ハロー、そしてグッドバイ
大学の文芸部のお題小説が初出。
そちらに修正を加えて掲載しています。
お題は「目が綺麗ですね」「ハンバーグ」「落とし物」。
初稿では「落とし物」も使っていますが、少し無理やりだったので今回はそぎ落とし、前半の二つのみ用いています。
母を題したとあるゲームソフトでは、主人公や仲間の名前の入力のほか、好きな食べ物を五文字以内で入力する。
すると主人公の母親の作ってくれる料理が、(テキストのみではあるが)その料理になるのだ。
俺がやったのは世代的にスーパーファミコンのものではなく、ゲームボーイ版だが、このシステムは当時なんだかくすぐったいような気持ちがあったのをよく覚えている。
実際、俺の好物を好物たらしめたその瞬間に、目の前にいたのは母親ではなく真琴さんだった。彼女は赤いエプロンをつけたまま座っていた。頭をわずかに傾けて、うつむいてばかりの俺の顔を覗き込みながら、しっとりとした声で「美味しい?」と聞くので、俺は黙ってがくがくとうなずいた。
八歳の俺に、大人の女の人と話すためのネタなんて無いに等しかった。真琴さんは母親と違って良い香りがしたし、服ごしにわかる輪郭は柔らかくて張りがあった。顔はまぶしくて見られなかった。引っ越しの挨拶の時、一瞬だけ見た真琴さんはとっても可愛かった。
ハンバーグには、真琴さんの手作りデミグラスソースがかかっていた。付け合わせには人参とジャガイモを一口サイズに切ってグリルしたものが置いてあって、当時の俺は人参を大の苦手としていたが、よその家で好き嫌いを主張できるほど図太い子供でもなかったので、我慢してかみ砕いて一気に飲み込んでいた。
「佑介くんのお母さん、まだ帰ってこないね」
壁にかかった時計を見ながら、真琴さんがつぶやいた。
「私もハンバーグ、食べちゃおうかな」
そう言って立ち上がり、フライパンの取っ手を掴んで運んでくると、俺の目の前の大皿にハンバーグを置いた。俺は自分のぶんを食べ終わっていて、ただぼんやりその様子を見ていた。
「ゲームやっていていいよ」
そう真琴さんに言われるまで、俺はただ彼女がハンバーグとご飯を交互に口に運ぶ様子を見つめていた。彼女に言われないと、動くきっかけが掴めないというか、なんだか近所に住んでるだけで他人のお姉さんがいる部屋で、自分はどう動けばいいのかわからないというか、俺はそんなどんくさい子供だった。
部屋の脇に置いておいた自分のリュックのところへ行って、ゲームボーイを取り出すと、ちょっと迷ってから真琴さんの向かいに腰を下ろして、電源を入れた。
静かな部屋に馴染みのBGMが流れ始めるとほっとした。真琴さんのことがあんまり気にならなくなって、ゲームの中の赤い帽子をかぶった主人公と俺が一体になる。超能力を使いこなし、優しくてどこか切ない世界観で、友達と共に敵へ挑んでいく少年。
「あら、それ、もしかしたら私も知ってるゲームかも」
真琴さんの言葉で、超能力少年は一瞬にしてごく普通の人見知りな少年に戻った。彼女にゲームの名前を確認され、面食らっていた俺は慌ててこくん、とうなずいた。
「そっかあ、ゲームボーイでもリメイクされてたんだね。懐かしいな。私の友達のね、年の離れたお兄さんがスーファミ持ってて。そのゲーム、BGMが素敵だから何度もやらせてもらってたんだ」
ゲーム、好きなんだ。真琴さん。
それが知れただけで、ちょっと嬉しかった。離れ小島のようだった俺の世界と彼女の世界が、初めてくっついた気がした。
「ほら、戦士とか魔術師とか、他のRPGにありがちなものがなくって、主人公たちは超能力を使うでしょ? あれが珍しくてね」
真琴さんはまた一口、ハンバーグを食べた。
「ああ、あとさ、最初に好きな食べ物聞かれなかった? 答えておくと、主人公のママが作ってくれるんだよね。嬉しかったなあ……」
