群青の一閃
自らの耳を疑った。
凍り付いたシーサーペントが――死体が、声を発するはずがない。
なら、この轟く咆吼はいったい誰が発している?
その答えを直感的に理解させられた。
シーサーペントは二体いたのだと。
「冗談……キツいぜ」
咆吼が轟いた先で大きくうねる蛇を見る。
深緑の鱗にいくつもの傷跡を残す、歴戦の個体。
その巨大さは果てしなく、倒したシーサーペントよりはるかに大きい。
俺たちが相手をしていたのはただの子供に過ぎなかった。
「くそ……」
初めに感じた違和の正体はこれだった。
周囲に天敵が存在しない環境で育った子供が初めて受けた反撃。
だから驚き、混乱し、逃げ帰った。
人魚たちが何世代もの間、恐れてきたシーサーペントは子供じゃない。
数多の生存競争を勝ち抜き、人魚の精鋭を返り討ちにした、この成熟した個体なんだ。
「シャァアアアアアアアアァァァアアアアアアッ!」
子を殺された恨みからか、咆吼には憎悪が混じる。
そしてシーサーペントは水中にあって霧を食んだ。
閉じられた口腔から漏れ出す、きめ細かな気泡の数々。
その現象には見覚えがあった。
サラマンダーの火炎放射。
その予備動作に酷似している。
「――不味いっ」
即座に水底に手をつき、魔氷の壁を生成する。
防御壁として迫り上がると同時にシーサーペントのそれは放たれる。
無数の気泡を孕む、超高圧の水ブレス。
閃光のごとく撃ち放たれたそれは一瞬にして魔氷の壁を打ち砕いた。
「ぐっ――」
魔氷が緩衝材となり直撃は免れた。
だがその余波によって生じた水流はこの身を攫うほど激しいもの。
勢いに流されながら必死に体勢を整えようともがく。
「透さんっ!」
その最中、セリアに手を引かれて水流から脱出する。
「悪い、助かった」
やはり水中では身動きが取りづらい。
「いえ、透さんが守ってくれていなかったら今頃は……」
目の前にはブレスによって酷く抉られた水底が広がっていた。
地震で亀裂が生じたかのような光景にシーサーペントの強大さを思い知る。
触れれば魔氷すら砕け散る。
生身で受ければ骨すら残らない。
「あの蛇野郎……」
シーサーペントは水流を操り、嵐を起こしていた。
各地に渦巻きが発生し、水流が無茶苦茶に流れている。
まるで自身の怒りを表現しているかのように。
だが、ブレスで吹き飛んだお陰で俺たちを一時的に見失っているみたいだ。
「どう……しますか?」
そう問うたセリアの意図はわかっている。
こうなった以上、選ばなければならない。
贄となるか、このまま抗い続けるか。
その答えは最初から決まっていたし、今でも変わらない。
「セリア。俺を担いであの死体のところまで行けるか?」
シーサーペントの凍死体。
あそこにたどり着ければまだ勝機はある。
「……難しいですね。この乱水流の中を突っ切るとなると」
セリアはすこし思案して答えを出す。
「五分、と言ったところですね」
「上等。それだけあれば十分だ」
すこしでも可能性があればと思っていたが。
五分もあると言うのなら挑戦する意味はある。
「一つ、聞かせてください。たどり着ければまだ勝機はありますか?」
「あぁ、どうにかこうにかして見せるさ。必ずな」
「……わかりました。しっかり捕まっていてください」
セリアは俺を背負う。
「必ず、送り届けますから」
そして力の限り尾鰭で水を掻いた。
瞬間、凄まじい加速を伴って動き出す。
こちらが振り落とされ兼ねない速度で乱水流に跳び込んだ。
「シャァアアアアアァァァアアアアァアアアアッ!」
見つけた。
そう言っているのだろうか。
シーサーペントは俺たちを見据えて咆吼を放つ。
同時に、いくつもの水の刃を周囲に展開した。
