま入れるような巨大な電子式のシャッターに閉ざされた入口は、要人警護の装甲車や民間の大型バスの乗員が乗車したまま、施設に入れるようにするため設計されている。
遠隔の操作ができれば、事前に開けておくこともできたが、瘴気が流れ込む恐れがあるため、やはり直前までシャッターを開けるのは好ましくない。しかし、これからシャッターを開けるのでは時間がかかる。そのため、隼人と圭介が目指すのは、職員用の勝手口だった。
徐々に建物の輪郭がはっきりと見えはじめ、次第に詳細が見えてくる。高さ四メートルはあろうかという電子シャッターの隣に職員が出入りする勝手口が見えた。勝手口のドアノブには、身分証を読み込ませる装置が取り付けられ、電子的に解除する必要があることが窺えた。無論、悠長に鍵を外す暇などない。
「鍵を外してる暇はないな……!」
「今、開ける!」
ショットガンからライフルに持ち替えた圭介が、立射の構えをとり、ドアノブを狙って撃つ。粗い狙いであったが、目論見通りに鍵が吹き飛び、大きく穴の開いたドアが揺れた。
「このまま、蹴破れ!」
「承知!」
隼人は走る速度を上げ、ドアに跳び蹴りを叩き込んだ。蝶番の外れたドアが内側に倒れ込み、隼人は蹴破った勢いのまま、内部に転がり込む。
飛び込んだ倉庫の内部には、シャッターの内側に荷下ろしの空間があり、雑多にパレットが積まれていた。その奥にはもう一枚分厚い隔壁じみた扉があり、いわゆる二重扉になっていた。
一枚目のシャッターは外観を偽装するためのものであり、二枚目の扉こそが外部からの攻撃を防ぐ本命である。
体勢を立て直した隼人の耳に、けたたましく鳴り響く警報の音が突き刺さった。どうやら電子錠を破壊したことで防犯装置が作動したらしい。分厚い隔壁が軋む音を立てて、左右から閉ざされていく。
「まずいな……」
隼人の後を追って、倉庫の中に美鶴が駆け込む。上がった息を整えようと立ち止まる前に、隼人が閉まっていく隔壁を指差して叫ぶ。
「先に扉の向こうに行け!」
「は、はい!」
勝手口を振り返った隼人は、対物ライフルを抱えて走ってくる圭介を見た。一メートル前後の長さがあり、重量のある銃を二挺とその弾薬を携行する彼は、走る速度がどうしても遅くなる。追跡してきた餓鬼の一匹が見る間に距離を狭めてくる。
「くっ……追いつかれる!」
「任せろ!」
圭介の背中に迫る餓鬼目がけて、隼人は右手に握っていた大型ナイフを投擲した。ナイフは一直線に空を飛び、餓鬼の眉間に深々と突き刺さった。猛烈な速さで圭介を追っていた餓鬼は、その勢いのまま、路上を転がる。
霧の中から複数の気配が迫ってきたが、狭い勝手口に餓鬼が殺到すれば、詰まって追跡の速度が落ちる。もう追いつかれることはないだろう、と見越した隼人は勝手口から離れ、閉まっていく隔壁の手前で彼を待つ。
「閉まるぞ! 急げ!」
建屋に駆け込んだ圭介に叫ぶように警告した隼人は、銃を背負った彼を先行させ、大人一人がやっと通れるかどうかの隔壁の隙間に身を滑り込ませ、腕を挟まれそうになりながらも、すんでのところで通り抜けた。
重量物同士がぶつかる重低音を響かせて隔壁が完全に閉鎖する。侵入者を拒むそびえる隔壁を振り返った隼人は安堵の息を吐き出した。
「ふぅ……」
隔壁を通り抜ける直前、勝手口から侵入してくる数体の餓鬼が見えたが、厚さ六〇センチを超えるこの隔壁を突破することはできないだろう。しかし、結界を壊した獣鬼は別だ。旧式とはいえ対戦車ロケット弾すら防ぐ強固な結界を容易く突破したのだ。あれがここに来れば、この頑丈な隔壁さえも破壊されることは想像に難くない。急いで地下に向かう必要がある。