EP13 偽装拠点にてⅣ
吐息の音すら聞こえるほどの静寂。その静けさに掻き消されるほど小さな声で、隼人が口を開いた。
「……すまなかった」
「えっ……?」
下を向いたまま、呟くように謝った隼人の顔は、美鶴を守った時の毅然とした態度はどこへやら、今にも泣きだしそうな子どもを思わせる面持ちだった。
「巻き込むつもりはなかったんだ……」
「でも、あなたは私を守ってくれた。そうですよね……?」
「そう、だな……」
「……」
絞り出すようなか細い声で答えた隼人の横顔を、美鶴はじっと見つめた。普段であれば、なんて煮え切らない男だろう、と軽蔑したかもしれない。
しかし、目の前にいる青年は、つい先ほどまでのぶっきらぼうな態度とは、明らかに様子が異なる。罪悪感に震える青年の胸中など美鶴は知る由もないが、今の姿は見る者に胸を締め付けるような憐憫の情を抱かせるほどに悲痛なものだった。
怪物の群れから自分を助けたあの青年とは思えないほどに、弱々しく沈む横顔は見るに忍びない。美鶴にとって、それは到底許容できるものではなかった。
自分を責めて悲痛な表情を浮かべているよりも、あの淡々とした無愛想な表情をしていた方が、まだずっとましである。隼人の横顔から視線を外した美鶴は小さく呼吸を整えると、再び彼に向き直り、静かに語り掛ける。
「……長峰さん、まだお礼を言っていませんでしたね。助けていただいて、ありがとうございました」
「え……? 礼ならもう……」
困惑した様子の隼人が、躊躇いながらもゆっくりと顔を上げて美鶴の顔を盗み見るようにちらりと視線を向ける。その顔は、穏やかな微笑みを浮かべていた。
「これは、あなたに会う前に助けていただいたお礼です」
「……どういう、ことだ?」
「実は長峰さんと会う前に、長峰さんと同じコートを着た男の人に会ったんです」
美鶴はパイプ椅子に掛けられたコートを見つめ、隼人もそれに合わせるように顔を動かした。低視認性を目的とした灰黒色の着色が施されたコートは葬魔機関の支給品である。
「俺と同じコート……葬魔の人間か?」
「それは、分かりません……」
隼人のコートから視線を外した美鶴は、両手で包むように持ったお茶の缶に目を落とした。
「その人が近づいてきたら、全身が潰されそうなものすごい威圧感に襲われて、逃げようとしても全然動けなかったんです。私に手を伸ばしてきて、もう捕まっちゃうんじゃないかって……でも、長峰さんの声を聞いたら、急に体が軽くなって足が動いてくれて」
「あなたの声を聞かなかったら、私は動けなかった。あの時、『来い』って呼び掛けてくれなかったら、多分、あのままあの人に……だから、あなたに助けられたのは二回目なんです」
「…………」
美鶴の話を黙って聞いていた隼人は、何かに気付いたように表情をはっとさせる。
「あのとき……」
「はい?」
「俺が冬木を公園で助けたとき、俺の顔を見て違う、と言ったよな? それはそいつと違うってことなのか?」
「ええ。その人は、顎のところに傷がありましたから」
「顎に傷のある男……か」
「心当たりがありますか?」
「いや、ない。秋山さんが戻ったら聞いてみるか……」
「あの人は一体……」
隼人は美鶴の呟きを聞いて、彼女と出会うきっかけを思い返した。美鶴は念信という稀有な才能を持っていた。彼女が自身の危機を念信で伝えなければ、隼人は助けに入ることはできなかっただろう。謎の男に興味が湧いた隼人は自身を苛むことを止め、彼女の疑問に答えようと思考を巡らせた。
「……そいつは、お前が念信を使えることを知っていたのかもしれん」
「まさか。今日まで私自身、知らなかったんですよ? それなのにどうして……?」
「知ったきっかけは俺にも分からない。今日だって、無意識に念信を使ったんだ。今までだって無意識に使っていたということもありえるだろう」
「それは、そうかもですけど……」
「理由は分からないが、そいつはお前が念信を使えることを知っていた。そして、餓鬼の群れが市街地に現れた混乱に乗じて、お前を連れ去ろうとした……というところか」
「……」
あくまで推測だ、と隼人は補足して立ち上がると、壁際に寄りかかり、遠くを見るように部屋の外に視線を投げる。
「そいつのことは後回しだ。今はとにかく、あの群れをどうにかしないとな……この結界もそう長くは持たない」
「え……? ここは安全じゃないんですか?」
「結界はあと三時間も持たない。増援が来るまで持ち堪えられれば御の字だが、間に合うか分からない」
「そんな……それじゃ……」
「最悪、俺と秋山さんの二人で奴らと戦うことになるだろう」
「たった二人で、ですか……」
「ああ」
「大丈夫なんですか……?」
「ん……?」
「あっ、ごめんなさい。なんだか急に不安になっちゃって……」
「……無理もない」
言葉を濁した美鶴が、隼人から逃れるように視線を床に落とす。
しまった、と隼人は心の中で舌打ちをした。状況を説明したつもりだったが、これでは不安を煽るばかりだ。なんとか安心させる言葉を考えようとするが、焦った頭では上手い言葉を見つけることができない。
