26 遭遇 ー緑栄ー
緑栄は苛立っていた。
先日、女官長の指示を不本意ながら飲み、賄賂とも思える華月堂のまんじゅうを食らっているのだが、一向に満足感が得られないのだ。
丁寧にこされた餡に、ふわっと包まれた黒糖の皮。
お茶を飲まずに食べると、口内の上に付いてしまう薄い皮も愛しい程に美味しいのだが。
春華が作るのとは当たり前だが甘さの違いがあり、それがイライラさせる。
食べれば食べる程、春華との違いを見出してしまい、春華のまんじゅうが食べれない現状も思い出してしまい、どんどんと不機嫌になっていく。
「通常でも剥がれかけている」
「そうですね……」
「あれ、駄目だろ」
「……はい」
帝の私室からこっそりと見られているとは知らず、爪を噛みそうな勢いで歩いていた時だった。
向こうからバタバタバタッと旅装姿の紫鈴が走ってくる。
それを見て私室から青蘭が飛び出して来た。
緑栄は戦慄する。
(駄目だろっ、何やってんの!!)
同じ場に紫鈴が二人。
緑栄はとっさに近くの掃除道具入れに隠れた。
薄暗い道具入れの中に居ても、青蘭の焦った声が聞こえる。細く泣いている紫鈴の声も。
(何やってんだよ! 早く部屋に入れ!!)
どうやら廊下で二人は留まっている。
折しも掃除をする時刻で、近くの女官がどうしたのかしら紫鈴様、と言いながら緑栄が隠れている右隣の道具入れをガバッと空けてガサゴソと道具を取り、去って行った。
(〜〜〜〜〜〜っ!!)
魂が抜かれる思いで叫びを飲み込んだ。
出るに出られず、さりとて見つかるのも時間の問題。
ただひたすら廊下の二人が部屋に入る時を願い、ありとあらゆる神を羅列して危機が去るのを願おうとした、その時。
パッと目の前が明るくなった。
やば、い、と思った瞬間、目の前に春華が居た。
春華も目を丸くしてこちらを見ている。
その時、廊下で二人の声が聞こえた。
春華はそちらを振り返り、紫鈴を認めた。
(不味い)
緑栄は春華の腕を引こうとして、怪我をしている方を握ってしまった。
あっと腕を放すと、春華は自ら掃除道具入れに入った。
(え……ええ?!)
緑栄は動転した。
緑栄は紫鈴が二人いる事に気付いた春華を、ひとまず引き込んで口を封じようとしたのだ。
それが、春華は自らこちらに入り、更に狭い中に無理矢理入ったので抱き合う形でじっとしている。
(何だこれ……え? なのなの、拷問?!)
柔らかい肢体と、首筋から香る花のような匂いに緑栄はくらくらする。
この状況をぶっ飛ばして思わず春華を抱きしめようとした時、廊下から姦しい話し声が聞こえて来た。
「今日も廊下そうじね〜」
「毎日の事とはいえ少しイヤになるわよね〜」
「あら、そんな事言っていいのぉ〜」
「女官長様の耳に入ったら〜 キャ〜」
聞き覚えのある噂話が大好きな女官方の声。まずい、非常にまずいと緑栄の背中に冷たい汗がたれてきた。
どう転んでも掃除道具入れは間違いなく開けられる。
「あら、あすこにいるのは紫鈴様じゃない〜」
「お珍しい、外に出られていたのかしら〜」
「あら〜 朝礼にはいらしたわよ〜」
「じゃあその後出られたんじゃない〜」
「それもそうよね〜」
段々と近づいてくる声。
緑栄と春華が隠れている戸の直ぐそばまできた。
(万事休す……!)
見つかった時の事を思って身を固くしたとき。
「ニャ、ニャーオ」
春華が猫の鳴き真似をした。
騒がしい声がぴたりと止む。
「ミャーオ、ミャウミャウ」
なんて可愛い声を出すのか、しかも口元に片手をあてて遠くまで届くようにしている姿が至近距離にある。緑栄は春華が可愛すぎて気が遠くなりそうになった。
そんな緑栄を現実に戻すのはいつもの姦しい悲鳴だ。
「ね、ねこの鳴き声よ!」
「ま、まさか、例の?!」
「くくく、黒猫かもぉぉ?!」
「きゃーーーーーー!!!!」
バタバタバタとけたたましい足音が目の前を通り過ぎていく。
その騒ぎを聞きつけたのか、いつの間にか紫鈴と青蘭の声もしなくなった。
シンとした中、春華と顔を見合わす。
「……静かになったね」
「たぶん、大丈夫そうです。まず私が出て見ますね」
本来なら自分が出るべきだが、さすがに入り口に近い春華にお願いする。この狭い中で緑栄が先に出ることは不可能だ。
春華は頷くとさっと先に出て、直ぐに扉を閉めた。
しばらく間があり、またすぐに開く。
春華が黙って誰もいないと首を縦に振ったので、緑栄もさっとその場から出て、春華と共に人気のない軒下へ走った。
くだんの猫と遭遇した軒下に、二人、息を切らしてうずくまる。
「あ、ありがとう。助かった」
緑栄は紫鈴の格好をしていたが、地声で礼を言った。
「いえ、お役に、立てたみたいで、よかった」
息を切らしながらも、春華がそれは嬉しそうに、華が開いたような笑顔で言った。
緑栄は例にもれず胸を突かれたが、何とか踏み止まって確認する。
「知ってたの? 私の事」
「はい」
「男だって事も?」
先程の掃除道具入れの密着で分かったとは思うが、それならもっと驚いてもよかった。しかしこの場で平然としている春華を見ると、以前から承知なのかもしれない、と推測する。
春華は勝気な目を柔らかく、そして何故か苦笑して頷いた。
「以前から存じ上げておりました。紫鈴様、本当に、覚えていらっしゃらないのですね」
「また? いったい君は、何時私と会っているの?」
以前湯殿の時に言われた台詞を再び言われ、緑栄は混乱した。
春華ははにかむように笑うと、ミャーオ、とあの可愛らしい鳴きまねをする。
「この声、聞き覚えありません?」
いたずらをしたような目で見つめられ、緑栄はうぐっとのけ反りそうになるのをひたすら堪えて思考を巡らす。猫と春華が重なる場面は、この軒下ともう一つ。
(山の温泉でかち合った時? でもあの時、彼女はこちらが誰だか知らない筈)
「もしかして、あの温泉……?」
呟くように言うと、春華は恥ずかしそうに頷いた。
「ええ、先日も、一緒になってしまいましたけど……実はそれ以前にお会いしているのです。あの場所で」
「え? もっと前に?」
猫の鳴きまね、鳴き声。
ミャーオ……ミャーオ?!
