2 目覚め
食堂に行き、理由を言って粥を作ってもらい帝の私室へと急ぐ。
心逸る思いを抑えて声高に、失礼します、と来室を告げた。
直ぐに帝が応じたのを聞き入室すると、帝の寝台に横たわる女人と、寄り添う張煌明の姿があった。
「遅かったな」
「申し訳ありませぬ」
粥を側卓に置き詫びる紫鈴に、この時間の厨房は戦場の様ですよ、とか細いながらもはっきりとした口調で紫鈴を庇ったのは呉青蘭。
「私でしたらこんなに早く持ってこれません」
帝の側仕をしている紫鈴と同室の女官であり、現在帝が最も気にかけている者でもある。
ありがとう、青蘭。
感謝の視線を送ると、ニコッと満面の笑顔が返ってきた。
あぁ、青蘭、よかった。
今にも抱きしめたい衝動を堪えて、コホンと帝に向き直る。
「陛下、後は私が替わりますから、どうぞご政務にお戻り下さい」
「何? 私が食べさせる為に粥を持てと言ったのだぞ?」
「何日政務室を空けていると思っているのです? さっきから表で侍従長が右往左往しているのですよ」
「お前、青蘭が目覚めてからまだ一刻しかたっていないのだぞ」
「一刻もあれば充分愛を語れたでしょうが。お楽しみは為すべき事をなさってからにして下さい」
「ば、愛など。……覚えてろよ」
下町の男の様な捨て台詞を吐いて部屋を後にする帝。紫鈴は青蘭と二人、顔を見合わせて笑い合った。
そしてお互い手を伸ばす。
「青蘭!」
「紫鈴姉さん!」
ぎゅっと抱き合い、嬉し涙で肩口が濡れた。
「さ、まずは食べなくちゃ。おしゃべりはその後よっ」
涙を拭って青蘭を抱き起す。
「はい、紫鈴姉さん」
青蘭も素直に応じて、枕を背もたれにし、ゆっくりと粥を口元に持っていった。
もってきた粥の半分程を口にし、スプーンを置いた青蘭を紫鈴は心配そうにみやる。でも青蘭は柔らかく微笑んで、ゆっくりと首を横に振った。
「ごめんなさい、今はこれだけでやめておきます。多分、次の時はもう少し食べれると思いますから」
自分の身体と相談してやめたようなので、紫鈴は頷く。
「白湯は飲める?」
「はい、頂きます」
嬉しそうにいった青蘭を見て、紫鈴はやっとほっとした。
三日間寝たままでやや青白い顔をしているが、白湯を飲んでからは頬に赤味が戻ってきた。
「今からお話できる? 疲れてない?」
とにかく休む事が一番なのだが、聞きたい事も話したい事もたくさんありすぎて、少しでも消化しない事にはこの場を離れられない。
「はい、姉さん。喜んで」
そう言った青蘭は穏やかな目をしている。
きっと帝が今の青蘭の状況と、ここに至った経緯を述べたのだろう。
帝は青蘭が目を覚まさない内に、紫鈴が良しと思った情報は本人に告げよ、と命を下していた。
紫鈴はそれが一番嬉しかった。
青蘭に本当の事が言える。
もう、偽りながら接するのは無理だった。
それぐらい紫鈴の中で青蘭の存在が大きくなっている。
帝も気付いているのだろう。
「青蘭、ごめんなさいね」
まずもって紫鈴は青蘭に頭を下げた。
「姉さん?」
あわてる青蘭に、紫鈴は続けた。
「私、最初はあなたの監視役だったの」
帝の側近として青蘭の動向を探っていた。王命にて青蘭の実家まで行き、家族の動向を調べた。
そしてその間、双子の弟に自分の代わりをしてもらっていた事を、赤裸々に話した。
「双子の……ではやっぱり最近の姉さんは姉さんじゃなかったのですね」
「そうなの。緑栄というのだけど、普段は表宮にいるので会えないわ。機会があれば紹介するのだけど」
「あ、でも、たぶん今度姉さんと代わって奥宮にいらっしゃったら分かります」
「そうなの?」
自分と化けた緑栄を見分けられるのは家族と小さい頃から同じ時を過ごしてきた帝だけだ。信じがたい思いで青蘭の大きな瞳を見やると、青蘭はなぜか嬉しそうに笑った。
「はい。姉さんの様で姉さんじゃなく感じられて、一度陛下に進言しました」
「……あの子の腕も落ちたわね」
「あ、いえっ、私以外の方は気付いていないと思います」
青蘭は慌てて過ごした身を乗り出した。
「私は同室でしたから。あと、紫鈴姉さんが好きでよく見ていましたから」
