14 くしゃみと花
「っくしゅっ」
声が出ない様に我慢したのだが、思わず出てしまった。
じっと我慢する。
でもまた、ムズムズして。
「はっくしゅっ」
見かねてとうとう右から声が上がった。
「大丈夫か?」
「ん、平気……」
寝ぼけた声で紫鈴は応えた。
数刻前。
紫鈴は王都の西、城門に近い宿屋の一室にいた。
王都門は通過出来たが、城門の門限までは間に合わなかったのだ。
それもこれもシルバの所為だと紫鈴は思っている。
父のいる集落を抜け、途中までは早足で駆けていたのだか、復路の行程の半分程の所で急に馬足を落としたのだ。
紫鈴は速度の緩みにすぐに気がついた。
「どうしたの?」
何か問題が起きたかと声をかけると、シルバはだいぶ西に傾いた太陽を見て言った。
「間に合わんな」
「ええ?!」
予定より出発は遅れたとはいえ、アリは紛う事なき駿馬である。アリとシルバの腕があればギリギリ間に合うと紫鈴はふんでいた。
「まだ分からないじゃない、とにかく急げば」
「いや、間に合わん。日の位置と、木の影がそう言っている」
「そんなっ」
日が西へ沈んでいるならいざ知らず、まだ夕暮れにもなってないのに。
「王都には戻れるだろう」
そう言ってシルバはアリに合図し、通常の速度で走り出した。紫鈴は慌てた。
「今日中に戻らないと不味いのよ。何とか、なるでしょう?」
シルバとアリに初めて会った時、紫鈴は無茶な走りを求めシルバとアリはそれに応えてくれて王都まで駆けてくれた事がある。
今回はそこまでの距離では無いし、何時もより急げば、と言うと、前髪の下にある目がギロッとこちらを見下した気配がした。
「あれは特別だ。有事でもないのにあんな走らせ方をするか。アリの身が持たない」
珍しく怒気を含んだ返しに、紫鈴は自分の浅はかさを恥じた。あの後、アリが心配で馬舎まで見に行ったのは当の自分だったのに。
「ごめんなさい」
シルバとアリに謝った。
シルバは黙って頷き、アリは駆けているので反応はないが、足を止めた時には目を見て謝ろうと思った。
その後、速度は緩めたものの休憩は取らずに駆け、王都門をくぐって暫くして日没の銅鑼が鳴ったのだった。
厩付きの宿屋を何軒か回ったが、運悪く翌日が市が立つ日でなかなか空き部屋がなかった。
西の区域ではこれで最後の宿に、一部屋だけ空きがあった。
躊躇する紫鈴に、躊躇なくそこに決めたシルバは、アリの世話をする為に厩の方に行ってしまった。
残された紫鈴は仕方なく案内された部屋で所在なげに佇んだ。
部屋は特筆すべき所は無いが、掃除の行き届いた気持ちの良い部屋だった。
一先ず二つある内の片方の寝台に腰を下ろす。
日帰りで帰るつもりだったから、替えの着替えがある訳でもなく、僅かな所持品を入れた袋を枕元に置く。
開かれた窓の外からは、夕暮れの少し湿気を帯びた風と共に街の賑やかな喧騒が運ばれてくる。
普段であれば仕事から戻ってきた青蘭と一緒に食堂へ行き、青蘭から見た帝の様子を聞いている所だ。
何をするでもなく、ただぼんやりと一人で座っていると、何とも言えない寂寥感が心の内から湧いてきた。
「待たせたな」
シルバが部屋に入ってきた事も気づかない程、心在らずだったらしい。
驚いたのとホッとしたのとで思わず胸に手を置くと、「腹の虫でも鳴ったか?」
と子供の様に頭をポンポンとはたかれた。
「お腹なんか鳴ってな」
「い」と言う前にクーーと本当に鳴って、今度は慌ててお腹に手を当てた。
ブブッと吹き出したシルバの腹に拳を突き出して、恥ずかしさとくやしまぎれの攻撃をする。
甘んじて受けて「イテテッ」と痛がっているシルバを尻目に、ご飯食べに行くわよっ、と勢いよく立ち上がった。
****
「青蘭様、陛下がお呼びです」
扉の向こうで来訪の音がした。