「……あ、満月の……夜更け?」
一年前の秋口の晩だ。
青蘭もまだ入宮しておらず、今のように頻回に紫鈴の化けていなかった緑栄が連続して身代わりをしたことがあった。
あの頃、流行り病の患者が多く、利葉から紫鈴を診察の補助に寄越して欲しいと打診があった。三日ほどの代わりが一週間伸びて、山の温泉にも連日入りにいっていたのだ。
煌々と月が明るくて、良い月夜だなぁと入っていた時だ。ガサゴソと背後で音がした。
賊かと警戒したら、猫の声がして気を緩めたのだった。
たしか可愛らしい子猫の声だと思ったのだ。それがまさか春華がとっさに放った猫の鳴きまねだったとは。
春華はくすくすと笑って頷いた。
「びっくりしました。紫鈴様はもちろん存じ上げておりましたが、男の方だとは思わなかったものですから。初めは男性の紫鈴様が一人居るのだと思っておりましたけれども、普通に奥宮の湯殿に入られている紫鈴様もお見かけして、二人いらっしゃるのだと分かりました」
正確にこちらの事情を計られていて、緑栄はさすがに慌てる。
「この事、誰かに……?」
「いえ、誰にも。あ、女官長様には進言しようと思っていたのですが、どちらの紫鈴様にもお分かりの上で接していられるとお見受けしましたので、これは承知の事なのだと敢えて言いませんでした」
「……」
脱帽である。
もう、これは本格的に化けるのは辞めようと緑栄は決心した。
青蘭と春華、様々な経緯が有るとはいえ、二人にも看破されたならもう無理である。
緑栄は長いため息を吐いた。
それを見た春華ら、申し訳ありません、とすまなそうに謝ってくる。
「え?」
「本来だったら知っている事を紫鈴様に打ち明けるべきだったのでしょうけれど……今日はどちらの紫鈴様なのだろうと楽しみにしていて……ずっと、言わずにきてしまいました」
「もう、ぱっと見て分かるの?」
「はい」
春華は嬉しそうに頷いた。
(……っねえ〜〜〜〜っ 反則! その笑顔、反則なんですけど!!)
「あの」
「え?」
「もし可能ならば……紫鈴さまの本当のお名前を伺っても?」
「……伯緑栄と申します」
「緑栄様」
春華は大事そうに緑栄の名前を言いなぞって、素敵なお名前ですね、と微笑んだ。
(何これ、口説いてんの? 口説かれてる?)
緑栄は思わず生唾をのんで腕を伸ばそうとすると、春華がなにかを振り切ったように晴れやかな笑顔を見せた。
「とにかく、良かった。お役に立てて。お名前も教えて頂けて、私が知っている事も言えて」
そういって春華は立ち上がる。
「いつかお教えしようと思っていたのです。良かった、言えて。今日はありがとうございました。聞いて下さって」
「い、いや、礼を言うのはこちら」
「ずっと黙って見ていたお詫びです。では、これで」
「あ! 春華どの!」
緑栄が呼び止めたが、まだ掃除をやっておりませんので、と申し訳なさそうに頭を下げると春華は足早に去って行ってしまった。
緑栄は口を開けたまま、伸ばした手を収められないでいる。
(嘘だろ、何この引き際の早さ……え? 僕、何も言ってなんじゃない? 今、絶好の告白の機会だったんじゃないの?)
そよそよと心地よい風が頬を撫でる中、自分はなぜ一人でいるのだろう。
(居なくなっちゃったよ、居なくなっちゃった! どーすんの、接触禁止出てんのに……って、え? まって、もう、奥宮じゃ会っちゃだめなんじゃ? 告白する時、ないんですけど!!)
ニャオン、ニャオーンと遠くで可愛くない猫の声が聞こえた。
「……嘘でしょ〜〜〜〜〜〜っ!!!!」
後日、軒下から男の叫び声が聞こえたと、女官長に報告が上がり、不審者の捜索隊を出すという事例に発展。
内々に原因が分かり、火消しの代償として緑栄への賄賂が停止された。
その後、休暇の度に王都甘味処へ出没するハメになるのだが。それはまた別の話。
双子が揃って自宅に呼び出され、正座の上叱責されているのを父がまぁまぁと宥め収めてくれるのだが、、、
これもまた別の話。




