11 金糖にて無になる ー緑栄ー
「くっそぉ……頑固っ!!」
緑栄は足早に華月堂の近くを流れる水路の橋の下に身を隠すと、だんっ、と太い柱に拳を叩きつけて抑えていた想いを吐き出した。
自分の身を案じる姿、戻ってきて安心した顔、明らかにこちらに心はあるのに。
厨房から戻って来た時にきれいに想いを消した春華に苛立ってしまった。しかも追いつめて引き出した答えは頑ななもので。
華月堂が窮地に立たされているのは重々承知だ。どうして嫁ぎたくもない相手の元に行こうとするのかも。
でもせめて、事情を話してくれるとか、こちらの立ち位置を察しているならば相談に乗ってほしいとか、やりようはいくらでもあるのに。
春華は自分を頼ろうとしない。
己の心に蓋をして嫁げば済むことだと、頑なに自分を遠ざける。
「あー!! もうっ!! わかった、分かりましたよ、信用ならないんでしょうよ! そうでしょうよ!!」
そもそも女装するような男なのだ。春華からみて自分は市井のならず者につかまらないか心配されてしまう男なのだ。
実際そんな事になったら路地の陰に紛れて数瞬で倒すに決まっているのに、春華は知らない。彼女からみる緑栄は、女の格好ができてしまう細身の優男なのだ。
緑栄はもう一発今度は自分の手のひらにきつく叩くと、ゆるく町娘風に結っていた髪を解いて馬の尾のように高くきつく結い上げた。
「金糖どーにかすりゃあいいんでしょう、金糖を」
何本かある木組みの柱の一箇所に隠してあった黒装束を出し、夕闇に隠れて手早く着替える。
「自分の幸せよりも店。私のことよりもおまんじゅう。ええ、ええ、わかっていましたよぅ、私はおまんじゅうよりも立場が低いってことは! それもこれも砂糖止めてやがる金糖が悪い!!」
春華が自分を選んでくれなかった怒り、大好きなおまんじゅうに恨みをもってしまいそうな理不尽な想いをすべて金糖へ無茶な転換をする。
「悪行見つけてゆるーく外堀から平和的に丁重に身を引いてもらおうと思っていたんですけどねぇ?」
今の春華は思い余って明日にでも自分から嫌な手を取ろうとしそうに見えて怖い。
「……待ってられるか。金糖、ぶっ潰してやる」
夕暮れの橋の下で低く吐かれた言葉は闇に紛れ、うっかり通りすがった野良犬がきゃふんと声を上げてひるがえり、元来た道を一目散に走って逃げていった。
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船着場の近くの倉庫の前は暗く、夜陰に紛れて軒先に忍び込むにはなんの苦もなかった。大きな商家らしく建物の梁は太く、緑栄が乗っても軋みもしない。
店側のにほど近い大広間ではならず者まがいの荷役が車座になって酒を呑みながら賭けをしているようだ。緑栄はそちらは一瞥したのみで奥へと静かに進む。
室内の灯りがもれている方へ向かうと、しゃがれた声が聞こえてきた。
「……首尾は、どうだ」
「は、ぬかりなく、流通はほとんどこの金糖が握りましてございます」
先に発した男の声に訛りを感じて緑栄は天井板の隙間から室内を伺う。
四隅に趣味の悪い大きな陶器が配置された部屋の中央に円卓があり、上座に布を頭に巻いる身体の細い男が座っていた。
その隣で酌をしている女が一人、向かいにいるので顔は見えねど揉み手をして機嫌を取っているのが金糖の主人、呂沌だと思われた。
「そろそろこちらからの親書が上に届くはずだ。飲まなければこちらに流している砂糖を一旦止める。不都合は?」
「ありません、ラジーさま。貯めてある在庫を細く高く売ればいいだけの話ですので」
「おそらく止めるのは一時の事だ、他で調達しようにも最大の輸入国は我が国をおいて他にはない。せいぜい高くふっかけて稼ぐことだ」
しゃがれ声がくつくつ笑うと、ありがたき幸せにございます、と呂沌も合わせたように笑う。
「ときに、そちらの息子殿が嫁御をもらうとか?」
「はぁ、二月後ぐらいには」
「首尾よくいけば我もまたその時分にはここに来れよう。その時にはここで良い美酒を呑みたいものだなぁ」
「……若い美酒をと?」
「我も共に祝いたいものだ」
「ありがとうございます。息子も嫁もよろこぶでしょう。その時は良しなに」
「祝儀は弾む」
にっそりと笑った男にほっほっほと嬉しそうに笑う金糖の主人に緑栄は何の表情もなく懐に手を入れた。
と、その手を掴んだ者がいた。
緑栄よりも顔を白くさせながら首を振った目の吊り上がった男に、くいと顎で指示をすると何度も首をわずかに横に振る。
緑栄は仕方なく懐に入れた手の力を抜くと、男は気配を緩めて下がっていく。緑栄もその男に続いて軒先から外に出た。
夜の路を音もなく連れ立って駈け、緑栄が着替えた橋の下まで戻ると、何やってんすかっ! と詰られた。
緑栄を止めた同じ黒装束の男は桓惠だ。
「あそこで消すも他の場所で消すも変わりないだろ」
「今は泳がせるに決まってます! 感情で動かないでくださいっ」
「お前だって聞いていただろう? あの野郎、春華をはべらすつもりだ。加えて舅となる男もわかって差し出すクソ野郎。生きている価値ないだろ」
無表情で淡々とただ消せばいいという次期長に桓惠はぞっとしながらも馬鹿言わないで下さい、と生唾をのみながら回避する術を考える。
「しゅ、春華殿が嫁がなければいいのです。そうすればあの者の毒牙にかかる事もない」
「そうだよ? 最短は金糖を潰せばいい。さくっと無くしてしまえばいい」
「潰せばその先につながるものも消してしまいます! 今は待ってくださいっ」
「……主が動いてるの?」
桓惠の執拗な止めるようすに、緑栄の瞳の色が無から生に戻ってきた。
桓惠はその顔をみてどぉっと汗がふきだす。
「そ、そうです、今は泳がせるように承っています。また、別件でシルバさまが一時期、王都を離れます。今、事を起こしてはなりません」
「なにそれ、聞いてないんだけど」
「それをお伝えしたく探しにきたんですよ! ほんと、勘弁っす」
しゃがみこんで汗をぬぐう桓惠に、緑栄はふぅ、と息を一つはくと、ごめん、と一言つぶやいて装束を脱いだ。
「はぁ、なんだかお腹すいちゃったね。ご飯食べにいこっか」
「おごってくださいよ、割りに合わないっす!」
「それは父さんに言って」
侍従は薄給だよ、と女装束に着替えた緑栄は肩をすくめ、しゃがみこんだままの桓惠に手を差し出した。