少し目を伏せ、恥じらいながらそんな可愛らしい事を言ってくれる青蘭。紫鈴は嬉しくて思わず手を伸ばして抱きしめる。
そして青蘭の柔らかな瞳を見つめた。
「お祖母様譲りの洞察力ね。感服したわ。お父様もお母様もお元気で、あなたの事を心配されていたわ」
「おばあちゃん……父様母様……」
大きな目に涙が盛り上がる。
「ありがとうございます。紫鈴姉さん」
望郷の思いが募ったのだろう。
青蘭はしばし静かに泣いた。
青蘭は手習いで来ている一時預かりの女官ではない。生涯奥宮に仕える女官だ。
よほどのことがない限り郷里に戻る事はないだろう。
そのことも青蘭は良く分かっている。その点に関して紫鈴は心苦しかった。
自分も青蘭と同じ身でありながら、特殊な任により外へも出れる。両親にも会え、外へ出た折に急ぎでなければ実家に寄る事も出来る。
しかしそれをいま、青蘭にいっても答えのある物言いを引き出すだけだ。心優しい青蘭は、気にしないでください、と目を丸くして告げるに違いない。
紫鈴は一度首を横にふり、思念を散らすと別の自分のことをいった。
「お祖母様の懸念を聞いて急ぎ戻ってきたけれど、結局私は間に合わなかったわね」
自嘲する紫鈴に、やはり青蘭はいいえ、と胸に手を添えた。
「私が私でなくなった時、暗闇の中で皆さんの想いが届いてきました。姉さんの想い、とても強くて……私が私である様に、引き戻してくれました」
ありがとうございます、と目を伏せて礼を取る青蘭に、紫鈴もよかった、と微笑んだ。
そして改めて居住まいを正した。
「その事で青蘭に聞かなければならないの。あなたの〝呪〟は強い負の感情を発しなければ発動しない様になっていたの。言いにくいとは思うのだけど、一体何に感情を爆発させたの?」
青蘭の顔が固まった。
口を開いては閉じ、また開いて、何度も繰り返す青蘭を、紫鈴は辛抱強く待った。
ぎゅっと掛布を握り、意を決して言い出した青蘭の言葉は、紫鈴を著しく驚かせた。
「側女、の意味が分かって……姉さんが陛下の側女だと聞いて、ある夜、夜中に帰ってきた姉さん、今思えば弟さんに、……嫉妬しました」
「なっ……!」
口を大きく開いて二の句が言えなかった。
この小さく朗らかで、少し背は伸びたがまだ童女の面影がある少女に、その様な情念があったとは。
いや、宿ったんだわ。
紫鈴は口を噤んで思い直した。
それだけ青蘭の中で帝への想いが募ったのだ。
大人への階段を歩み始めた青蘭を、紫鈴は眩しく見つめた。
恥じ入って俯く青蘭に、紫鈴はそっと手を重ねた。
そして、私は、陛下の側女ではないわ、と静かに言った。
ハッと顔を上げる青蘭に、頷く。
「でもいずれそうゆう女性は出てくるかもしれない。側女、ではなくね。青蘭、あなたはその時、その事を受けとめられる?」
青蘭は再び俯いた。
やがて、絞り出す様に言った。
「今は……分かりません」
「青蘭」
「紫鈴姉さんを誤って側女だと想像しただけで、私は自分の闇に引き込まれました。もう一度、その状況を考える事は……今は無理です」
「そうね」
紫鈴は頷いた。酷な事を言っている。でも、これだけは伝えなければならない。
「青蘭、心に留めておきなさい。あなたが愛する人はそうなってもおかしくない地位と権力の上に立っている。どうされるかはご本人次第だけど、あなたはあなたの心を強く持つのよ。何があっても、何を言われても、動じない様に」
「紫鈴姉さん」
紫鈴を見つめる目が揺れる。
そして、小さくこくりと、頷いた。
いい子ね、青蘭、と言ってしまいそうなのを何とか飲み込んだ。
もう青蘭は童女ではない。
愛する人を持ち、嫉妬に心を惑わせる一人の女性だ。
「さ、長話をして疲れたでしょう。少し横になりなさい」
それでも横たわる青蘭の小さい事。
つい額に手を当てて前髪をすいた。
不安に満ちた目が、少しだけ安堵に転ずる。
「眠るまで側にいるわ」
そう言うと、安心して目を瞑った。
可愛い可愛い青蘭。
側に居て、支えなければ。
「その為には結婚なんて、していられないのよ」
決意を持って一人、呟いた。




