EP02 夜の訪れⅡ
それはヒトのカタチをしていた。痩せた四肢に出っ張った腹。闇のような瘴気に潜む内に退化したのか眼窩は窪んで暗闇が広がっており、口元から覗く牙は肉食獣のように鋭く尖っていた。
この怪物こそが葬魔士の存在理由、人の世を脅かす打ち倒すべき怨敵――魔獣だった。まるで絵巻物に描かれた餓鬼のようであることから、その魔獣は餓鬼と呼ばれた。
餓鬼は犬のように地面を駆け、弧を描くように隼人の右側面へと回り込む。隼人は慌てた様子もなくゆっくりと布袋の止め具を外し、中に入っていた刀を取り出した。
布袋を投げ捨てて鞘から刀を抜くと、鞘を放り投げ、刀を両の手で握り、餓鬼を正面に捉えるように体勢を変え、静かに腰を落として下段に構える。
餓鬼は彼の喉元に食らいつこうと約二メートル手前のところで跳躍した。隼人は牙を剥き出しにして跳びかかってきた餓鬼に向かって敢えて突撃する。
決着は一瞬だった。餓鬼の懐に一足で踏み込んだ隼人は、疾風の如く斬撃を放ち、餓鬼の首を刎ねた。血飛沫が空に迸り、枯草の葉に点々と通り雨のように赤い血が降り注ぐ中、ぼとりと餓鬼の首が落下する。
斬魔一閃――敵の懐に一瞬で踏み込み、目にも留まらぬ斬撃を叩き込む突進剣技である。隼人の剣の餌食となり、頭部を失った餓鬼の胴体は跳躍した勢いのまま、雨露に濡れた草むらを転がった。
死骸が草むらを転がる鈍い音に混じって、泥を跳ね上げる高い水音が響く。
餓鬼は一体だけではなかった。刀を振り抜いて無防備になった男の背を狙って、新たに現れた一体が奇襲する。
だが、彼はその奇襲を知っていたかのように振り向きざまに刀を振るい、横一文字に襲い掛かった餓鬼の胴を薙ぎ、さらに袈裟懸けに切りつけ、その身を四つの肉塊に変えた。
その数瞬の間も置かず彼の頭上に影が落ちる。咄嗟に身を捻ってその場を飛び退くと、先ほどまで立っていた位置に餓鬼が落ちてきた。餓鬼が勢いよく木の上から跳躍した際に巻き込まれたのか、千切れた枝葉がぱらぱらと空から地面に降り注ぐ。
隼人が餓鬼から距離を取って体勢を整えようとしたその時、さらにもう一体が足元の草むらから飛び出してきた。迫る腕を的確に刀で払うように切り落とし、返す刀で顎から脳天へ斬り上げ、頭蓋を断ち割る。頭蓋を割られた餓鬼はその断面から脳漿を曝け出し、隼人の目の前で倒れ伏した。刀を逆手に持ち替えた隼人は、ぴくぴくと痙攣する死に損ないの餓鬼の心臓目がけて背中から刀を突き刺し、他の餓鬼に見せつけるように止めを刺した。
木の上から先に跳躍してきた餓鬼が吠えると、隼人の背後からまた別の一体が現れる。彼は死骸から刀を引き抜くと、前後を挟むように位置取った餓鬼と平行になるよう姿勢を変え、刀を中段に構える。
背後の餓鬼が短く吠えると、正面の餓鬼がそれに答えるように隼人に向かって駆け出した。そちらに注意を傾けて隼人が身構えると、背後にいる餓鬼がその背を狙って突進してきた。
挟撃を狙っているのだ、と隼人は冷静に判断する。
先に駆けてきた餓鬼が跳躍し、首を狙って噛みつこうとするも、隼人は慌てる様子もなく牙を躱すと顎の下から刃を差し込み、その首を刎ね飛ばした。背後の餓鬼は隼人の動きに合わせて跳びかかる――片方が囮となる連携の取れた攻撃だったが、それすらも難なく躱して弧を描いて舞うように回り込んで背後を取り、一刀の下に切り伏せる。
その瞬間、隼人は背後に迫る殺気を感じて総毛立つ。いつの間に現れたのだろうか、瘴気の霧を突き破って新たな餓鬼がその背に跳び掛かってきたのだ。
煙幕の中から突然現れるようなものであり、攻撃に集中していた隼人は襲撃の前兆を掴むことができなかった。隼人は刀を振り下ろした姿勢から、即座に回避に移ろうとして歯噛みする。刀を振り下ろす瞬間――すなわち攻撃の動作を行っているときには、回避も防御も不可能となる絶対の隙が生じる。
