6 雷雨 ー王都ー
同刻、王都。
奥宮では、突然の雷雨に見舞われ、女官達が右往左往していた。
たまたま敷布など大物を干す日に当たっていて、奥宮の女官達総出で急いでしまっているのだが、時折瞬く雷の光に、悲鳴をあげて滞ってしまう。
その様子を見て緑栄も雨の中手伝った。
夢中で取り込み、最後の一枚に手をかけた時、同時に手をかけた者がいた。
あっとお互い手を引いたのだが、雷鳴に身をすくませた相手を見て、緑栄がはぎ取り、急ぎ室内へ入った。
「ずぶ濡れね、ご苦労様でした。皆、早く湯殿に行きなさい」
声をかけているのは女官長・柑音である。
はぁい、と足早に去る女官達を見送って、さ、あなた達もとこちらを向いて紫鈴に化けた緑栄を見た。
普段あまり表情を変えない上司は一瞬口をつぐむ。しかしすぐに変わらない口調で、身体を冷やさない様に、と先へ急ぐ仕草をした。
(にょ、女官長……?)
緑栄は目で助けを求めたが、女官長は眼光するどく、しかし口元は微笑んでいる。
自分でなんとかするのです、と目で言われ、緑栄は足取りも重く湯殿の方へ行く。
(裸身をさらせば阿鼻叫喚になるというのに、どうせよと?!)
内心の冷や汗を必死で表情に出さないようにして湯殿にいくと、下女ににこやかに出入り口で着替えを持たされた。
どうやってこの場を逃れようかと考えた所で、先に入って上がってきた女官達にワッと囲まれた。
「紫鈴様!」
「紫鈴様もお手伝い頂けたのですか?」
「今から入られますの?」
「きゃあ! 私達ももう一度一緒に入ろうかしら!」
目を嬉々としてはしゃぐ女官達の考えている事が手に取るように分かる。
湯殿に入って心ほぐれた所で、宮中で飛び交っている噂の真相が知りたいのだ。
「二度も入ったらのぼせてしまうわよ」
緑栄はやんわりと諭しながら、しまった、と蒼白になる。
最近の紫鈴はその話題に触れられぬ様、笑顔でバリケードを張っていた。
心の怒りが外に吹き出して見えるものだから、女官達も迂闊には近寄らなかったのだ。しかし本日の紫鈴(緑栄)は雰囲気が柔らかいと踏んで決行したようだった。
まずい状況になった。このままこの子達を引き連れて脱衣所にはいったら?
悲鳴が上がる場面を想像し、あぶら汗を垂らしている所へ声がかかった。
「道を開けて下さらない?」
はっきりとした声に振り返ると、緑栄と共に最後まで敷布を取り込んでいた女官だ。
「もう一度入られるのならば、早くして下さらない? そこで留まっていられると、お互い風邪を引いてしまいます」
なんて事を言ってくれるんだ! と思った緑栄だが、囲んでいた女官達が「春華様……」とおよび腰になったのを見て、おや? と思う。
「春華様も今から……?」
「ええ。皆さんがまた入られるのならば、〝私も〟ご一緒させて貰おうかしら?」
含む様な言い方に、女官達が一同青ざめてざっと引いた。
「い、いえ、また今度にしますわ」
「のぼせてはいけないものね」
「あ、仕事を残していたのだったわ」
女官達は口々に理由をつけて、蜘蛛の子を散らす様に去って行った。
あっけに取られてたたずんでいる緑栄に、どうぞ、と先を譲った春華。
緑栄もこれ以上はどうにも断れず、ままよ……と覚悟を決めて入って行った。
脱衣場には誰も居ず、湯殿からも声がしない所を見ると、ひとまず春華と二人だけの様だった。
なるべく隅の角を陣取り、どうしようかと思っていると、春華は服のまま湯殿へ入り、すぐに桶を抱えて戻ってきた。
「紫鈴様、私は入る前にやる事がありますので、どうぞ先に入って下さい」
「そう? 分かったわ」
ほっとして応じると、春華は脱衣場に併設されている化粧室へと入っていく。
それを見届けて、緑栄は風のように濡れた着衣を脱ぎ、湯殿へ行き、身体が温まるのもそこそこに髪や身体を洗い、脱衣場の様子を伺うと、春華はまだ化粧室に居るらしく気配がないので、意を決して脱衣場に戻り、また風の如く着替えをした。
(た、助かった)
心底ほっとして身なりを整え、髪を乾かしに化粧室へ入ると、春華はまだ小部屋の隅にいた。先ほど汲んでいた桶に腕を入れている。
そそくさと髪を結い上げ、お先に、と声をかけて立ち去ろうとした時だった。
「これは」
少しの好奇心が優って、先ほどから何をしているのかと覗き込んだ瞬間、思わず腕を掴んだ。
「何やってるの、だいぶ腫れているじゃない。早く医務室に行かなきゃ。冷やしているだけじゃ埒があかないわよ。どうしてこんなになるまでほっといたの?」
あまりの剣幕にポカンと口を開けていた春華は、緑栄の最後の台詞にぷっと笑った。
「覚えていらっしゃらないのですね、紫鈴様」
えっと春華を見ると、勝気そうな目が何故か優しく苦笑していた。春華という女官に見覚えはなかったが、その勝気そうな目は覚えがあった。
「もしや」
以前食堂にて青蘭に絡む女官を追い払った事があった。その時最後に絡んで来た女官の腕を掴んだ。その女官がしつこくつっかかって来たからだ。
ぎりっと歯噛みしたいのを抑える。
