10 居酒屋 ー緑栄ー
二日後、緑栄は王都・成遼の街中に居た。
ある居酒屋の中で一人、濁り酒を片手に小羊の煮込みをちまちまとつついている。
格子窓の近くに陣取り、大通りや居酒屋の店員の動きを見るともなしにぼんやりとした目で見ているさまは、だいぶ酒が入っている客といったところか。
「大丈夫? お客さん。かなり酔っていそうだけど」
艶っぽい声をかけられ、けだるげに目を上げると店子の長といった風の年増が話しかけて来た。
布地の上から見ても盛り上がる豊満な胸。下衆い視線を物ともせず、魅惑的な腰に手を当てている所を見るとかなり場数を踏んだ店子だ。
「昼間っからそんなキツイ酒飲んじまって、お冷でも持ってきてあげるわ」
呆れたような、しかし微かにこちらの身体を気づかっているそんな声に、緑栄はふらふらと手を振った。
「いーのいーの、おねっさん、今日だけらから。今日のおれはついてねっから、ここの美味い酒飲んでうさはらしてっから」
「ついてないって、どうしたね」
年増はさも心配そうに眉を寄せる。
緑栄はとろんとまぶたが半分降りた目でおっ? と身を乗り出す。
「おねっさん、聞いてくれっかい? ほれ、あすこの、向かいの、華月堂がさ、先月まで黒糖まんじゅう一個五十貫で売ってたのにさ、今日から六十貫に値上げしたってんだよ、冗談じゃないよ。親方に三十個買ってこいって一元五百貫預かったのにさ、これじゃあ二十五個しか買えねぇよ。頼み込んでもどうにもならねって言うしよ。くやしくここで酒でも飲まにゃやってらんねぇよ」
「あらら、それじゃあますますおまんじゅう買うお金がなくなっちゃうよ」
ころころと笑いながら言う年増に、いーのいーのとまた手を振る。
「こうなったら明日日銭稼いで意地でも三十個買って帰っからさ。今日は景気付けだぜ」
腕を組んで鼻息荒く言う緑栄に隣のオヤジが「よっ、男前!」と茶々を入れた。
緑栄は「だろ?」と返して、得意げな顔するが、すぐにしゅんと肩をおとした。
「それにしてもなんだよな、急によぉ。税が上がった訳でも無いのに値上げなんてよ」
拗ねるように濁り酒を煽ると、あー、それは華月堂だけ特別なのよぅ、年増が訳知り顔で言った。
「特別って?」
緑栄はうろんな顔で聞いた。
ここだけの話よぅ、と年増は、厚ぼったい唇に人差し指を添え、くねんと腰を曲げて男達の視線を集めながら話し出す。
「華月堂には年頃の娘さんがいるんだけどね、その娘さんの婚約者が砂糖問屋の息子なのよぅ。なんでも店子をしていたその子を見初めて無理矢理婚約話を持ってったみたいなの。でも娘さんは結婚したくないってつっぱねたんだけどさ、そう言われてバカ息子、親に泣きついみたいなのね」
うへぇ、自分でどうにかしねぇのかよっ、ヘタレだなぁ、と周囲からも声があがる。
ほんと最低な男よ、と年増は鼻にしわを寄せた。
「華月堂さん可哀想に、昔からの取引先から砂糖を売ってもらえなくなって、仕方なくバカ息子の問屋から仕入れようとしたら、婚約しなければ売らないってさ。泣く泣く婚約したら、売値が相場の倍よ。それでもなんとか今まで抑えて売ってたみたいなんだけど、とうとう赤字が抑えられなくなったみたいね。お店の皆さん総出で平謝りして売ってるみたいよ」
自分の知っている事を言えて満足そうな年増に、緑栄はそうだったのかい、と大袈裟に頷いた。
「確かに、申し訳ないって言ってたなぁ。そうかい、そんな事情がねぇ」
「娘さんも、バカ息子があんまりしつこく付きまとうからとうとう王宮まで出稼ぎに出ちまったしね。でももうあと少しで年季だって言ってたし、どうするんだろうねぇ」
「問屋の所へ行くんじゃねぇか?」
と隣の卓のオヤジ。
「でもねぇ、娘さんじゃなくったって、あんなバカ息子の所なんざ、誰も。ねぇ?」
「そんなにひでぇのかい?」
「酷いも何も、自分の店ほったらかして毎日娘さんが帰って来てないか見にくる息子だよ? 気持ち悪いったら。娘さん、王宮に上がってから一度も帰って来てないみたいだし、いい加減諦めればいいのに」