一斉に掃射される刃の群れ。
それは乱水流によって軌道が乱れて先が読みづらい。
しかも無数に分裂して弾幕と化したそれが俺たちに迫る。
「このくらいっ!」
だが、セリアはそれを紙一重で避け続ける。
一つの迷いもなく、人魚としての本能のまま突き進む。
そして刃の弾幕を躱し切った。
「――やった!」
けれど。
「シャァアアアァァアアァァァアアアアアアアアッ!」
その先を読み、シーサーペントは待ち構えていた。
わかっていたんだ。
俺たちがどこをどうやって抜けてくるのかが。
水流と水刃を巧みに操り、俺たちをこの場所へと誘導していた。
その口腔が霧を食む。
このままではいくらセリアでも躱しきれない。
「魔氷をっ!」
一か八か、魔氷でブレスを受け流す。
咄嗟に右手が前に出た。
セリアから、手を離した。
瞬間。
「――シーサーペントを倒してください」
その右手が握られる。
「絶対、ですからね」
そして、そのまま投げ飛ばされた。
「なっ――」
今までの加速を利用された。
この勢いに逆らうだけの術が俺にはない。
一瞬の迷いもなかった。
最初からこうするつもりで。
セリアは自分を犠牲にしてでも俺を送り届けようとした。
「セリアっ!」
魂が彼女を叫び、戻ろうとする。
だが、それでも骨の身体は付いてこない。
引き離される。
遠く遠くなっていく。
もうこの手は届かない。
「シャァアァァアアアアアアァァァアアアアアアアッ!」
そして無慈悲にも時はくる。
セリアを目がけて不可避のブレスは放たれた。
「――撃てッ!」
瞬間、数多の矢がシーサーペントを貫く。
その不意打ちに怯み、ブレスはセリアから逸れた。
「いま……のは……」
起こるはずのない奇跡。
あるはずのない援護。
矢が放たれた方向へと目を向ける。
そこには武装した数多の人魚たちがいた。
「――今こそ! 贄となった祖先の無念を晴らすときだ! 戦え! 挑め! 誇り高き戦士たちよ!」
中心に立つセリアの兄が号令を放つ。
それを受けた戦士達は、雄々しく叫びながらシーサーペントへと戦いを挑んだ。
「いったい、なにがどうなって……」
目の前の光景が信じられなかった。
次々と人魚の戦士達がシーサーペントへと襲い掛かっていく。
贄を捧げて戦いを回避し続けてきた人魚たちが、だ。
どうして、こんな。
「透さんっ! これって」
助かったセリアがこちらにくる。
「俺にもなにがなんだか」
セリアの問いに俺も正確な答えを出せずにいた。
「――まったく、お前たちには肝を冷やされる」
「お兄様っ! これはいったい」
セリアの兄がこちらにくる。
困ったような表情をして。
「牢屋からお前たちがいなくなったのでな。追いかけてきた」
「追いかけてきたって。でも、ならその装束は……」
「あぁ、これか?」
その出で立ち、装束は以前に見たものとは違っている。
それは間違いなく戦士のそれだった。
明らかに戦いの準備をしてから、ここに来ている。
「二人が戦いを挑みに行ったことはすぐに見当がついた。セリアが逃げるはずもない。それに元々、そちらのスケルトンがそう言っていたからな。だから、シーサーペントとの戦いは避けられないと腹を括ったのだよ」
腹を括り、戦うことを選んだ。
「元々、現状をどうにかしたいと思っていた者が多くてな。これ以上、贄となる者を増やすくらいならと、同意者のみで決戦を挑むことに決めたのだ」
「それで、これだけ多くの人魚たちが?」
「あぁ、どうやら私たちはまだ誇りを失ってはいなかったらしい」
もちろん反発する者もいただろう。
怒りが鎮まるのを待つべきだと考える者もいたはずだ。
けれど、それでもこれだけの人魚たちが戦うことを選んだ。