春華の腕をこんなにしたのは他でもない緑栄だ。
「私が腕を掴んだ時に痛めたのね。ごめんなさい。でもどうしてすぐに医務室にいかないの? 手早く処置をすればここまでにはならなかったはずよ」
「こちらの都合です」
「でも」
「捨て置いて下さいまし」
ピシャンと平手を打たれる勢いでこちらの言質を取られた。
春華は緑栄が怯んだ隙にさっと腕を引くと、桶を持って背を向けた。
「お先にどうぞお上がり下さい。私はお湯を頂きますから」
そう言い置いて脱衣場の方へと去っていった。
すごすごと湯殿から出てくると、女官長と出くわした。
「あら、ちゃんとお湯に入れた様ね。心配して損したわ」
「母う……女官長さま」
緑栄はうっかり拗ねたように言いそうになり、またしてもぎらりと光る目力の元に言い直した。
「しょぼくれているんじゃないわよ、仕方ないわね。私の部屋へいらっしゃい。そんな顔をしていたら青蘭じゃなくても見破られるわよ」
まだ報告にも上げていない案件を言われ、がくっと頭を垂れる息子。その姿を見てしてやったりとほくそ笑む母。
これだからあなたは、などと小言を受けながら緑栄は女官長の部屋に入っていく。
そうはいっても緑栄の好きな黒糖まんじゅうと少し塩気の効いた甘茶を出してくれた母、柑音に礼をいうと、懸念している春華との顛末を伝えた。
柑音は、なるほど、と思案顔になる。
「なにゆえ医務室に行かないのでしょうか。膏薬を塗ればすぐに、とは言いませんが長く痛むことはないでしょうに」
緑栄が訝しがると、そうねぇ、と一呼吸置いていった。
「事を表沙汰にしたくないのでしょうね」
「たかだか女官同士の揉め事をですか? 事の発端はあちらですが、表沙汰にしても不利なのはむしろ怪我をさせたこちらの方だと思いますが」
「はあ、そこまでは分かるのね」
「何ですか、人を小馬鹿にして」
もぐもぐと好物の饅頭をほうばり、目を細めていた緑栄は母の言葉に唇をとがらす。
「小馬鹿にはしていないわよ。朴念仁だとは思っているけれど」
一緒ですよ、とぶちぶち言っている息子を見て、まだまだねぇと柑音は茶をすすり、人心地ついてからゆっくりと告げた。
「一つ、彼女が表沙汰を恐れる理由は思い当たるわ」
「何です?」
「実家に知られたくないのよ」
「問題を起こしたとして婚期が遅れるからですか?」
奥宮には大きく分けて二つの女官達が働いている。
一つは紫鈴や青蘭の様に終身、帝に仕える女官。奥宮の大半はこの女官で、髪を結い上げているのが特徴だ。
もう一つは一年から長くても三年程働く女官。良家の子女が多く、行儀見習いとして奥宮で働く。
王宮で働いたと言えば箔が付き、良い家へ嫁ぎやすいと言われており、志願者は後を絶たない。
その者達は髪を二つに分けて縛っており、童女頭と言われる縛り方をしている。
こちらはほとんどと言っていい程、婚約者が居るので、誤って帝が手を付けない様にと髪型で分かる様になっている。
春華は後者の女官だ。
「理由は分からないけれど、あまり実家に触れて欲しくない様だから、彼女自身に思う所があって黙っているのでしょうね。医務室に行ったら理由を聞かれるでしょうし、怪我をしたとなればこちらも預かっている以上実家に報告しない訳にはいかないから」
柑音は湯呑みを卓におくと、静かに緑栄を見た。
「あなたも彼女に悪いと思うのなら、彼女の思う通りにしてあげたら?」
「しかし」
「医務室に行かなくても傷を癒す事は出来るでしょ?」
そこまで言われて、緑栄はあっ、と声をあげ、慌ててお茶菓子とお茶を平らげる。
「ありがとうございます、母上」
「背筋! 歩幅!!」
母の言葉から打開策を思い至り、早速出で行こうとする息子に女官長としての檄が飛ぶ。
緑栄の背中にすっと芯が入った。そして部屋を出る前にはしんなりと紫鈴以上の女官らしさを醸し出す。
扉を開け、振り向いて略礼を取り廊下へとでた息子はまごう事なき紫鈴として出ていった。
やれやれと肩に手をやる柑音は卓に座り、改めて思案する。
本当に自身だけの理由で黙っているのか、それとも別の理由があるのか。
色々な可能性が脳裏に浮かんだが、今はまだ判断をする欠片が足りない。
緑栄には言わなかったが、春華に関して印象に残っている事が一つだけあった。
入宮する際に、年期を伸ばせるかどうか聞いてきたのだ。
短く出来ないか、という相談は受けた事はあっても、伸ばせないかと聞かれたのは初めてであった。
前例はないが、実家の許可があれば一年程度なら、と答えると、実家のくだりで表情が曇り、分かりましたと下がっていった。
それ以来、定期的な面談の時にもその話が出る事は無かったが、今回の件を聞いてふとその事が思い出された。
「実家に帰りたくない理由、ね」
少し、調べてみますか。
柑音は声なき声で呟いた。
女官長の柑音は、紫鈴と緑栄の母親です。
と言うことは、元祖朴念仁の妻でもあります。
普段は宮中で寝泊まりしていますが、休養日には自宅に戻ります。
元祖の方も追々出て来ますので、お楽しみに!