返事をすると、従者の声のみがして、また足音は去って行った。
「お珍しい」
青蘭は夜衣の上に外衣を羽織る。
緑栄は湯浴みからまだ戻っていなかった。
少し考えて筆を取り、置き手紙を残して急ぎ帝の私室へと行った。
奥宮側の扉から来訪を告げると、お入り、と声がかかった。
「失礼致します」
やや緊張した面持ちで青蘭は私室に入った。
思えばいつもは青蘭が私室に居て、帝を迎える事の方が多いのだ。こうやって先に帝が居て迎えられた記憶はほぼなかった。
室内は灯りが充分に灯り、帝は居間の円卓に座って書き物をしていた。
「青蘭、遅くにすまない。茶を一杯いれてくれるか」
顔を上げる事もなく言われたが、声色が普段通りだったのと、仕事を与えられてほっとし、直ぐに、と言い置いて茶房へ行った。
湯を沸かし、香りが極僅かな花茶の茶葉を選ぶ。
あの書き物が最後の仕事か分からなかったので、鎮静効果のあるものは避け、一息つける物をと配慮する。
何しろ夜に呼ばれるのは初めての事で、勝手が分からない。
再び声をかけて入室し、円卓の邪魔にならない所に茶器を置いた。
迷ったが自分用に入れたものも並べて置く。
多分、普段通りでいいのだろうと見込んで。
お茶が冷めない程度の時間で書き物を終えた帝は、一度伸びをしてから青蘭に様子を見て笑った。
「どうした、立ったままで。座ったらどうだ」
「あ、はい」
我に返って座る。帝が勧めるままに、一緒にお茶を飲んだ。自分の、こくんと喉が鳴る音が、やけに響いた。
(なんとなく……)
「居心地が悪いか?」
「いえ……その……」
図星を指されて身じろぎをする。
私室に入る前は何を考えるでもなくただ来たのだが、昼間とは様子の違う室内と、帝の夜衣姿に戸惑いを隠せない。
知ってか知らずか、帝は笑みを浮かべ、青蘭に来てもらったのは他でも無い、と切り出した。
「紫鈴の事だ」
「紫鈴姉さんの」
帝は青蘭の入れたお茶の香りを楽しんで一口飲みながら、うむ、と頷いた。
「青蘭から見て、どう思う」
「どう……」
どうと言われても普段と変わらなく、と思いつつも、否、と心が言った。
(最近の姉さんは)
「心が乱れています」
思案して発した青蘭の言葉に、帝は何故か嬉しそうに目を細めた。
「そうか。して、どの様に乱れている?」
「そうですね……心と心が反目しているというか……」
帝は頷いた。
青蘭は逆に疑問を投げかける。
「紫鈴姉さんはどうしてシルバ殿を受け入れないのですか?」
帝は意外そうに眉を上げた。
「何だ、心中は分かっても理由は分からないのか?」
青蘭は困った様に頷く。
「拒む理由があるのだろうよ」
「理由……」
やや俯き思案する青蘭。
普段は結い上げている長い髪がさらりと前に垂れた。
「その理由が分かった時、紫鈴を支えてやってはくれまいか」
静かな声にはっと顔を上げる。
「どう支えるかはお前に任せる」
青蘭は分からなかった。
分からなかったが、帝に応える答えは一つだ。
「相、分かりました」
「良し。ではもう遅い、片付けは後にしてお戻り」
「いえ、大丈夫です。すぐに」
ニコッと笑って立ち上がった青蘭の手を、帝はやんわりと掴んだ。そして青蘭の髪を一房、口付ける。
「これ以上は私も間が持たない。お戻り」
帝の色を帯びた強い目に、青蘭は小さくはいと応え、急いで略礼を取り私室を辞した。
「よく我慢しましたね」
青蘭の足音が消えたと同時に影から声がした。
「蕾に手が出せるか」
帝は憮然と応じる。
「花のようでしたからね」
「ああ、思いの外な……っ、お前は毎晩見ておろうが!」
藪蛇、とばかり肩をすくめた影は、青蘭が花のようになるのは主の前だけですよ、と本気か冗談か分からぬ声で言う。
「煩い。戻れ。青蘭が心配する」
「御意」
笑い含みの影の気配が消えると、帝はやっと一息息を吐いた。