自らの尊厳と誇りを取り戻すために決戦を挑んだ。
彼らもまた死を受け入れ切ってはいなかったのだ。
生を諦め切ってはいなかった。
「それで、だ。あのシーサーペントを仕留めたのは、そなたか?」
兄の視線が凍死体となったシーサーペントへと向かう。
「あ、あぁ。そうだ」
視線は次に嵐を巻き起こすシーサーペントへと向かう。
「なら、あのシーサーペントも倒せるか?」
「……すこし時間を稼いでほしい」
先の一戦で魔力を使い過ぎた。
いまの俺では倒せない。
だから時間がほしい。
「そうすれば俺が必ずシーサーペントを倒す」
「それは重畳。この戦いにも勝機が見えた」
そうしてセリアの兄は俺の肩に手をおいた。
「頼んだぞ、そなたが要だ」
そう言い残して彼も戦いに参加した。
「――」
色んな思いが胸の中で錯綜する。
言葉で言い現せないくらいほどだ。
だからこそ、なすべきことをなさねば。
「行こう、セリア」
「はいっ」
再度、セリアに背負われて乱水流を突っ切った。
「矢を放ち続けろ! 注意を我らに引き付けるのだっ!」
「しかし、この乱れた水流の中では水刃の軌道が読めませんっ! 長くは持ちませんぞっ」
「それでもいいっ! ありったけをぶつけろっ!」
シーサーペントは人魚の戦士たちが相手をしてくれている。
お陰で意識がこちらにまで及ばない。
俺たちは乱水流を乗り越え、凍死体へとたどり着く。
「つきましたっ! でも、ここでなにをっ」
「なに、簡単な話さ」
白銀刀を構築し、凍死体を切り刻む。
「パワーアップだ」
そうして露出した骨に手を当てる。
目的はこの凍てついた骨格だ。
スケルトンの特性である混淆を発動し、そのすべてを吸収した。
四肢が、胴が、頭蓋が、水の魔力で満たされる。
「くぅ……あぁ……」
変異の兆候である苦痛が生じた。
骨格が新たに生まれ変わり、本来あるはずのないものまで現れる。
それは一振りの尾。
俺は尻尾とともに新たな力を手に入れた。
「――シーサーペント・スケルトンに変異しました」
変異はそうして完了する。
潜在魔力が大幅に底上げされ、水の魔力が全身を駆け巡っている。
それをそのまま体外へと放出すると魔力は生前を象るように俺を包み込んだ。
「――シーサーペント・スケイルを会得しました」
その直後から水中特有の動きづらさが解消された。
この状態なら水の抵抗をまったく受けない。
地上と変わらない動きができる。
「と、透さん……それって」
「あぁ、シーサーペントの骨格を取り込んだ」
水流を操作して水底から浮かび上がる。
今ならこの水中を自由気ままに泳ぐことが出来そうだ。
「これなら勝てる。行こう」
「はいっ! もちろんです!」
俺たちは共に戦線へと跳び込んだ。
「――族長! もうもちません! 戦線が崩壊します!」
「くぅ、まだなのかっ! スケルトン!」
乱水流に乗って水の刃が乱れ舞う。
「待たせたな」
その最中に俺たちは到着した。
「おぉ! 来たか! ……その姿は」
「詳しい説明はあとだ」
そう言って両手を左右に伸ばす。
「まずはこの嵐を止める」
そして、シーサーペントの特性を発動した。
乱水流には乱水流を。
水流を操作することによって乱水流を乱水流で相殺する。
無茶苦茶な流れも、各地に起こる渦巻きも、そのすべてが消失した。
あとに残るのは大いなる緩やかな流れのみ。
もはや嵐は起こらない。
「止まった?」
「止まったぞ! 嵐が止まった!」
「これで戦線を立て直せる!」
凪のような戦場に戦士たちの叫びが轟く。
形勢は逆転した。
「――総員、突撃! 今ここでシーサーペントの首を取れっ!」
いくつもの鏃が、いくつもの矛先が、シーサーペントへと向かう。