「私、怖いんです。もう生きて家に帰れないんじゃないかって……もしかしたら、あの怪物に襲われて、ここで死んじゃうんじゃないかって――」
「大丈夫だ。俺がお前を守る」
心の内を吐き出すように言葉を続けようとした美鶴に、割り込むように隼人が口を挟んだ。それまでの罪悪感に苛まれた弱気な声とは異なり、強い意志の籠った声に美鶴は驚く。
それは、芯を貫くような覚悟を秘めた男の声だった。
「えっ……」
俯いていた顔を上げて、男の顔を注視する。今までの煮え切らない表情は消え、餓鬼の群れから美鶴を助けた時を思い出させる戦士の顔がそこにあった。
「俺には戦うことしかできない。だから、お前を巻き込んだ咎は戦うことでしか贖うことができない。お前が望むなら、どんな手を使ってでも、必ず家に帰すと約束する。たとえこの命に代えても俺がお前を守り抜く……」
握った右手をじっと見つめ、静かに噛みしめるように決意を言葉として青年は、少女に誓う。
俯いた顔が上がり、美鶴を見据えたその瞳には、揺るぎない意志の色が見えた。
「それが、俺の贖罪だ」
揺れる美鶴の瞳を真直ぐに捉えて、隼人はそう告げた。
「贖罪って、そんな……」
動揺した美鶴は、絞り出すようにして言葉を喉から出した。
「お前はここで死ぬことはない。だから、安心しろ」
「……はい」
「…………」
揺れる瞳で隼人を見つめた美鶴は、しばしの沈黙の後、その目を彼から話すと、そっと口を開いた。
「あの……」
「なんだ?」
「私は、あなたたちが言ったことの半分も理解してないと思います。どういう状況に置かれているかも正直、よく分かりません」
「……」
「それでも、あなたが言った私を守るって言葉は嘘じゃないと思います。だから……」
一度、言葉を切った美鶴が隼人の目をじっと見つめた。彼女の目には、彼の答えを確かめるような色が浮かんでいる。隼人はこのとき、この問いには自身を偽ることなく返さねばならないと、心から理解した。
「あなたのことを信じてもいいですか?」
「ああ、誓いは果たす。必ず」
「……分かりました。あなたを、あなたたちを信じます」
隼人の答えを聞いた美鶴は、自分に言い聞かせる口調でそう返した。その後で、力が抜けたようにその表情を和らげる。隼人自身気付かないことであったが、彼もそれに釣られて幾分か穏やかな顔に変わっていた。
「ああ、それじゃ……短い付き合いだと思うが、よろしくな」
美鶴に歩み寄った隼人が右手を差し出した。広げられた手の平を見た美鶴は握手を求めているのだと気付き、その手に答えようと右手を伸ばす。
あと少しでお互いの指が触れるというその間際、隼人が何かに気付いたようにすっと右手を引っ込めた。美鶴が怪訝そうな瞳で様子を窺うと、隼人は悩ましげに自分の手の平を見つめていた。
「あの……? 握手しないんですか?」
「なぁ、握手ってやっぱり右手が普通だよな……?」
「ええ、普通はそうですね」
「左手じゃ、ダメか……?」
急に慌てた隼人の態度に首を傾げながらも、彼の問いに答えるべく、美鶴は何か例はないだろうか、と思案した。
「えーと……左手で敬礼ってしないですよね?」
「ああ」
「それと一緒です」
「なるほど……」
「素手じゃなくても大丈夫ですよ、はい」
躊躇う隼人を待つように、美鶴は自らの手の平を広げて右手を差し出す。自分に向かって差し出された手の平を見て、困惑した表情を浮かべた隼人に思わず美鶴は苦笑した。
「もう……先に手を出したのは、長峰さんなんですよ?」
「ああ、そうだな……うん」
自分の手の平と美鶴の手の平を交互に見比べる隼人だったが、意を決してゆっくりと右手を伸ばす。
本当にいいのだろうか、と言わんばかりにぎこちない動きで差し出される腕は、まるで油の切れた機械のようだった。ゆっくりと隼人の指先が美鶴の手の平に近づいていき、互いの手が重なるそのときだった。
突然、屋外からガラスが割れたような甲高い音が響いてきた。続いて腹の底から突き上げるような衝撃音が正面ゲートから轟き、異常を知らせる警報が事務所内にけたたましく鳴り響く。
「なにっ!?」
「結界が破られたのか……!」
外から何かを潰すような鈍い衝撃音に続いて、銃声が聞こえてくる――圭介が持っていた対物ライフルの射撃音だ、と隼人は身を強張らせる。
「ついて来い!」
机の上の刀を掴んだ隼人は、部屋を飛び出して監視室へと向かう。慌てて美鶴はその背中を追い、隼人の見ているモニターを隣から覗き込んだ。
モニターには、駐車場で複数の餓鬼と交戦している圭介の姿が映し出されていた。
「秋山さんが……」
「ここにいろ、俺達が戻るまで動くな」
音に釣られた餓鬼が事務所に来ないように、隼人は鳴り響く警報を切った。
「分かりました。あの、長峰さん!」
監視室の入口で呼び止められた隼人が、心配そうに佇む美鶴に向かって振り向く。
「なんだ?」
「どうか気を付けて……」
美鶴の言葉に頷いて返した隼人は、衝撃音のしたゲートの方へ向かって駆け出した。大群が押し寄せていることを知らせる警鐘のように、絶え間なく銃声が鳴り響いていた。