眉をひそめて両腕を組み、ぶるぶると首を振る年増。その振動でゆれる谷間にうっかり一同、釘付けである。
うん、まぁ、悪かない、と目のやり場どころか凝視していた緑栄は話を戻す。
「ふぅん。そんなに良い娘なのかい? 一度見てみたかったね」
「あらん、お客さんも若い子がいいの? しょうがないねぇ」
妙に艶が増した声に緑栄はにこりと笑う。
「若い娘は若いなりに、おねぇさんはおねぇさんなりの魅力があらぁな」
年増の目を捉えていった。
すると年増は年甲斐もなくあら、と頬を染めて、やだわお客さんたら、と頬に手を当てた。
「あん、お世辞でも嬉しいわぁ。でも春華ちゃんはそりゃあ気立ての良い子でね。お店もよく立ってお手伝いして。大店の娘さんなのにね。キリッとした勝気な目が笑うと猫みたいに緩むの。かぁわいいわよぅ。……春華ちゃんのそんな顔、久しく見てないわねぇ」
心ほぐれたのか春華の名前が出た。
ため息混じりの最後の言葉は、年増が春華の事を本気で心配している声だった。
緑栄は先日見た春華の笑顔を思い出し、そっと微笑んだ。
「ふぅん。そんな事情じゃあ、ますます金稼いで三十個買わなきゃな。おねぇさん、ごっそさん! おれ、仕事探してくるわ」
「あらもう? 残念ね」
ぱちぱちと物思いから醒めたみたいに年増は瞬いた。
「稼いだらまた飲みにくっから」
「あら! それも楽しみだね、待ってるわぁ。大将! お勘定!!」
いつもの調子を取り戻しての掛け声に、奥から、あいよ、と声だけがした。
緑栄は片手を上げて大将と年増に礼をいい、しっかりとした足取りで店を出た。
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翌朝、表宮に出仕すると、珍しく早々に帝の私室に呼ばれた。
「お呼びでしょうか」
おう、と手を挙げたのは緑栄の主でありこの国の王・張煌明だ。
「お前、最近休んでばかりじゃないか?」
「は?」
帝の言葉に怪訝そうに伺う。
紫鈴が休んでいる間、替わりに出仕しているのは帝も承知の筈だ。
「と、従者長から苦言が出た」
「はぁ……」
緑栄はそんな事か、という顔をすると、そんな事か、ではないぞ、と帝は苦笑いをする。
「週に二日も休んでいる計算になるからな」
通常、休みは五日に一度だ。場合によって週二日になる事もあるが、毎週の事ではない。
「はぁ、そうですね」
「気の無い返事だな」
「どうしろと?」
紫鈴の願いを聞いてやっている、という形だか、実際は帝からの勅命である。緑栄がどうこうするというものでも無い。
「全くお前は。自分の事となると暖簾に腕押しだな」
「そんな事もないですけど。これに関しては私が考えるべき事でも無いですから」
「俺に考えさせるのか?」
「勅命ですからね」
ふむ、と如何にもめんどくさそうに口元に手をやる。
「お前に案が無いとすると」
にやっと帝の口に笑みが湧いた。
「あ、やっぱり自分で対処します」
緑栄は嫌な予感がして挙手した。
帝の口元が緩む時は要注意だ。無理難題を言ってくるに違いない。
「そうか、では考えておけよ。今の所無理に休んでいる状態だからな。従者長からいびられても甘んじて受けておけよ」
帝はさも嬉しそうに言った。
「緑栄! 今日は出仕しましたねぇ」
「従者長、私は勅命を受けていたのです。休んでいた訳では」
「そうだとしても、貴方の代わりを立てて頂かないと。私に全て陛下のお世話が振りかぶってきたのですよ、陛下にも申し立てたのに」
「……それは、申し訳ありませんでした。……お詫びといってはあれですが」
「これは! 華月堂の黒糖まんじゅうではないですか!」
「……お納め下さい」
「緑栄、気が利きますね。仕方ない。今回は不問にします。ほっほっほっ」
(……)
緑栄の両手がぷるぷると震えるのだった。
by 従者長&緑栄




