19 馬との誓い ー紫鈴ー
雨が降っている。
淀みない雨音に、意識が浮上する。
息を吸うと煙る土と草の匂いがして、だいぶ降り続いているのだと感じた。
かなり意思をもって開けようとしないと、瞼が上がらなかった。疲労が溜まっている。
ぼんやりと開けた目に、乳白色の天井の布が見えた。
「気がついたか」
声と共に影がかぶり、額に手が当てられた。大きくて温かい手に、また瞼が閉じようとするのを必死で堪えた。
まだ、だめ。状況を確認。
「もう少し寝た方がいいが……飲み物なら飲めるか?」
男の申し出に頷き、手を借りて半身を起こした。布にくるまった鍋の中から、椀に白い汁を盛ってくれる。
「何か食べれるか?」
と聞かれ、迷って首を振った。本当は食べた方がいいのだか、今は胃に入る気がしない。男は頷き、椀だけを手に持たせてくれた。口元まで手を添えてくれる。
「ありがとう。美味しい。何かのミルク?」
「馬の乳だ。干し肉と塩で煮込んだ。食欲がでたら食べてみたらいい」
頷いてもう一杯だけ頂いて、改めて周りをみると、全て布で覆われた天幕の中に居た。
広さはなく、大人二、三人がやっと座れる程度だ。
気絶した時には外にいたのだから、あれからまた何刻もたっているのだろう。
身体を移動されても気付かない程疲弊しているのも、自分で分かっていた。
意を決して男を見る。
「助けて頂いて、感謝しております。そのお礼もままならないのに恐縮ですが、今一つ、助けて頂きたいのです」
「堅苦しい事はいい。急いでいる様だったな」
男は食べた椀を片付けていたが、紫鈴の声色が変わったのを受けてこちらを正面にして胡座をかいた。
日に焼けた白髪に近い銀髪の前髪は鼻先まで長く、目が隠れてよく見えないがこちらを見据えているのはわかる。
紫鈴は掛けられた布をぎゅっと握り締めて男を見る。
「ええ。私を王都へ、王宮へ連れて行って欲しいのです」
「王宮? 女官なのか?」
「伯紫鈴と申します。王命でこちらに出向いたのですが、急ぎ戻らねばならぬのです。ただ、今の身体では……」
「ああ、歩けはするがな」
「それで、馬を貸して頂けませんか?」
「……」
馬と聞いて男の顔が曇った。
「馬も一人では乗れないだろう。同乗すれば何とか。だが、馬が許すかどうか」
「馬が?」
「ああ、俺の馬は特に気難しくてな。馬がだめだと言ったら無理だ」
「そんなっ」
紫鈴は掛布の布を握りしめてなんとか借りれないかと身を前に乗りだすが、シルバは片手を上げて、落ち着け、という仕草をした。
「案ずるな。その場合は違う馬で連れていってやる。だが俺の馬が一番早い。急ぎであれば俺の馬で走った方が確実だ」
「どうすれば」
「明日の朝、馬に聞いてみるんだな。気に入れば体に触れても大人しくしている。気に入らなければ近寄らせてもくれないだろう」
「……」
青ざめた紫鈴を見て男は笑い、なるようにしかならん、と慰めにもならないことばを寄越した。
そしてランプの火を消し、紫鈴の隣にごろりと横になる。
「っ!」
ある程度覚悟はしていたが、今晩は男と一緒に寝るという事だ。
信頼出来る男だとは思うが、この状況に紫鈴はぎこちなく、のろのろと横になった。
男がふっと笑った。
「手負いの雌に手を出すほど落ちぶれてはいない」
「なっ」
「気に障ったなら謝ろう。明日も早い。とにかく身体を休める事だ」
最後はもっともらしい事を言って、すぐに寝入ってしまった。
信じられない! こんな美人目の前にして言う事に欠いてメス?!
しかし、王宮ならばいざ知らず、今の紫鈴は旅装でしかも男装だ。
でも胸、見られたし……何よっ!!