俺が食事の様子をじっと見ているのを見て、「食べたい?」と聞かれたから、ぶんぶんと首を振った。母さんからもらうのはいいけど、真琴さんからもらうのは恥ずかしかった。
「佑介くんはなんの食べ物が好きなの?」
からあげ。ゲームではそう入力してあった。まだ父さんがいた頃、母さんがよく作ってくれた料理。もうしばらく食べていないから味は思い出せなかったが、ただ俺の好きな食べ物はからあげだ、と漠然と覚えていた。
でも、今ではその順位が入れ替わっていた。
「ハンバーグ」
俺はぽつりと言った。
真琴さんが笑った。
「そっか、一緒だね」
小学校低学年のときは、母親が夕方から夜にかけてパートに出ている間、同じアパートの近所の部屋に住む真琴さんの部屋で面倒をみてもらった。
小学校高学年のときは、俺は友達と遅くまでサッカーをして遊ぶことが多くなって、真琴さんの部屋にはめったに行けなくなった。それでもずっと彼女のことは気になっていて、暇があると母から真琴さんの話を聞いていた。
今思えば、彼女は俺の初恋の人だった。しかしその感情は羨望や羞恥によって誤魔化されていった。
誤魔化して、いった。
小学六年生のとき、真琴さんが結婚した。
相手は真琴さんより二つ年上の会社員だった。
真琴さんの旦那は、クソガキに過ぎない年の俺にさえ、礼儀正しく話す人だった。
明るい目をしていた。優しそうな人だと思った。
一年後、赤ん坊が生まれた。タツミ、という名前で、みーくんと呼ばれていた。
彼の眼差しは、父親のそれによく似ていた。真琴さんと生き写しの顔をしながら、目だけはあの男そのものだった。
そうして、俺が高校二年生のとき。
「あの人ったら、メールの一つもよこさないのよ」
真琴さんは単身赴任の夫に向けてそう愚痴った。
彼女が夫と共に小さなマンションの一室へ引っ越してから、俺は二度彼女の家に行った。いずれも彼女に招かれたからだとか、母さんに言われたからだとか、俺が自主的に動いたわけではない。
彼女は昔と変わらず赤いエプロンをしていた。こちらに背を向けて洗い物をしながら、時折振り返って俺と遊ぶタツミの様子を見ていた。
「みーくんの幼稚園の話、興味ないっていうのかしら。自分の息子だってのにねえ……。ほんと、佑介くんが来てくれて助かったわ。全然家事どころの話じゃなくって」
俺は適当に相槌を打ちながら、「そんなに嫌なら別れりゃいいのに」という言葉を喉の奥に押し込んでいた。さすがにそれは言ってはいけない。それくらいはわかっている。
タツミは俺と一緒に絵本を読んでいた。ひらがなを一音ずつ発音しながら、意味がわかってるんだかわかっていないんだか、よくわからない読み方をしている。
「あら……ねえ佑介くん、そっちにあるみーくんのお皿持ってきて?」
「わかりました、ちょっと待っててください」
子供の頃はしなかった言葉遣いで言ってから、俺はタツミにお下がりとしてあげたDSを渡した。目を離した隙に何かやらかさないように、彼のもとを離れるときはゲーム機を渡すことにしている。
ぽろろん、というDSの起動音が聞こえるのを待ち、俺は皿を持って真琴さんの方を向き、立ち上がろうとして――
止まる。
『あ、れ?』
真琴さんの背中は細くて小さかった。昔見たよりも、ずっとずっと小さかった。
俺より弱くて小さかった。
どうにでもしてしまえそうなくらい弱くて小さかった。
だから。
だから?
喧しい水音が狭い2LDKに響く。今日やったことは全部流してやるよと俺に囁く。
彼女の腰は昔より膨らんでいて、何でも包み込んでしまえそうだ。口紅を塗らなくなった唇は、今ここにいない夫の愚痴ばかり言っている。
……なんで彼女は俺を呼んだんだ?
愚痴を聞かせるためだけか?
小さい子供の面倒をみるのに男子高校生がそんなに適任か?
もしかして慰めてほしいんじゃないのか?