たかが餓鬼と侮るなかれ。小鬼といえども鬼の名は伊達ではない。その鋭利な爪牙は、古より熟練の葬魔士を何人も葬ってきた。
だが、餓鬼の最大の武器は爪でも牙でもない。その数である。数に任せ、本能のまま無策に獲物を襲う単純な集団攻撃が彼らの戦法であり、最大の脅威なのである。
しかし、この個体はその例に当てはまらない。群れを嗾けて執念深くその隙を窺うなど下等な餓鬼の取る手段ではない。
この個体は通常の餓鬼ではない。群れを率いる頭と呼ばれる個体である。時として魔獣の群れの中から、知恵の回る個体が生まれることがある。その個体は群れを従える統率力を発揮し、集団を率いて狩りをするようになるのだ。
一連の攻撃は、隼人の出方を窺うために仕掛けられた布石だった。今斬り伏せられた二体こそ、群れの頭にとっての王手である。双方向からの挟撃で獲物の動きを固定し、その命を絶つ詰めの一手を打つ。肉を切らせて骨を断つとは、まさにこのことか。
隼人はなまじ勘が冴えるばかりに刀を振り下ろす勢いを途中で殺してしまい、餓鬼を完全に両断する前に速度を失った刃は、薄皮一枚で繋がった肉塊に挟まれたことで思いがけない抵抗を生んだ。
「ちっ……!」
必死に刃を抜いて餓鬼の奇襲を躱そうとするが、間に合わないことは明白だった。
勝利を確信した捕食者の口元に歓喜の笑みが浮かび、鈍く輝く爪が振り上げられる。凶器の爪が隼人の首に届く――――その瞬間、銃声が轟いた。
空中で頭を撃ち抜かれた餓鬼は脳漿と肉片を撒き散らしながら、勢いよくもんどりうつようにして雑草の中に倒れ込む。
その餓鬼が倒れると、それを合図にするように辺りを包む瘴気がたちまち霧散していく。瘴気の霧散は、魔獣の撤退あるいは殲滅を意味する。倒れた餓鬼が完全に動かないことを確認した隼人は、深い安堵の息を吐いた。
「大丈夫かい? 隼人君」
餓鬼を狙撃したGM6リンクス対物ライフルのスコープから顔を上げ、秋山圭介が声をかける。人懐っこい笑顔が良く似合う長身の優男だった。
隼人は血振るいをして拾った鞘に刀を納めると、圭介の方を向く。顔を隠していたフードを下ろすと、精悍な青年の顔が露わになった。再び深く息を吐き出したその顔には、濃い疲労の色が滲んでいる。
「すまない……油断した」
「仕方ないよ、なんせこの一週間ずっとこの調子だもの。僕だってもうへとへとさ」
圭介が大げさに肩をすくめてそう言った。ハンヴィーのボンネットには彼が撃ったライフルが置かれており、得物から手を放さずに隼人に話しかける。
「早く帰ってシャワーを浴びたいよ」
「そうだな」
「こいつが群れの頭かな?」
「ああ。この群れの、な。まだ別の群れがいる」
「そっか……それじゃ、まだ当分帰れそうにないね」
木々の影を睨んで隼人が言うと、圭介はその視線を追うように森を見つめた。会話が途切れた束の間の沈黙を打ち破るようにけたたましい電子音が鳴り、ハンヴィーの無線に通信が入ったことを知らせた。
「おっと、支部からの通信か」
ライフルから手を放した圭介が車内の無線に手を伸ばす。
「こちら秋山、どうぞ」
圭介が無線で連絡を取っているため、隼人は車から少し離れた位置で陣取り、周囲を警戒する。
「はい、戦闘は可能ですが……何ですって? 規模は?」
無線の内容は聞こえないが、他の部隊の応援に迎えというのだろうか、と隼人は推測した。
「えぇ、私たちではとても対処しきれませんよ。増援が到着するまではなんとか持たせますが…………了解、市街地に向かいます」
無線を切った圭介は、頭が痛いと言うように額に手を当てる。周囲を一瞥した隼人は、餓鬼の動きがないことを確認してから圭介に歩み寄る。
「何かあったのか?」
「うん、他の部隊がしくじった。餓鬼の群れが市街地に向かっているってさ」
「群れの規模は?」
「瘴気濃度に基づく推測だと、小隊規模だそうだ」
