4 再会 ー春華ー
何も言葉が出ない春華を見た緑栄が、すっと雰囲気を変えて、さっ、お客様が待っていますよ、と柔らかく春華を店の前で待っていたお客の前に出す。
春華は、私は花びら餅、俺は草まんじゅう、と矢継ぎ早に言うお客達の注文を順番に受け、さばいていくうちに動揺を忘れ、働く事に集中していく。
お茶屋のお客様もはけて、一段落した所で店内に戻ると、父と母が額にかいた汗を手拭いで拭いながら、緑栄と卓に座って談笑していた。
「いや、初日でこんなに動いてくれるなんて、願ったりかなったりだよ、本当にうちでいいのかい? 賃金が他所と比べて安いのだけども」
「いえ、こちらのお菓子が大好きで、正直、賃金よりもそちらをいくつか食べさせて頂けた方が嬉しいくらいで」
「あら! 嬉しい事言ってくれるじゃない、ねぇ、お父さん。もちろんお商売のものはあげられないけれど、余って廃棄をしなければならないものでよかったら一つ二つ声をかけるから食べて下さいな」
「本当ですか?! その分賃金から引いてくださって構わないので、そうして下さい」
「まぁ、紫鈴さんったら」
「嬉しいねぇ、相当にうちのまんじゅうが好きなんだねぇ」
すんなりと父母と打ち解けている、遠目には女性らしい人をみて、やはり何も声がかけられない春華。
そんな様子に気づいた緑栄が、こちらを見てくすりと笑いながら立ち上がった。
「お久しぶりとまで日にちは離れていませんでしたけれど、お元気でしたか?」
髪を一つにまとめた緑栄は化粧はしてはいるが春華から見るとより中性的に見え、鼓動が跳ねそうになる。
「お、お久しぶりです、紫鈴さま」
春華は動揺が分からないように、深々と頭を下げた。その様子におや? という顔になる春華の父母へ、緑栄は少しだけ訳を話す。
「私は奥宮にて春華さまと同僚だったのです。私の方が長く勤めておりましたので、春華さまに少し細々とした事を教えた事があって。それ以来いつもこの調子なのですよ、ただの同僚ですのに、義理堅い娘さんですね」
実際は高位女官とただの女官なので著しく身分が違うのだが、緑栄はそんな風にさらりと言った。
まぁ! 奥宮で一緒に働いていた方なんて! 娘がお世話になりまして、と春華の母はとたんに頭を下げ、父は身分の高い方もおられると聞きましたが……と戸惑った顔をした。
「あ、いえ、私は町家の娘ですし、春華さまのご実家が手が足りないと伝え聞いたので、年季が開けたのを機にしばらくこちらで学ばせて下さい。事前に文が届いていると思いますが……」
「ええ、ええ、ちゃんと奥宮から紹介状が届いています。こちらとしては願ったりかなったりですよ、よろしくお願いします」
「よろしくお願いいたします。つきましては少し春華さんとお話したいのですが」
「ええ、どうぞ、今日は有難くも全て売り切ったから、あなた達の仕事はこれで終わりよ。夕餉までゆっくり話していらっしゃいな」
はい、では少しだけ。
と緑栄はいつの間にか春華の手を捉えると、行きましょうか、と例の目の奥は笑っていない瞳でにっこりと笑った。
****
店を出て、大通りに行く手前の小道を二人、歩きながら無言であった。
少しずつ歩く距離が離れてしまうのは、春華の心にやましい想いがあるからだ。
緑栄に本心を言わずに奥宮を去ってきた。
高位女官の紫鈴と双子だとすると、帝の側近に近い位の方になる。
ただの町家の娘とはあまりにもかけ離れた存在。菓子を通して言葉を交わすようになっただけでもその僥倖に感謝しなくてはならないのに。
どんどんと惹かれていく想いに蓋をして、手紙を置いて出てきたのだ。
婚約者との婚姻を避ける為に奥宮へ花嫁修行と称して入ったが、実家の窮状にそれも難しく、自分で諦めて年季を受け入れ戻った。
何もかも諦めた、はずなのに。
緑栄の声を聞くだけで、震えるほど嬉しかった。婚約者が在る身でありながら、あのおぞましい手から守って貰えて、高鳴る鼓動を止める事が出来ない。
でも、だめだ。
