咲く花散る花 1
たとえるなら、深海魚の体内のような。
のっぺりとした薄暗さと沈黙で支配されたその部屋は、完璧な密室だった。
ディスプレイから放たれる青白い光だけが部屋の輪郭をぼんやりと縁取っている。置かれている物といえば、簡易なベッド、収納棚、壁に取り付けられたデスク。生活に最低限必要な物しか取り揃えられていない、殺風景な部屋だ。
まさか、この部屋に年頃の少女が住んでいることなど、誰も夢にも思わないだろう。それも、たった一人で。何年も。
監禁状態だと人は言うかもしれない。しかし、彼女の親は彼女を捨てていたし、彼女も今の環境に満足していた。そして何より、彼女の“才能”を理解してくれる人物がそばにいるのである。
「私の勝ち」
唐突に、鋭い一声が部屋の空気を震わせる。
声を発した少女は背もたれ付きのチェアに身体を預けて、デスクに置かれたチェス盤を見下ろしている。
「これで何回目?」
と、少女は真正面に置かれたディスプレイに向かって口を動かした。その声は少女とは思えないほど大人びていた。
『1670回目になります』
ディスプレイに映し出された少女のアバターがAI音声で答える。髪はマロンを思わせる茶色で、ボブカット。両目とも眩い琥珀色に輝いている。可愛らしい外見で、にこにこと目の前の少女を見つめている。
「そう、なんだ」
少女は満足そうに笑みをこぼす。
そして再びチェス盤に目を向けて、キングの駒を摘んで持ち上げる。
「君はね。これから先、何度だって私に負けるんだよ。私が勝者で、君は敗者でしかない。そのことを肝に銘じておくように……いいね?」
そう言って、恍惚とした目つきでキングの駒を見つめる。
「だって、もう少しで、あの子にやっと会えるんだから」
果てのない静けさに浸された部屋の中で、少女は口を歪めて笑っていた。
─────
さて、20XX年、日本。
長年に渡って行われた “極ゆとり教育” により、子供たちの能力は緩やかに退化していた。漢字が読めない、地図の見方が分からない、簡単な方程式すら解けない。学校教育というシステム自体が崩壊しかけているのは誰の目にも明らかだった。
そんな状況を打開すべく新たに導入されたのが、“戦国式教育” である。ファイティングスピリッツ、つまりは野心こそが新たな時代の扉を開くのだと高らかに謳い、国民の支持を一気に集めたのはとある若手の政治家だった。若手といっても四十代前半の彼は新たな教育制度を急ピッチで制定し、施行することに成功したのだ。それが今から5年前のこと。
そして、その新制度にいち早く目をつけたのが由緒正しき名門校の私立桃谷学園だった。
国から制度についての詳細が発表されるやいなや、すぐさま規定に応じた施設を取り揃え、学園独自のシステムを構築したのだ。
生徒たちが等しく目指すのは、天下統一。
同学年の生徒同士で競い合い、最終的に天下統一を成し遂げた “天下人” には、輝かしい将来が約束される。
無限の夢と野心を抱き、今年も二百人もの新入生が桃谷学園の門をくぐるのだった。
─────
碁盤の目のようにぎっしりと並べられたスチール製の机。無菌室を想起させる、無機質な四方の白壁。ここは桃谷学園1年C組の教室、席に座っているのはもちろんこの春入学してきた新入生たち。
清水陶香という生徒もまた、この学園に入学したばかりの一年生だった。
陶香は小さくため息をついて、後方の席から教室全体を見回す。始業式が終わり、今は自己紹介が行われている最中である。
前の方で、一人の生徒がすっくと立ち上がるのが見えた。自分の名前と、これからの学生生活への意気込みを手振りを交えながら語っているようだった。が、話の内容は耳をするする通り過ぎていき、何も頭に残らない。陶香の意識はあてもなく彷徨っていた。
自己紹介が終わると、ぱらぱらと拍手が起こる。陶香もそれに合わせて、無心で手を動かす。
まもなくして次の生徒が起立した。
「はい! 私、千波凪っていいます。千の波が凪いる、と書いて千波凪というふうに覚えてください!」
そこで一旦言葉を切って、にっこりと微笑む。
「凪は……いや、私は、絶対に天下統一して卒業して、それでこの国の教育制度を変えるのが夢です! 三年間、よろしくお願いします!」
陶香は億劫そうに顔を上げて、千波凪と名乗った生徒の背中を見つめる。栗色の髪を左耳の横で一つにまとめており、顔まではよく見えなかったが、快活そうな少女だ。
「正直、みんなのことはライバルだと思ってます。だけど私は、みんなとお友達になりたいんです。ぜひ! 仲良くしてください!!」
凪は晴々とした面持ちで言うと、素早く一礼して席に座った。
少し遅れて、拍手が起こる。陶香は手を動かさずに、一心に凪の背中を見つめていた。
(この国の教育制度を変える、か)
心の中でそう繰り返す。
コツコツと中指で机を叩きながら、凪の背中を食い入るように見つめる。
(……そんな余計なことしなくていいのに)