圭介の言葉を聞いた隼人の顔が険しい表情を浮かべた。魔獣が潜む瘴気は、魔獣の数や強さでその濃度が変わる。群れとして数が多いなら、霧状の瘴気に包まれた一帯の濃度が全体的に高くなり、強い個体がいる場合は、局地的にその濃度が高くなる。
葬魔機関は独自に開発したレーダーによって瘴気の濃度を測定し、群れの規模や個体の判別をすることが可能であり、観測したデータは管轄する支部のモニターに細かく色分けされて表示される。今回の場合は、測定したエリア全体の瘴気濃度の上昇と局地的な濃度の上昇、その両方が観測されているのだろう。
濃度から割り出された個体数はあくまで推測であるが、約五〇体で構成される小隊規模の群れは並の葬魔士二人ではとても対処可能な規模ではなく、市民に被害が出ることは避けられないだろう。
「おまけに餓鬼の群れを率いているのは強力な獣鬼という話だ。まったく勘弁してほしいね」
獣鬼とは餓鬼の上位種であり、獣の姿をした強力な魔獣である。餓鬼の次に個体数が多く、捕食を繰り返した餓鬼が、適合する獣の因子を取り込むことでその獣の特徴を肉体に現すとされている。
例を挙げると、犬型獣鬼なら犬の俊敏性や嗅覚を獲得するほか、知能が向上し、連携して獲物を狩るようになる。さらに犬のように社会性を身に付け、大規模な群れを統率することもある。
先ほどの隼人達を襲った餓鬼の群れも恐ろしいほど統率が取れていた。おそらく緻密な連携を取れるほどの強力な統率力を持つ獣鬼がいるのだろう。
「獣鬼を潰せば、雑魚の始末は他の部隊に任せられるか」
隼人の言には一理ある。群れの支配者がいるということは、それを排除すれば、群れの統率力は失われる。つまり、その支配が強力であるほど、餓鬼の行動は上位種の指示に依存するため、司令塔を失った餓鬼は大抵の場合、混乱して逃げ去ってしまうのだ。
「簡単に言うね……はぐれた個体ならともかく、この群れの規模だと、獣鬼には護衛が付いてるはずだ。増援を待つべきだよ」
群れの長である獣鬼の周囲には護衛の餓鬼がごまんといる。一体の餓鬼は大したことはないが、約五〇体の魔獣をたった二人の葬魔士で相手するのは、正気の沙汰ではない。無論、隼人もそれを理解していたが、他に対応できる部隊が近くにいない以上、仕方のないことだと割り切っていたのである。
「現在、機関の工作員が魔獣の出現エリアを封鎖するために市街地に向かってる」
「市街地に最も近い実戦部隊は?」
隼人が腕を組み、険しい表情で尋ねた。圭介は額に当てた手を後頭部に回すと、指で掻きながら気が進まない様子で答える。
「実戦部隊で市街地に最も近いのは、僕らだ」
「そうか、だったら俺たちがやるしかないな」
「僕らだけで太刀打ちできる規模じゃない」
小さくかぶりを振った圭介が、短く溜息を吐く。
「それに僕らはここまでの連戦で消耗している。装備と弾薬を補充しないと……僕のライフルは残弾があとわずかだし、それに君だって……」
圭介はライフルの弾倉が入ったポケットを覗こうとして、隼人の異変に気付いた。隼人は背を丸め、右腕を押さえるように抱え込んで歯を食いしばり、苦悶に満ちた表情を浮かべている。腕を組んだのは痛みを誤魔化すためか、と圭介は見抜いた。
「右腕、大丈夫かい?」
心配そうに尋ねた圭介の視線から逃れるように隼人は背を向けると、しばしの沈黙の後、絞り出すように返答した。
「……大丈夫だ」
振り返った隼人は、異常が無いことを証明するようにコートの袖を捲り、指先から肘まで布製の手甲に覆われた右腕を見せつけた。
「こいつはまだ俺の意思で動かせる。俺はまだ、戦える……」
圭介に対する返答というよりは、まるで自分に言い聞かせるような口調だった。右腕を見つめて思考に耽る隼人に、圭介が歩み寄る。
「悲観することはないよ。治療法が見つかるかもしれないだろう」
「仮に見つかったとしても、それはきっと俺がいなくなった後だ」
「君は、またそんなことを……」
「……」
