2 シルバの前髪
「失踪?!」
「いや、公務扱いだ」
帝の私室に集められたのは紫鈴、シルバ、青蘭の三人。いつも影の様にさりげなく居るもう一人は居ない。
「最近市井で噂になっている黒猫の件の出所を確かめる。という扱いにして出ていった」
紫鈴はこめかみに手を当て、青蘭は両手を口に当てて、まあ、と言い、シルバは変わらずの直立不動。
「よくそんな理由で判を押しましたね」
紫鈴は頭痛がしてくる、と言いながら問う。
実際きな臭い案件ではあるのだ、と帝は眉を潜めて言った。
白陽国では〝黒猫が横切ると不幸が起きる〟という迷信が流行り、
〝見た後に白い物を身にまとうと不幸が回避される〟などと誠か嘘かも分からない回避方法までも流行っていて、王都で白い布が一時期品切れする現象が起きている。
「市井に白布が出回らなくなって二月。噂は一向に収まる気配はなく、さらには一部の官僚から綿花の輸入をしてくれと、嘆願書まで出てな」
何故だかそこで帝はふっと口だけで笑う。
「綿花を輸入するとしたらば」
「ウガン国」
シルバがぼそっと呟く様に言った。
帝は頷くと続ける。
「別件で砂糖の供給量が下がって輸入の検討案が先程の朝議で出された。その輸入先も南方のウガン国だ」
「きな臭いわね」
「緑栄は砂糖の件に関しては問屋が買い占めている節があるとして、どちらも並行して調べると。それで判を押した」
「実利と私欲が合わさった仕様だな。見事だ」
帝の言にシルバは感心した様に頷いている。
「さて、ここで集まってもらったのは他でもない。黒猫の噂は奥宮でも上がっているのだったな。紫鈴と青蘭は奥宮の女官達に探りを入れてくれ、最初に噂をしたのが誰なのか、またその出所もな。そしてシルバは緑栄の代わりだ」
途端にシルバがぴくっと動いた。
「私は化けれません」
「その身体だからなぁ。試しにやってみるか?」
「主!」
長身の帝よりも頭一つ分大きいシルバが緑栄の様に女官姿になるなんて、冗談でも想像したく無い紫鈴は鋭く帝を睨む。
「冗談だ。そなたの夫にそんな事をさせられるか。下手したら国同士の諍いだ」
「長は退いたので問題にはなりません」
「そうか、では試しに」
「陛下……」
「冗談だ、青蘭。一時だけだ。シルバは緑栄が戻るまで我の側近とする」
シルバは今度こそはっきりと嫌な顔をした。
「宮仕えは慣れておりません」
「慣れてもらう。緑栄が戻るまでだ、我慢しろ。あと、前髪は上げてもらうぞ?」
「切りはしませんよ」
「構わん。上げるだけでいい」
「……御意」
ため息をつき、不承不承といった体で返答をした夫に、紫鈴は何故?と目で問うが、シルバはそれには答えず、仕事の調整に行くと言って下がって行った。
「すまんが借りるぞ」
「それは良いのですが」
「何故嫌そうなのかは本人に聞いてみろ。では頼むぞ」
「御意」
青蘭は略礼をして下がる紫鈴を見送り、各々が残していった茶器を片付けていると、帝はそういえば、という風に青蘭に声をかけた。
「青蘭は黒猫を見た事があるのか?」
「いえ、私はこちらでは見ませんでした」
「ふむ……ちなみに見たらどうする?」
「え? いえ……何も……」
「白い布は買いに行かないのか?」
「そのような迷信を信じませんので」
「そうか、迷信なぁ……」
帝はふむ、と言うとまた思案し出したので、青蘭は黙って茶器を持って下がった。
日々日差しが強くなって木の影が濃くなってきいている。青蘭は眩しそうにその光を見つめ、きっともう市井に居るであろう緑栄を思った。
「どうぞご無事でお戻りください……緑栄様」
