10 華月堂にて ー春華ー
青蘭が紫鈴にからかわれながら仕事の引き継ぎを教えてもらっている頃、華月堂では春華が乾拭きぞうきんを持ちながら店内のふき掃除をしていた。
時おりちらりと細く縦に入った格子窓から通りをみるのだが、まだ緑栄は帰ってこない。
日はだいぶ西にかたむいていて、何も言ってはいかなかったけれど、夕暮れ前には戻ると思っていたから気になって仕方がない。
「おそわれても大丈夫かもしれないけれど」
それでも万が一、ということがある。宮中とは違って市井は路地を少し入れば乱暴者が居る事もあるのだ。
女装をしている男性とはいえ、細身の緑栄が複数の狼藉者に囲まれたら一たまりもないのではないか。
「あんなに美人なんだもの、どうしよう、どこかに引きずり込まれてしまったらっ」
「ありがとう、大丈夫よ」
どんどんと悪い方へと広がっていく思考に、まったをかけてくれたのは他でもない紫鈴に化けた緑栄だった。
「えっ?! あっ、おかえりなさいっ」
「ただ今もどりました。心配してくれてたのね、ありがとう」
さっき通りを見た時は居なかったのに、いつのまに帰っていたのだろう? しかも表の戸が開いた気配がなかった。
突然目の前に現れた緑栄にびっくりして目を見開いていると、ごめんなさい、少し家の周りを警戒してから入ったから、表からは戻らなかったの、と緑栄は柔らかく笑った。
「そ、そうなのですね。びっくりしました」
「うん、たまにそういう時あるから。慣れてくれると嬉しい」
緑栄はちらりと厨房をみて人がいないのを確認してから言葉使いを変えた。ただそれだけのことで、春華の鼓動はどきりとはね上がる。
気づかれてはならない、ととっさに身をひるがえすと、おつかれですよね、お茶はいかがですか? と厨房に向かいながら声をかけた。
「ありがとう、頂く。えっとその……おまんじゅうは……」
遠慮しながらも聞いてくる緑栄に、春華はおもわずくすりと笑ってしまう。
「大丈夫です、ご用意しますね」
厨房と店内を支える柱の影から顔を出してうなずくと、机に座った緑栄はやった、と少年のような笑顔をみせて喜んだ。
やかんを火にかけながら春華は肩をふるわせてしまう。すらっとした美人がまんじゅう一つで笑顔になる。しかもそれはめったに見られない緑栄の素の顔だ。
まいる。まいってしまう。
春華は急須に茶葉を入れながら苦く笑う。どんどん惹かれてしまうこの心をどう抑えたらいいのか分からない。
砂糖問屋の金糖に嫁ぐことはもう決まったことで、一雫の水滴が落ちたように生まれた淡い恋心が育たぬうちに自分で畳んでここに戻ってきたのに。
離れたとたんに近づいて、そして今は、婚約を盾に迫ってくる男から守ってくれている。
いやだ、と言ってしまいたくなる。
あの人と結婚したくないと。
春華は言ってはいけない言葉が脳裏に浮かんでは消えていくのを黙って耐えた。
カタカタとやかんの蓋が鳴り出したのに、垂れていた頭をあげ、気持ちを切り替えてお湯を急須にそそぐ。
いついかなる時もお茶を入れる時は、飲む人のことを思って、丁寧に。
春華が奥宮で学んだ作法だ。
結婚がいやで逃げるように奥宮へ行ったが、そんな理由の春華にも行儀見習いとしてきちんと教育してくれた。
緑栄はその奥宮の深部へ入ってくることのできる稀有な人。
感謝こそすれ、恩を仇で返すようなことはしてはいけない。
春華は茶葉が開く時間をまって、お盆にお茶とおまんじゅうをのせて緑栄の元へと歩いていった。さきほどの淡い心はかき消して。
「どうぞ、まだ熱いかもしれませんのでお気をつけて」
「ありがとう」
緑栄にはお茶とおまんじゅうを、自分にはお茶だけを置いて座った。緑栄はまずお茶を一口飲んで、薄く目を細める。
「ちょうどいい湯加減だね、おいしいよ」
「ありがとう、ございます」
春華は緑栄はすぐにおまんじゅうを食べると思っていたので驚いた。
「なに?」
「あ、いえ。おまんじゅうよりもお茶なのですね」
「あのね、春華さんはいろいろ大事なところを取りこぼしている」
「?」
疑問におもって顔をあげると緑栄と視線が絡んだ。綺麗に目尻まで薄く化粧されてある美しい瞳は、春華を見つめている。
「おまんじゅうは大好きだけれど、お茶は春華さんが私の為に淹れてくれたでしょ? お茶を飲む方が優先」
「お好きなおまんじゅうよりも、ですか?」
「好きな物よりも、自分の為に淹れてくれた行為の方が大事。ましてや貴女が淹れてくれたなら。春華さんはそんな風に人を想うことはない?」
どっ、と先ほどとは別の心音が鳴った。
指先が冷える。
貴女の方が大事、貴女はどうなの? と言われた気がした。
それはまるで、無理に消した想いをそうじゃないでしょ、と揺り戻すような。
顔色を無くした春華に、緑栄はごめん、意地悪だったね、と苦く笑ってすっと手を伸ばしてきた。
「困らせたいわけじゃなくて……うまく、言えないな」
そう言いながら春華のこわばった頬を優しく撫でる。
「自分の思いに蓋をしないで。私がここに来たのは、いつも人のために動いている君に、自分の幸せを投げ出してほしくないから」
「なぜ……」
「貴女が好きだからだよ」
春華は嬉しさよりも震えがきた。真っ先に目に浮かんだのは婚約者、呂丁のこれでもかと歪んだ忿怒の表情だった。
「だめです、緑栄さま」
「なぜ?」
「私には婚約者が」
「でも嫌なんでしょ?」
「……」
答える、術がない。
華月堂は追い込まれている。そこかしこで砂糖が手に入りにくくなっていると聞く。でも華月堂には春華が金糖へ輿入れする事が決まっているので優先的に砂糖が手に入っている。
自分が嫁ぐのをやめてしまったら、華月堂には砂糖が入ってこなくなって立ち行かなくなる。それは春華にとって、一番いやな事だ。
「嫌でも、決まったことです」
「自分の幸せよりも、お店を取るの?」
ぎゅう、と手元に持っていた茶器を掴んだ。
何度も悩んだ。
嫁ぐのがいやで、奥宮に逃げて。
でも、戻らなければと思えたのは、緑栄と出会えたからだ。
美味しそうにおまんじゅうを頬張る姿。
涼やかな目元が蕩けて、こちらまで幸せにしてくれる笑顔。
華月堂のおまんじゅうをこんなに好きでいてくれる人を、悲しませたくない。
「……はい」
こくりと頷くと、緑栄はその様子をじっと見ているようだった。
やがて、そう、と一言つぶやくと、柔らかく撫でていた手が離れていった。
春華は居たたまれなくて視線を落とすと、緑栄は懐から紙を出すと丁寧におまんじゅうを包み、大事そうに抱えた。
「少しまた外に出るわね。夕餉は実家で食べるとでも言っておいて。朝には戻るわ」
口調が紫鈴に戻っていた。春華は、小さく、分かりました、と応えた。
言いにくいこと言わせてごめんなさいね、とかけられた言葉が他人行儀で胸をついた。そして緑栄は春華の返事を待つことはなく、そのまま来たときと同じように部屋から気配を消した。
しん、と静まりかえった机に春華は突っ伏した。震える肩を抑えることは、叶わなかった。