圭介の言葉は、隼人にはまったく届いていなかった。それ以上、どんな言葉をかければいいか分からず、視線を地に落として沈黙する。
時間にして三秒弱。その重い沈黙を破ったのは、隼人だった。
「確か、市街地の近くに倉庫に扮した偽装拠点があったな?」
「え……? シェルターのことかい?」
圭介が乾いた声で咄嗟に聞き返し、隼人が短く頷く。
万が一、魔獣が大量発生した時に備え、武器弾薬を保管した拠点が各地に存在する。外観は、倉庫や工場となっているが、様々な防衛設備が施されている上に、その地下には対魔獣用の堅固なシェルターがあり、中には武器弾薬の他にも約二週間分の備蓄の食料や水、毛布等が保管されている。政府や葬魔機関の要人を守るために作られ、非常時にはそこに匿うことになっていた。
「あそこなら予備の武器と弾薬があるだろう。それに結界も」
「そうか、防衛用の結界か。展開すれば並みの魔獣じゃ突破できないし、あそこなら増援が来るまでの間、安全に装備を整えることができるかな」
「それもそうだが、やつらを偽装拠点に呼べば、一網打尽にできるんじゃないか?」
「呼ぶって? どうやって……? まさか!」
「ああ、念信を使う」
念信とは一種のテレパシーであり、餓鬼の会話は念信によって行われる。使用できる人間は限られているが、葬魔士の中にもこの念信を使える者がいる。
思念を直接相手に届ける念信は個々の素質によるが、声による意思伝達よりも遠くの相手に時間差なしに意思を伝えることができ、無線等の通信機器が未発達な時代では、遠距離の葬魔士同士で連絡するために重宝され、かつては念信専門の部隊があった。彼らは念信を使って群れを誘導し、一般人への被害を軽減する他、攻撃のために準備されたキルゾーンに誘い込み、有利に戦局を進めることができた。
しかし、使い方によっては念信を聴いた魔獣や近くにいた他の群れを呼び寄せることにもなり、念信の使用者は魔獣の言語を解する者として危険視されるとともに忌み嫌われ、偏見や迫害を受け、時に命を狙われることもあった。
そのため、風評被害を恐れた念信使いは自身が念信を使えることを秘密とし、その技法を伝えること止め、通信機器が発達していくにつれて徐々にその姿を消していった。今では葬魔機関でも念信を扱える者はごく少数となってしまっており、保護対象として率先して登用すべき人材とされるようになっていった。隼人は念信を扱える貴重な葬魔士だった。
「念信か……うん。上手く利用できれば、拠点に集めて殲滅できるか、な……」
手を顎に当てて深く思案する圭介に、隼人は畳みかける。
「ここで話しているうちに、誰かが奴らに襲われる。他に策はあるか」
「……分かった。君に誘導を任せる」
今後の方針は決まった。二人は装備を改めて確認し、戦支度を手早く整える。
「この山にいる群れを倒さないと、街に誘き寄せることになる」
周囲を油断なく見渡しながら、隼人は刀を抜き、中段に油断なく構える。
「それならまずは、ここにいる餓鬼どもを殲滅して――」
ライフルの銃身を展開した圭介は、立射の姿勢で構える。
「街にいる餓鬼を叩く」
隼人は自分の能力では、山中の餓鬼を誘き寄せることはできても、市街地に行った餓鬼には届かないだろうと考えていた。つまり、この場で念信を放てば、山にいる群れだけを自身の周囲に誘き寄せることができると判断したのだ。
森を見据え深く息を吸った隼人は、念信を放つべく意識を集中する。迎撃の準備は整った。後は、獲物を誘き寄せるだけだ。
「来い!」
隼人が声と共に思念を放つと、念信による魂の叫びが水面に広がる波紋のように伝播していき、草原を吹き抜ける風のように草むらの葉を揺らした。その波が木々の影に届くや否や森の奥から異形の群れが唸る声が漂ってきた。
その声を耳にし、武器を構え直した二人の周囲に紺色の霧が立ち込めていく。夜空のように濃く暗い瘴気は、ただ静かに二人を深い闇に沈めていった。
夜はまだ、始まったばかりだ。