ただ影のようにいるだけで安心感があったのだと自覚した青蘭の呟きは、一筋の風となり、砂塵とともに消えていった。
****
「おかえりなさい」
「ああ」
その日の夜、シルバはいつもより一刻程遅く帰ってきた。むつ、として居間の卓へ座る。
「何か食べてきた? お酒にする?」
「ん」
「ん、じゃ分かりません」
「酒」
もう、と紫鈴は一合の生酒と瓜の浅漬けを出す。
シルバと紫鈴は夫婦になった後、それぞれの官舎を離れ、王宮の表門東区画にある家族用の官舎に移り住んでいる。
どちらか一方だけが宮仕えならば、宮を離れ、王都の街中に居を構えるのだが、夫婦共に宮仕えの場合は王宮の敷地内に住まうのが慣例だ。
「そんなにいやなの? 緑栄の代わりは」
口数が少ないように見えて紫鈴と話す時は普通に話すシルバだが、機嫌が悪いと単語しか言わなくなる。
帰宅してから三言しか言っていないので、今日はことの外不機嫌なのだろう。シルバはごくっと引っ掛け一杯酒を飲むと、首に手を当てながら気だるげに言った。
「緑栄殿の代わりというよりかは、陛下の脇がな」
「ただ立っていればいいんじゃないの?」
「お前……」
シルバは絶句した。
飛んだ箱入りだな、と言わなかったのはシルバが密かに学んだ事だ。不用意な失言で何度けんかしたか分からない。
「シルバみたいな大きい人が後ろに立っていたら、何かの抑止力になるのじゃないの?」
「……」
当たらずとも遠からずな所に舌を巻く。
何も分かっていないのに本質を見抜くのは、やはり気が見えるからか。もっともシルバの気は見えないのだが。
「俺が後ろに立てばテュルカ国が白陽国についたという事を内外に示す事が出来る。それとは別に陛下が俺にやらせようとしているのは監視だ」
「監視?」
ただ後ろに立っているのが監視になるのだろうか、と不思議そうな顔をする紫鈴を見て、シルバは生酒を飲みながら、少し沈黙した後に、おもむろに言った。
「俺は見え過ぎるのだ」
「え?」
「お前の気を読む力に少し似ているが、俺は人の心の機微が見え過ぎるのだ」
どうゆう事? と紫鈴が怪訝そうにたずねると、シルバは自分の前髪を上げて額を露わにした。
切れ長な大きな黒い目が紫鈴を見る。シルバの愛馬アリに似て鋭く、炯々とした目だ。
夫婦になった今でもあまり見た事はない、シルバの目がこちらをじっと見る。
「俺は人の顔の表情の変化がよく見えるのだ。何を考えているのか、まあ、うっすらとだが、読み取れる」
「そうなの? 知らなかった」
「聞いて気分のいいものでは無いからな」
「?」
「内心が読み取れる者の近くには居たくないだろう」
「……内心? もしかして、私の事も?」
シルバはにやりと不敵に笑う。
「まあな」
「うそ、どれくらい?」
「お前が俺を好いている事はすぐに分かった」
「……」
紫鈴は、ぼんっ、と顔が赤くなった。
散々好きじゃない、結婚したくない、と言ったあげくに夫婦になったのだ。
いつ頃から知られていたのかと思うと非常に恥ずかしい。
「ち、なみに」
「知りたいか?」
嫁がこくりと頷くと夫はふっと笑い、
お前が結婚出来ない、と宣言しに来た時かな、と言った。
「うそ! あの時はまだ」
「自覚がなかっただけじゃないか?」
「うそ……」
思い返してみれば結婚出来ないと言っているのにシルバは全然動じていなかった。
それが本当の事だとすると、シルバの表情の変化を読む力は相当なもの。そしてその能力は場合によっては良いように使われる力でもある事に、紫鈴はやっと気付く。
