13 隠しても、蓋は外れて。ー春華ー
翌朝、店を開く一刻前には緑栄は華月堂に戻ってきていた。昨日の夜、実家に泊まりますと伝言を寄越していたので父母はここでの泊まり込みも大変だから、たまには帰ったらいい、と和やかに話していた。
「少しゆっくり出来たかい?」
「はい、とても。すみません、先に言っていなくて。ご心配をおかけしました」
穏やかに母と話す緑栄の姿は、昨日と変わりない。春華は必死に冷やした目元を気にしながら、あまり話しかけられないように土間の掃除の次は店の格子戸を一本一本乾拭きしていた。
「あ、そこも拭くのね、じゃあ私はこちらからやるわね」
緑栄は右端から拭いていた春華の後ろを通り、反対側の左端から丁寧に布を当ててだした。
春華はありがとうございます、と小さく言って順々と中央へ向かっていくと、緑栄と距離が近くなっていくのに気がついた。
一枚、二枚ときて三枚目には隣り合わせになってしまう。それを避けたくて急いで先に拭いてしまおうとやっきになっていると、そっと細い指が視界に入って前髪をふわりと上げられた。
「なに、を……?!」
「目が赤いね」
小さく言われた声は男の人の声だった。
春華はどきりとして口をきゅっと結ぶ。
覗き込んできた穏やかな目がふっと細まり顔が離れると、おかみさーん、と紫鈴の声になって緑栄は告げた。
「おかみさん、春華さん、ちょっと顔が赤いみたいだから裏庭で風に当たった方がいい気がします。ちょっと座らせてきますね」
「あら、珍しい。疲れが出たかね? ほとんど準備は終わってるから開店まで休んできていいよ」
厨房から顔をだして頷く母に、大丈夫、と言う間もなく手を握られて店と母屋の間にある裏庭に連れ出された。
「り、緑栄さま?」
小さな庭の中央に植えられた古い楓の木の下に緑栄は春華と共に立つと、春華に振り向きふわりと笑った。
「泣いたんだね、あの後」
「っ! 泣いてませんっ」
とっさに否定して、はっと、口元に手をやる。目元が赤いのはもう知られているのに、意味もない嘘をついてしまった。
くすり、とすごく近くでくぐもった声が聞こえ目を上げると、涼やかな黒い瞳とぶつかる。
そんな姿も愛おしいとでもいうように見つめられて、春華の鼓動は早くなってしまった。
「言葉は違うというのに、貴女の目は赤いし今は少し潤んでいるし、嘘つきで正直だね。分かっていてやってるの?」
「そんなっ」
どんな思いで気持ちを畳んだのか知りもしないで、という想いと見抜かれてはならないという想いで春華の心は揺れに揺れた。
でも、言えない。
あんな振り方をして、ほんとはこんな風に話すことができるとは思っていなかった。
いつまでここに居てくれるのか分からない。けれど、ずっと気まずいまま、喋られないままでいると思っていたのに。
「ごめん、泣かないで」
気がつけば一雫、涙がこぼれてしまっていた。やだ、ととっさに袖で拭おうとした手を捕まえられる。
そして目尻に涙とは違う温かいものが触れた。
「り、りょくえいさまっ」
「ん、泣かした責任は取ります」
なにをされたか分からず呆然と見上げた春華の顎をとらえると、緑栄は丁寧に頬に伝う筋を唇で清めた。
「や、や、やめっ……!」
「うん、唇は奪わないことにする。ちゃんと貴女が私を好きだというまでね」
「どうして……」
「ん? 今すぐに奪ってほしい?」
「違いますっ」
うん、と緑栄はとても嬉しそうに頷くと、慈愛に満ちた口元が柔らかく緩んだ。
「貴女は真面目で、いつも誰かの事を思っているのを知っているよ。憂いがあり、本当の気持ちを言えないでいることも」
「緑栄さま」
目を見開いて驚く春華の顎を捕らえていた指が頬を包むと、愛おしむように撫でた。
優しくそれでいて逃がさないとばかりに真剣な瞳が、こちらを捕らえて離さない。
「待っていて、その憂い、私が無くしてみせるから」
「緑栄さまっ、だめです! 金糖は無法者のあつま……り……」
