16 ーシルバー
あまり動けない紫鈴を横抱きに乗せ、アリを走らせること、数刻。王都を抜け、郊外に出たところで日が暮れた。
小さなカリマを持ってきたので手早く野営の準備をする。紫鈴はぶちぶち文句を言いながらも、こちらが頼む前にアリの世話をかって出てくれている。呼吸が合ってきた。
顔には出さず喜びながら小鍋に塩漬け肉と根菜を入れて煮詰めていると、紫鈴が話しかけてきた。
「キサさまの所に行くの、あの時以来よね」
「ああ、おまえは野営に慣れていなかったな」
まだ婚姻を結ぶ前に一度、キサ・グルカの元を訪れた事があった。紫鈴と結んだ婚姻の掟の件で一度村に戻らなければならず、王都と村の中間に位置するキサの所へ身体を休める為に寄せてもらった。
紫鈴と共に野営をしたのも、その時が初めてだった。
「そうね、外に出るとしても日帰りの仕事ばかりだったわ。守られていたわね」
「あの方にとっては大事なのだろうさ、お前も義弟も」
そう言うと、でも緑栄には一泊、二泊の仕事も頼んでいたわよ? と新妻は悔しそうに口を尖らせている。
「まぁ、お前は奥宮が主だ。表宮とは仕事の内容が違う」
「それはそうだけど」
まだ納得がいかない様子の紫鈴に、シルバは頭をぐりぐりと撫でて慰めた。
双子の弟に張り合いたいのは分かるが、そんな紫鈴に荒事をさせたくないと思う煌明帝の気持ちも良く解る。
幼少の頃から気が休まらない場所にいて、心置きなく話せる乳兄弟の存在は希少だ。
言葉には出さないが、常に双子の事を気に留めているのだ。帝と話す機会が多くなるにつれ、それを強く感じる。
「俺と共にいれば必然的に泊まりも多くなる」
「シルバ?」
くるりと鍋をかき混ぜながら、ほぐれてきた肉を鍋のへりに当てこすった。少しずつ小さめの塊にする。
紫鈴は顎が細いのか固いものを噛み砕くのが得手ではない。シルバが野営で使う食材を出すといつまでも食べているのだ。
「そのうちフル族の食事にも慣れてしまうかもしれないな」
「あ、味は好きなのよ? ただちょっと固いだけで、時間さえ許せばもっと食べたいもの」
「時間をかけると量が入らない。痩せるのは反対だ」
そう言いながら紫鈴の滑らかな頬をつまむ。すっきりとした顎の線は魅力的だが、身体を張った仕事の時の体力の取られ具合がシルバは気になっていた。
初めて出会った時に倒れて動けなくなっていた印象が拭い切れない。
わざと薬を使ったのだとしても、一晩で回復しなければ意味がない。紫鈴の身長からいえば体重がもっとあってもいいのだ。
「もう少し肉がついていても俺はかまわない」
「いやよ、女官服を来た時に目立つじゃない」
「そうか?」
太い帯で胴体を締める高位女官の衣装は、逆に腰周りが細くみえるようだが。
「身奇麗にしておくのも女官のたしなみってものなの、人妻になったからっておろそかにしたら後ろ指さされちゃう」
「多少肉がついた方が人妻らしいと思うが」
「……シルバは豊満な方が好みなの?」
流麗な眉がぎゅっと寄った。お、妬いたな、と込み上がる笑みを抑えて、そうだと言ったらどうするのだ、とからかってみる。
「……体質的に太らないのよっ」
「別に好みだとは言っていない」
「へ理屈ばっかりいってっ」
怒気がこもった声を吐いたので、引きどころだ、と丁度良い具合に仕上がった煮込みスープをくんで渡す。
「わるかった、しっかり食べて体力をつけて欲しいだけだ。今朝無理をさせたからな」
「ばっ!! そんなこと言わないでっ」
ぼんっと首筋まで真っ赤になる新妻は本当に愛らしい。
こんな人っ子一人いない野宿の場所でに誰かに聞かれていないかきょろきょろと周りを見渡すのだ。
こみ上がる微笑みを、シルバは隠すことなく表にだした。それを見た紫鈴の目元がさらに紅く染まる。
「ああ、わかった。とりあえず食べてからな」
「私は何もいってませんっ」
「わかったわかった」
「そういう意味じゃないって! ああもう、どうしたらいいの……」
「そのままでいい。変に構えないでくれ」
「シルバ?」
親しい相手でも極力読まないようにしている。しかし紫鈴にはついその戒めが解ける。豊かな表情もそうだが、妻に、家族になったと思うと弛む。
だが、半年前まで他人だったのだ。慣れろといっても無理な話だ。
やはり自分の方で見ないようにしなければ、と前髪をくしゃりとさわって顔をあまり見ないようには降ろす。すると紫鈴は、細い指を伸ばしてきて逆にシルバの前髪を掻き上げた。
「……別に二人きりの時は降ろさなくていいわよ」
「いいのか?」
「前髪を上げてるシルバも好きだもの。明日からは当分見られないし」
「……」
目元を染めたまま、こちらを見ずに早口でいうのだ。どうしてくれよう。
「沢山食べろ」
「食べてるって。あ、お肉小さく切ってくれてありがとう。ごめんね、子供みたいで」
含んだ肉をよく噛みおえて、涼しげな目を恥ずかしそうに伏せながらきちんと礼をいう紫鈴。淑女のような顔のまま、薄い唇は肉の脂で艶めかしく火を映している。
「本当にお前は……」
なぁに? とこちらを向くあどけない表情はシルバにしか見せない顔だ。小首を傾げるから頭の上の方で一つに結んでいる豊かな髪が首筋を通って胸まで垂れてくる。
これで誘っていない、というのだから始末がわるい。
「もっと沢山食べろ」
「ん、食べてる」
「もっとだ」
「まだ噛んでるってば」
「明日、キサ叔父の所には昼すぎに着くようにする」
「え? 朝から出発しないの?」
「ああ、たぶんな」
おそらく朝には起きれない事になるだろうと見越して先に宣言しておく。
ふに落ちない顔まで食べてしまいたいくらいだ、と本人に告げれば機会を逃す。とにかく今は休暇中なのだ。裏の仕事があるとはいえ、名目が休みならば少しばかり到着が遅れても文句はなかろう。
「キサ叔父は細かいことは気にしない漢だから大丈夫だ。ゆっくりと行こう」
「シルバがそれでいいならいいけれど……あ、笑った。なんかちょっと……なに考えてるの?」
「いや、とくになにも。食え」
「あやしいわね、もうだいぶ食べたからいい」
「もうちょっと入る。食え」
「そんなに食べさせてどうするの。ああ、わかったってそんなによそわないでっ、食べ残すのやなの! 半分にして!」
「残ったら俺が食べる」
「旦那さんにそんな事はさせたくないってば。もう! シルバ!」
無意識に心をくすぐる事を言ってくる妻に、夫は嬉々として焼いた肉をさらに細かく一口大に切って皿にのせた。
さんざん食べさせられた妻は旅路の疲れも相まって、カリマの中で寝支度の準備が完了したと同時に寝こけてしまい、火の始末をして意気揚々とカリマに入った夫を唸らせてしまうのだが。
転んでもただでは起きない夫はそうそうに隣で入眠し、翌朝、寝ぼけて気が緩んでいる新妻を軽く食んで機嫌よく昼前にはキサ・クルガの住まいへと到着したのであった。
カルマとは放牧民のゲルに相当する造語です。
小さなカルマ=小さなテント、と思って頂ければ幸いです。