旦那がいないこの2LDKで。
あれ。
これ、いけるんじゃないか。
うすうす気づいていた。
そう思ったが最後だと。
自覚してしまったら終わりだと。
自分が彼女のことをずっと好きだったということに。
「それでね……くんは、…………で遊んで……」
耳の奥で響く心臓の音が、真琴さんの話をかき消していく。
自分の手が獣のように力をみなぎらせている。
そうだ、今ここにいるのはひ弱なやつばかりだ。
今一番強いのは俺だ。
『タツミがいる』
そうだ、だから何だ。たかがガキに何ができる。
『もう真琴さんはあの男の奥さんだ』
そうだ、あの男が真琴さんを盗ったのだ。
『俺はもう子供じゃないんだ』
そうだ、もう俺は一人前の男なんだ。
『なに背中向けてんだこの女』
もっと俺を警戒しろ。
『安心しきってんじゃねえよ』
お前にとって俺はまだ小さな佑介くんか。
『なめんじゃねえ』
俺は立ち上がった。足を進めると、洗い物の水音が近づいてくる。
自分なりの因果関係や論理に基づく怒りはすさまじいエネルギーを持つ。正義の名の下に、自分がやるのは裁きであると、全ての行為を正当化する。
道を踏み外しつつある危機感とか、昔の真琴さんの笑顔とか、そんなものはとっくの昔にうずもれてしまった。
細い肩に手を伸ばした。
―― ♪ ♪ ♪ ――
綿が詰まったように音の聞こえなかった耳に、ある音楽が無遠慮に流れ込む。
うるせえなと一蹴する前に、そいつは耳を通って俺の頭にするりと入り込むと、脳をがくがくと揺さぶった。
聞き覚えのあるBGM。知っているピコピコ音。
俺は振り向いて、小さな少年を見た。彼も気づいて、舌足らずの調子で言った。
「このゲームねぇ、おもしろいんだよぅ。ゆうちゃんもやったー?」
うん、とうなずいた。俺が近くまで来ているのに気づいた真琴さんに皿を渡して、タツミのところへ戻った。
そうだ。DSはゲームボーイのソフトも遊べるのだ。自分が今まで遊んでいたソフトは、ゲームボーイのものもDSのものも、まとめて渡してあった。
「タツミ」
ゆら、ゆらとタツミの方へ戻っていく。
「なあにー?」
彼の前に膝をつくと、無理やり口元をゆがめて聞いた。
すきな、
「好きな食べ物は……何にしたの?」
ほら、最初に聞かれたでしょ? と付け加える。
俺の心には迷いが生じていた。確かめておきたかった。彼女は今も、俺の落とし物のままなんだと。
みーくんはにっこり笑った。俺の心臓の鼓動の合間に、少年の返答がはじけた。
「オムライス!」
横っ面を張られたような衝撃が俺を襲った。続いて第二撃。
「パパも好きなんだよ、ママのオムライス!」
第三撃として真琴さんの苦笑混じりの声が聞こえる。
「そうなのよ、単身赴任に行く前は二週間に一回オムライス作らされたんだから……」
大惨劇だ。さっきからずっと耳鳴りがしていた。
そんな中でもゲームのBGMが流れ続ける。
俺だけずっと置いて行かれている。もう彼女が料理を作る相手は変わったのに、俺だけはずっとあの時にいる。
俺はやっとのことで、かすれた声を絞り出した。
「……そっか。俺も食べたいな、タツミのママのオムライス」
すると、真琴さんが振り向いた。
「あれっ、佑介くん、オムライス食べたい? 今日はハンバーグを作る予定だったんだけど、まだ変えられるから変えようか?」
うぐ、と心の中で声が漏れる。とどめの一撃だった。
ああ、完敗だ。
彼女の中でも俺は、ずっとあの時にいるのだ。
彼女の中で俺は高校生になってなどいなかった。
俺は、ゆっくりと、時間をかけて立ち上がった。
「……いや、今日はそろそろ帰ります」
「あらそう? ゆっくりしていっていいのよ」
「明日朝から部活なんで。すみません、そろそろ失礼します」
真琴さんは残念そうな顔をしたが、引き留めようとはしなかった。
それがせめてもの救いだった。これ以上彼女の前にいたら、きっと泣いてしまう。
玄関で靴を履いていると、真琴さんが俺の鞄を持って差し出してくれた。
「今日はみーくんの面倒みてくれて、ありがとうね。またおいでね」
礼を言って鞄を受け取り、真琴さんの顔を見下ろした。
息子と似ていない目。ハンバーグを頬張る俺の顔を見つめていた目。
彼女は盗まれたわけではなかった。彼女は自分から違う世界へ行ったのだ。
彼女の息子と同じ目をした、男の元へ自ら行ったのだ。
「じゃあねえ、ゆうちゃん」
タツミが真琴さんの腰に抱き着き、俺に向かって手を振る。
俺は軽く手を振り返し、真琴さんの顔を真正面から見つめた。
俺は大きくなりましたよ。もうあなたが知ってる子供じゃないんですよ。そんな思いを込めて、伝わりはしないとわかっていながら、以前の俺なら絶対に言わなかったであろう台詞を紡ごうと思った。最後の意地だった。高校生になった俺として、真琴さんと会話がしたかった。
最後に、高校生の俺として初めて、挨拶がしたかった。
「息子さん、目が綺麗ですね」
真琴さんは満面の笑顔を浮かべた。
可愛かった。誰よりも可愛かった。
「そうなの、夫にそっくりなのよ」
俺も、ちょっとだけ笑った。そして、きびすを返した。
ハロー、……そしてグッドバイ。
そんな台詞が、あのゲームにあったなあ。
俺はそれから二度と、真琴さんに会わなかった。
劇中に出てくるゲームは任天堂の「MOTHER2 ギーグの逆襲」です。
台詞はムーンサイドの町で聞けます。
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