春華の言葉を緑栄は人差し指で止める。
「ありがとう、でも心配しないで」
そういうと緑栄は顔を傾けて耳元で小さく囁いた。
「私は貴女が思っているより、強いから」
くぐもった低い声にどきりした。
くすぐる吐息に震えていると、いつのまにか抱きしめられていた腕が笑って微かに揺れている。
春華は胸元で握りしめていた手でぽすりと緑栄を叩いた。
「笑わないで、ください」
「うん、ごめん」
ぽすり、ぽすりと二回叩く。
「危ないことに巻き込みたくないのです」
「うん、知ってる。でもごめん」
三回叩いたところで我慢ならなくなり、しまいには額を肩につけた。
「私、緑栄さまのこと何も知りません」
「そうだね」
いつ緑栄を目で追うようになったかなんて、出会いからとしか言えない。
誰も知らない奥宮の裏山にある泉で見た緑栄の裸身。女装していると知った衝撃と興味。
いつしか紫鈴との違いを見分けるようになって、黙って、その秘密を守らねばと勝手に思って。
奥宮の掃除道具入れの中で抱きしめられた時に気付いてしまった。
この広い胸に強く抱きしめられた時に知ってしまった。高まって止まない鼓動に驚いて、逃げてきてしまった。
私とは身分が違う。
私には嫁がなければならない相手がいる。
この片思いの恋は奥宮にいる時だけの一時の夢。
そう自分に言い聞かせて。
でも緑栄は来てくれた。
すぐに追って。
そして今も、ひどい仕打ちをした自分を包んでくれている。
ゆっくりと、頭を撫でて。
春華は、自分と同じ女性物を着ている着物の端をぎゅっと掴んだ。
「華月堂を特に好きだった訳ではありません。生業だったから当たり前のように手伝っていただけです」
「うん」
「最初はなぜかうちが金糖に目をつけられて砂糖の卸値を上げられたのです。父はもちろん他の卸店にも頭を下げにいきましたが、ひと匙分もおろしてもらえなくて」
うん、と相槌を打ってくれる声に勇気をもらってとつとつと言葉を紡ぐ。
「なんとか値を下げて貰うために家族総出で頭を下げに行きました。そしたら」
「丁に見初められてしまったんだね」
こくりと頷いた。
「父と母はそんな事をさせるつもりはないと抵抗してくれたんです。でも私がいいと言ったんです。だって……」
「華月堂を守りたかったんだね」
春華は堪らなくなって、首を横に振った。
そんな良い娘ではない。逃げたのだ、毎日のように丁が店にくるようになって、人目をかすめて身体を触られるようになって。
「逃げたんです、やっぱり嫌になって、嫌で嫌で。私、奥宮に上がらせて頂く時に女官長さまに聞いたのです。年季を何年伸ばせますかって。両親がその間、店が困窮して大変な思いをしているの、わかってて。……ひどい……娘……」
歪んだ視界はいつのまにか臙脂色の縞模様に吸い取られた。黙って震える背中を優しく撫でてくれる手に、春華はもう無理だ、と思った。
この手を離したくない。
この手以外を握りたくない。
この手を、もう、振り払いたくない。
「覚悟して戻ってきたのに……だめで、我慢したけれど……だめで……そしたら緑栄さまが来てくれたのです。私っ……わたし、少しほっとしてしまった。だめなのに」
「だめじゃないよ」
「自分で決めたのにっ」
「自分の心に嘘をついた決め事は、どんなに頑張ったって成り立たないんだよ。状況的にそちらがいいと思ってもね」
少しだけ身体を離した緑栄は、止めどなく流れる涙を春華の大好きな細い指で拭ってくれる。
「大丈夫だから、待っていて。春華さんを金糖にいかせないし、華月堂がつつがなくおまんじゅうを作れるようにするから。そのように動いているから」
「緑栄さま……」
「あと貴女に好きだといってもらえるようにね」
もう、いってもいいけれどね、と囁かれたけれど、春華の口はきゅっとつむったままだった。
緑栄はくすくすと笑って、頑固、と呟くと、春華が落ち着くまでずっと抱きしめてくれた。




