EP01 夜の訪れ
梅雨にはまだ早い五月上旬の夕暮れ。
日本の地方都市である筑田市を望むその山は新緑に覆われ、しとしとと降り注ぐ雨音に混じって時折吹き抜ける淡い風が、木々を揺らして木の葉のそよぐ音を奏でていた。
雨風の音に負けずに響き渡るのは蛙の鳴き声だ。普段なら鳥や虫の声も聞こえるのだが、生憎の雨に降られ、この日は鳴りを潜めていた。
山の麓はまるで雲が落ちてきたような濃い霧が立ち込め、怪しげな雰囲気を醸し出しており、その一角には鬱蒼とした木々に囲まれた広い空き地があった。
そこは地元企業が有する私有地の一部であり、別荘地としての開発計画が頓挫したことにより、一〇年近く放置されていたのだった。
私有地には山道から分岐した車道が伸びており、入り口には侵入を遮る有刺鉄線の付いた金網のフェンスがあった。扉の部分には『関係者以外立入禁止』と印字された錆びた看板が取り付けられていたが、その看板は、くの字に折れ曲がって車道脇の草むらに転がっており、フェンス自体もまるで巨人が力任せに引き千切ったかのように歪な切断面を露わにして薙ぎ倒されていた。
そのフェンスの手前には一台のハンヴィーが停まっており、そのハンヴィーの傍には一人の男が立っていた。辺りを見渡した彼は小さく溜め息をつき、草むらの中に転がる看板と倒れたフェンスに近づいていく。
男は灰黒色のコートを羽織っており、目深に被ったフードによってその表情は見えない。泥濘を気に留めずに進む男の右手には布袋に包まれた長物があり、その長物で看板を軽く突いて向きを変え、印字されている文字を黙読すると、短く息を吐き出した。
看板から視線を外して周囲を見渡した彼は、新緑の季節にもかかわらず、冬を迎えたように枯れている草花があることに気付く。
枯れた草花は一定の幅で踏み倒されており、その軌跡は森の奥から私有地を横切り、麓にまで続いていた。薙ぎ倒されたフェンスは手前に倒れており、その倒れた方向から考えると、森の奥から現れた何かが強引に突破したのだろうと推察した。
より詳しく異常を調べるため森の奥に進もうとした彼は、雨に煙る木々の影から自身を凝視する視線を感じて立ち止まった。彼が感じた視線。それは森に棲む動物とは明らかに異質な視線だった。外敵を威嚇する強い敵愾心に満ちており、直ちにその場を離れなければ、命の保証はしないという凄みがあった。
命を脅かされる恐怖に怯え、常人なら踵を返して立ち去るだろうが、この男は違った。この視線の主をよく知っているかのように、全く動じる素振りはない。
「……魔獣、か」
木々の影から送られる視線を見据えた彼は、確かめるような口調でそう呟いた。
魔獣とは古来より人間を脅かしてきた異形の存在であり、この日本ではかつて鬼と呼ばれていた。群れで現れては人間や動物を襲ってはその血肉を喰らい、いくつもの村や町を滅ぼしてきた人類の天敵だ。
もちろん、人間も黙って見ていたわけではない。魔獣に対抗する者達がいた。
彼らは魔を葬る戦士――葬魔士と呼ばれた。
かつて朝廷から発せられた勅令により兵が集められ、都を守るために魔獣と戦った。それが葬魔士の始まりである。そして、続出する魔獣の被害から民を守るため、魔獣討伐を専門とする戦士である葬魔士の養成が急務となった。
やがて葬魔士の人口が増加したことによって魔獣討伐は一つの生業として拡大し、彼らを管理、統制する組織が設立された。それが葬魔機関である。
この男、長峰隼人は葬魔機関に所属する葬魔士の一人であり、魔獣出現の連絡が入り、近くの支部から派遣されたのだった。
「…………」
ふいに木々の影がざわざわと蠢いた。風に揺れたのではない。まるで影そのものが生きているかのようにゆっくりと震えているのだ。いかに森に潜んでいる魔獣を討つか思案していた隼人は、鋭敏にその異変を察知して、その影を睨む。亡者の発する低く響く怨嗟の声のようなざわめきとともに森の奥から段々と彼に近づいてきたそれは、木々の影を抜けると、地を這うように低く広がっていった。
森の奥から現れたもの、それは霧だった。雨煙に紛れるようにじわじわと広がる霧は、驚くべきことに夜の闇を思わせる紺色だった。
砂浜に打ち寄せる波のように押し寄せてきたその霧は、あっという間に辺り一面を覆い尽くし、膝の高さほどの雑草を葉先からみるみる枯死させていく。
両脚に纏わりつくように漂う霧は、まるで巨大な生物の舌で舐められるような不快感を隼人に与えた。彼はその不快感から眉をひそめると、腕で口元を覆いながら悪態をつく。
「いつになっても慣れないな、これは」
闇がそのまま這ってきたように足元を覆ったこの霧は、魔を孕む毒の霧――瘴気である。瘴気は目に見えないほど微細な粒子で構成され、空気中を漂っているが、集合して濃度が高まると紺色に見える。微量の瘴気は直ちに害を為さないが、目に見えるほど濃度が高くなると毒性を帯び、あらゆる動植物を脅かす。瘴気への耐性のない生物は、その身を侵されると、たちまち息絶えることとなる。
辺りに立ち込めた紺色の霧の中から隼人を睨む無数の気配があった。まだ実体化していない魔獣の気配だ。
瘴気は魔獣の体を構成している物質であり、一定量以上の瘴気が収束し、結合すると生命として実体を得ることが可能となる。霧の中に潜むそれは、未だ形を得ていない赤子じみた存在であり、さながら瘴気という母胎の中から外を窺っているといったところだろう。
未だ現れぬ敵を一瞥した隼人は、呼吸を整えるために深く息を吐き出す。
「……来るか」
独り言がやけに大きく聞こえ、雨が止んだことに気付いた。風もいつの間にか止んでいた。
完全な無音。山全体が息を殺すように静まり返り、自分の鼓動が聞こえるほどの静寂に包まれる。たった数秒であっても、静寂とはあまりに長く感じるものである。しかし、まるで永遠に続くかと思われたその時間も、唐突に終わりを告げた。
森の奥から枝を折り、木の葉が擦れ合う音が聞こえてくる。雑草を踏みつけ、泥を跳ね上げながら地面を駆け抜ける音が近づいてくる。
次の瞬間、木々の影から異形の獣が飛び出し、死にも似たその静寂を乱した。
斬魔の剣士をご愛読いただきありがとうございます。拙い文章でありますが、お楽しみいただければ幸いです。
……とまぁ、硬いのはここまでにして、今回はまだ序盤も序盤です。面白くなるのは、まだまだ先ですので、しばしのご辛抱を……。
本編の文章もガチガチに硬いですが、実はバリバリのジャンクフードです。肩の力を抜いて楽しんでいただけると嬉しいです。
さて、今後の投稿については不定期になると思います。切りのよいところまでは連続で投稿する予定ですが、その後はしばらく間が開くと思います。どうか気長に待っていただけると幸いです。よろしくお願いします。