8 小部屋 ー双子ー
緑栄は紫鈴の自室に戻り、勝手知ったる棚の引き戸の中から小さな丸い蓋つきの小物入れを取り出した。
急いで湯殿に戻り、脱衣室の春華の籠の中に入れておく。
そしてまた急いでその場を離れて、緑栄と紫鈴が入れ変わる為の小部屋に滑り入った。
戸を閉め、ほっと息をつく。
自分でもよく分からないが、これ以上紫鈴に化ける事は無理であった。
不思議な事だが、自分が紫鈴だと思い込んでいる時は幾多の人と会っていてもばれないのだが、もう無理だと思った瞬間に化身が剥がれるのだ。
幼き頃、いたずらに入れ替わっていた時に何度も経験した。
これが仕事となってからはまだ人前でそうなった事はないが、その兆候が表れた時には小部屋に戻る事にしている。
少し水を飲もうと中央にある卓に目を移して、ギクッとなった。
卓の上に黒いかたまりがある。
この小部屋は隠し部屋なので昼間でも薄暗く、目が慣れるまでは殆ど室内を判別出来ないのだが、それにしたとしても入ってすぐに気配を気付けないとは。
(どうかしている)
緑栄は頭を振って卓に近づいた。
「おかえり、紫鈴」
部屋の隅にある明かり取りに灯をともすと、卓にあるかたまりが身じろぎをした。
卓に突っ伏しているので顔は見えないが、紫鈴に間違いない。
紫鈴はむくりと起き上がった。
「「何か、あった?」」
お互いの声が重なり、ぷっと笑い合う。
緑栄が部屋に入って紫鈴に気付かないのも、紫鈴が部屋の卓に突っ伏しているのも常ならぬ事だ。
どうした? ではなく、何かあったと聞くのが私達らしいな、とお互いまた同時に思った。
「早く帰ってきたんだね」
「雨が降ったから」
「その割に濡れてない」
「シルバが雨宿りの出来る場所に連れていってくれたの」
「それはすごい」
「でも怒らせてしまって、すぐに帰ってきたわ」
「逆もあったんでしょ。二人で怒ったらそりゃあ帰るしかないよね」
「……」
図星をさされて押し黙る。
さすがに双子の片割れは紫鈴の性根を見抜いている。
「何があったの」
緑栄はばさりと女官服を脱ぎながらなんの気なしに、といった程で聞く。
すると紫鈴は俯き少し黙った後、とても小さな声で応えた。
「あの人がおきておきてって言うから、頭にきた」
緑栄はため息をついた。姉は何にも分かってはいないのだ。
「ねぇ、紫鈴。フル族は、私達と比べて比較的自由な気質の民だよ? その自由の中に数少ない掟があるらしい。それは厳守すべき事となっているから、掟だからって怒るのはどうかと思うけど」
「あんた、何でそんな事知ってるのよ」
紫鈴は驚き顔を上げたので、緑栄は官服の下に着る袍を身にまといながら肩をすくめる。
「双子の姉が嫁に行くかもしれないんだよ? 多少調べるに決まってるでしょ」
「行かないって」
「決めつけなくてもいいでしょ」
「あんたも主も、何でそんなに行かせたいの? 青蘭の事を思ったら私が側を離れられるわけ無いじゃない」
「……」
(シルバといる紫鈴が、良い雰囲気だから、なんて言ったら絶対意地でも否定するだろうしな……)
かんざしを抜いて一度髪を下ろしながら考えるが、うまい返しがない。櫛をかけ今度は官帽に入るように結いながら気楽な雰囲気で声をかける。
「まあ、よく話し合いなよ。上手く一緒に居られる道が見つかるかもしれないし」
「だから行かないってば」
「そうかなぁ」
「そんな事よりあんたこそどうしたのよ。我を忘れちゃって」
「人聞きの悪い。忘れたのは紫鈴だと思う事だけだよ」
「うそ」
「大丈夫。化身が解ける前に戻ってこれたから」
ほうっと紫鈴は息を吐いた。
「大人になってからは初めてじゃない?」
「そうだね、自分でも驚いているよ」
「危機だったのね」
「今までで最大の危機だったよ」
そして緑栄は雷雨から湯殿でのくだりを話した。
「春華さんに助けられたのね」
「怪我をしていたから紫鈴の膏薬を渡しておいたよ。お礼を言われたら話を合わせて欲しい」
「わかったわ」
「でも……春華ってどうゆう子? 普通、怪我をさせられた相手には近付かないよね」
卓の水差しから水を汲み、紫鈴にも渡して自分も飲みながら聞くと、紫鈴は腕を軽く組んで少し首を傾けた。
「うーん、私も働いている部署が違うから滅多に会わないけれど……あまり目立たない子よ。いつも一人でいる感じ」
「え? 突っかかってきた時は取り巻きが居たよ?」
「それは珍しいわね。まあ、大店の娘さんだから、取り巻きになりたいと思っている子がいてもおかしくはないけど」
「へえ、大店の」
「あんたも好きな黒糖まんじゅう。彼女の実家のお店のものよ」
「ええ! これが?!」
緑栄が懐から出したのは、母からもらった黒糖まんじゅう。
「何でそんなの持ってるの?! まさか危機から脱したのはっ!」
「き、危機は自分で脱したよ! その後母上に会ったんだ」
「相変わらず甘いわね」
「甘かないよ。助けを求めたら断られたし」
「その後見に来たんじゃない。甘々よ」
公私混同を控える様、言っておかなくちゃ、と紫鈴は呟く。
そしてすっと手を出した。
「何?」
「よこしなさい。黒糖」
「何で?!」
「それ、私の分のはずよ」
あの母が緑栄だけに寄こすはずがない。
緑栄はバレたか、と悔しそうにいって一つ紫鈴に手渡し、もう一つは素早く口に入れた。
「あっ、ずるーっ!」
「二つあったんだ」
「二つとも私のでしょっ!!」
ぶんぶんと首を振る緑栄。
返しなさいよ! の声にぶんぶん。
口に広がる黒糖の甘さと、紫鈴とのやりとりで少し胸が軽くなる。
紫鈴もまた同じ気持ちなのだろう。
一通りの攻防の後、服を着替えて本来の持ち場に戻る時には、二人ともいつもの顔に戻っていた。