この場にいる全員が突撃を開始し、その首を討ち取るべく水を掻く。
俺もそのうちに混ざり、白銀刀を振るった。
「このまま行けばっ」
シーサーペント・スケイルによる游泳速度は人魚にも引けを取らない。
その速度を生かし、迫りくる水刃を躱しては深緑の鱗を斬り裂いてく。
矢に射抜かれ、銛に突かれ、刀に斬り裂かれる。
乱水流を無効化した今、水刃は素直な軌道しか描かない。
いくら数が多くともそれを躱すことはたやすい。
躱しに躱し、反撃をシーサーペントの身体に刻んでいく。
「シャァアアアァアァァァァアアアアアアアアッ!」
しかし、シーサーペントもそれで終わらない。
大量の水刃を展開し、掃射、拡散させた。
周囲に貼り付いていた人魚たちは距離を取らざるを得なくなる。
その一瞬の隙をついてシーサーペントは包囲を抜けた。
「しまったっ!」
そして、その口腔が霧を食む。
未だかつてないほど大量に。
「不味いぞっ! 総員、退避!」
セリアの兄が回避を指示する。
それに従い、人魚たちは急いで戦場を離れていく。
けれど、俺はそれには従わなかった。
「透さんっ! なにをっ!」
水底に降り立ち、白銀刀を振り上げる。
「奴が恨んでいるのは子を殺した俺だ。確実に俺を狙ってくる」
事実、シーサーペントは散る人魚たちに目もくれない。
俺だけを見据えて霧を食んでいる。
「一緒に逃げたら巻き込んじまうだろ? だから、迎え打とうと思ってさ」
実際、出来るかどうかはわからない。
けれど、やるしかない。
「セリアもはやく逃げ――」
「嫌です」
セリアは俺の背中に寄り添った。
「迎え打つなら私の魔力も使ってください」
そして人魚の魔力が流れ込んでくる。
「……いいのか? 下手すりゃ心中だぞ」
「元より私は贄です。ここで死ぬ定めでした。でも、あなたが希望を与えてくれた。だからあなたを信じます。必ず倒すと、誓ってくれたから」
「……こりゃ、死ねなくなったな」
なにがなんでも生き残らなくては。
「行くぞ」
「はい」
白銀刀に魔力を込める。
ありったけを人魚の魔力と織り交ぜて注ぎ込む。
白銀の刀身は、いつしかその色を変えていた。
深い深い青に染まる群青だ。
「シャァアアアアアアァァアァァアアアアアアアアッ!」
シーサーペントからブレスが放たれた。
気泡が視界を埋め尽くし、視野が白一色に染まり切る。
その中で一歩を刻み、刀身を振り下ろす。
一刀は一閃を描き、高密度の水刃となって放たれた。
ぶつかり合う白と群青。
喰らい合うブレスと刃は、拮抗の果てに互いの存在意義を果たす。
瞬間――気泡が晴れて視界が開く。
群青の刃が彼方へ馳せる。
「――俺たちの勝ちだ」
水刃はシーサーペントを斬り裂いた。
深緑の鱗を引き裂いて、それは命にまで届く。
二つに分かたれた海の大蛇は、その身体を地に還すように崩れ落ちる。
シーサーペントの生命はここに潰えた。
「終わったん……ですか? 今度こそ」
「あぁ、終わったよ。今度こそ」
今度こそ、本当に終わった。
「――透さんっ!」
またセリアに抱き締められる。
目に涙を浮かべながら、心の底から安堵しながら。
つよく、つよく。
「勝ち鬨を上げよっ! 我らが友! スケルトンがシーサーペントを討ち取ったぞっ!」
「オオォォォォオオオオオオオオオオオオオッ!」
勝ち鬨が上がり、戦士たちが叫びを上げる。
シーサーペントの脅威は去り、贄の必要はなくなった。
これでセリアは死の定めから解放される。
俺たちは自分たちの手で未来を勝ち取った。
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