あと二月もすれば向こうの家に輿入れをしなければならない。
「りょ……紫鈴さま、ありがとうございました。もう、大丈夫です。落ち着きました」
春華はそっと店を出てから繋いだままになっていた手を離そうとした。しかし、緑栄の手は逆に少し痛いほど掴まれて、大通りへの道からさらにはずれた、長屋と長屋の間にすっと身体を滑り込ませた。
春華もたたらを踏むようにして人が一人通るぐらいの間に緑栄とともに入ると、柔らかくも有無を言わせず誘導されて、壁を背に緑栄と真向かいに相対するようになってしまった。
「どの口が? 大丈夫だと?」
にっこりと笑いながら目を覗き込んできた緑栄の美しいながらも紫鈴とは違った雰囲気に戸惑う。
何かが違う。
奥宮で見てきた紫鈴に化けた緑栄とは。
「緑栄、さま」
「……だめだな。やはり貴女と二人になると完全に口調が戻ってしまう」
「声が」
「ああ、どうしても。まぁ、それも仕方のない事だと自戒しています」
そう言って春華に苦笑する緑栄は化粧で彩られながらも、春華の目から見るとまぎれもない男性の笑みだった。
「お手紙を頂いて驚きました。年季が明ける事を何も貴女から聞いていなかったので」
「その節は……失礼しました。一介の女官の年季など、皆さん気になさらないですし」
「なるほど、少しは仲が良い方だと思っていたのは私だけだった、という事ですね」
「そ、そういう訳では」
容赦のない物言いが、いつもの緑栄らしくない。責められるように言われ、春華の心はぎゅっと苦しくなった。
「お家の為に砂糖問屋へ嫁がれるとか」
「……お調べになったのですか」
「調べずともご近所の方はみな、心配されていましたよ」
「……緑栄さまには、関わりのない事でございます」
「そうですか。関わりのない、ね」
視線を逸らし苦く笑った緑栄の表情に、ずきんと痛む心。しかしその内心を見せないように努めながら、春華は緑栄を家の騒動に関わらせないように敢えてはっきりと言った。
呂家の実家への仕打ちを見るにとても緑栄を関わらせていいものではない。
今は町家の出身という事になっているが、緑栄の本質がばれてしまってはどんな厄災が緑栄の家の方に飛ぶかも分からない。
緑栄がどんな身分の人なのかも分からない。でも、帝の側近である紫鈴の双子なのだ。
良家なのは間違いない。
緑栄の将来に傷がついてはならない。
それだけはなんとしても。
春華が胸の前で両手をぎゅっと握りしめた。すると、緑栄はふっと気配を緩ませて、そうですか、分かりました、と頷いた。
「実は私は陛下の勅命で市井に隠れております。調査をする為には拠点を置かねばならず、勝手ながら華月堂さまを選ばせていただきました。もちろんお父様お母様、春華さまには害は及びませんし、迷惑のかかるような事も致しませんのでご安心下さい。調査が終われば去ります。それまではよろしくお願いしますね」
そうつらつらと流れるように言われて春華は口を開けて見ていると、ではそろそろ戻りましょうか、と長屋の隙間からまた小道へと出たかと思うと、緑栄はすたすたと元来た道を歩き出した。
「あの、緑……」
「紫鈴です」
「紫鈴さま、あの、お手を離して頂いて大丈夫ですから」
「そうですか」
「あの、ほんとに、もう大丈夫ですから」
「そうですね」
「あの、あの……怒って、いらっしゃるのですか?」
袖をなびかせながら結構な速さで歩いていた緑栄はぴたっと止まり振り返ると、肩に糸くずが、と声をかけながら春華の肩に手をかけたと思うと、ぐいっと引き寄せられ、耳元で聞いた事もない柔らかい声音で言われた。
「怒っては、いませんよ? ……あなたにはね」
真意が分からずに緑栄に尋ねよう顔を起こせば、彼の人はまた身を翻してすたすたと歩いていく。
春華は肩を並べるには早すぎる速度に必死について行きながら、怒っていないと言いながらも目が変わっていない緑栄の心持ちを読み取ってしまい、これから少しの間でも一緒に働いていく事を思ってとても気が重くなってしまった。