紫鈴の顔色が変わったのに、シルバは手を伸ばして頬を撫でた。
「心配するな、陛下は緑栄殿が戻るまで、と言った。表宮の官僚全てに目を光らせるとなるとさすがに俺も疲れる。継続してやれるものではない。それは陛下にも伝えてある」
「それでいつも前髪を」
シルバはああ、と頷くと、物理的に見えなくする事で遮断している、と言った。
紫鈴はじっとシルバを見る。
結婚してからもシルバの前髪が上がる事はめったになくて、何故あげないのだろう、と思っていた。夫婦になったら普段は素顔を見せてくれるのかな、と淡い期待もしていたのだ。 だがシルバはずっと前髪を下ろしていた。あえて紫鈴の思考を読まないように。
「ありがと」
「なんだ?」
「教えてくれて」
「……ああ」
シルバは少しずつ自身の事を話してくれる。
全ての事を打ち明けてくれる訳ではないけれど、そうやって少しずつ知っていけばいい。
「まあ、お前の場合、すぐに顔に出るから前髪を上げるまでもないけれどな」
「なっ!」
失礼な物言いに嫁の柳眉が上がると、夫はくっと笑ってほら見た事か、と頬を今度はつねった。
もう、やめて、と睨みつけると、シルバは残っていた生酒をくっとあおり、タン、と卓に置いた。
人心地ついたかな、と片付けに伸ばした手を取られる。
シルバ? と問いかける前にゆっくりと指を撫でられた。
ぞくっとして身体が微かにゆれる。
自分のその反応に羞恥で熱が上昇してくる。
(や、やだ……)
お前の場合は、との言葉が頭をよぎり、シルバの顔を見る事ができない。
シルバはゆっくりと立ち上がると、とらえた指はそのままに、俯いたまま顔を上げない紫鈴の美しく結い上げた簪を抜いた。
「……出しすぎだ」
上げていた豊かな黒髪が降りると紫鈴の色香はさらに増し、恥じらって伏せた目元がシルバを誘う。
「シ、シルバが触るから……」
「その言い方も煽っているのを自覚しろ」
「な、なんで……」
「箱入りも大概にしろと言いたい」
「わけがわか……っ……」
「もう、喋るな」
口付けの合間にそう言われ、紫鈴はもう何も考えられなくなった。
****
カタン、という音に紫鈴ははっと目覚めた。
がばっと寝台を見るとシルバはもういない。
(やだ、見送り!)
大事な任務の初出仕に顔も見ずに送り出すだなんて、と焦り、紫鈴は肌衣だけを着付けて飛び出す。
「ごめんなさい!」
居間に飛び込むとシルバはもう家を出る所であった。
「ごめんなさい、私!」
「いい、今日はいつもより早く出るだけだ」
「朝ごはん……」
「適当にすませた」
「ごめんなさい」
気落ちする紫鈴に、いいから、とシルバは頬を柔らかくつまむ。
紫鈴がその手にうながされてそっと見上げると、前髪は総髪に上げられ、切れ長で大きい穏やかな目がこちらを見ている。
「……っ」
紫鈴の息を呑む表情を見て、シルバは苦笑する。
「見え過ぎるのも困る」
「な、なっ」
「……俺もお前に惚れている」
「〜〜〜〜っ!」
「それから、朝からそんな格好で出てくるな。寝台に戻したくなる」
言葉にならない紫鈴に苦言を刺し、さらにがくがくする程口付けを落として、行ってくる、と夫は出て行った。
いってらっしゃい、とちゃんと言えたか定かでない妻は、これからしばらく毎日あの夫を見送らねばならぬのかと思うと、身が持たないかもしれない、と卓に寄りかかりながふるふると震えるのだった。
……紫鈴の名誉の為に申しますと、普段はちゃんと朝ごはんも作って送り出している! との事です。
……言いましたっ、言いましたからっ!
(背後にゆらりと美人さんが立っています)