プイッと男とは反対の方に向く。
怒りで眠れそうにないわ! と思っていたが、目を瞑るとすぐに意識は遠のいていく。
うそでしょ、と思いながら混濁する意識に身を委ねる。最後に思ったのは、まだ男の名を聞いていない、と言うことだった。
****
気がつけば朝だった。隣の男はもう居ない。紫鈴は慎重に身体を伸ばす。
腕、足、足先、ゆっくりと伸び縮みさせ、身を起こした。
うん、だいぶ回復してる。
サクサクと近くで軽い足音がした。
天幕の向こうから遠慮がちに声がかかる。
「お姉さん、起きた?」
男に諭されて村に帰ったシルバの弟の声だった。
「ええ。今行くわ」
寝具をたたみ、身繕いをして出ると、雨上がりの森林の匂いに満ちた爽やかな朝だった。
紫鈴は澄んだ空気を深く吸い込み、目を移すと、即席の竃に火は焚かれ、男と若者が朝食の用意をしていた。
「おはようございます。何かお手伝いする事は」
「おはよう。ではこの敷物を引いてくれ」
足元を見ると、下草が朝露に濡れていた。
竃を囲む様に敷いた所で朝食が出来、椀を頂いて食べ始める。
昨夜貰ったスープに、干し肉、根菜、菜っ葉が入り、塩加減も程よく、とても美味しい。昨日はなかったパンも渡された。
きっとこれを若者が持ってきたのだろう。しかしこのパンが恐ろしく固い。
手で千切れず四苦八苦していると、固いなら汁につけて食べたら? と見かねた若者が声をかけてくれた。
なるほど、とそのまま椀に押し込もうとすると、横からすっと手が出て、パンを食べやすい大きさに男が割ってくれた。
「ありがとう」
礼を言うと、男は頷いて黙って食べている。
若者はちょっと驚いた様に、何か言おうとした所で男にぎろっと睨まれて口をつぐむ。
そして紫鈴の方を向いて、ニコッと笑った。
その屈託の無い笑顔が青蘭と重なる。
どうしているだろうか、と思いを馳せる。
青蘭と同室になってからこんなに離れた事は無かった。
緑栄と上手くやっているだろうか。
妙に聡い子だから、発覚を恐れた緑栄が接触を控えていないか心配になる。
紫鈴という壁がないと、帝の寵愛を受けていると思っている女達が何をしでかしてくるか分からない。
特に気を付けなければいけない輩の顔が浮かび、紫鈴は顔をしかめた。
とにかく早く戻らないと。
今、側に居られない事を考えても仕方がない。まず体力をつけねば。
紫鈴は可能な限り良く噛み、食事を平らげていった。
片付けをし、男の許可を得て馬の元に行く。
これだ、と言われた馬は、艶やかな黒毛で、傍にいる若者の馬よりも一回り大きく見事な四肢をもった馬だった。
そして目が厳しかった。
爛々と光を放っている。
優しく、懐柔する様に近づこうものなら、正しく蹴られそうな気を放っていた。
紫鈴は一瞬、馬の気を見ようとしたが、辞めた。それは誠実では無い気がした。
それではこの馬の信頼を得る事は出来ない。
頭を振りかぶり、やがて心を決めた。
「お願いが、あるの」
馬が言葉を解すとは思わなかったが、こうするより他がなかった。
真摯に語りかける。
「私の崇拝する主と、私の大事な友の危機が迫っているの。どうしても早く王都に戻りたい。それにはあなたの力が必要なの。
お願い! 力を貸して!!」
馬と目を合わせて、懇願した。
数瞬後、馬はブルルッと、嗎、頭を垂れた。
どういう意味か測りかねて振り返ると、男は顎をくいっと上げた。
触れてもいいという事なのかと、紫鈴は馬の首に手をやり、撫でる。
馬は気持ち良さそうに身体を震わした。
紫鈴は受け入れて貰えた事を知り、安堵して馬の首に額をつけた。そして紫鈴の信ずる神に祈りを捧げた。
天の神、地の神、水の神、火の神よ、
見守り下さり、ありがとうございます。
道中皆無事でありますように。
この馬が病みませんように、
そこまで祈った所で、ええぇ?! という驚愕の声が聞こえた。
馬から額を離し、二人の方を見ると、男の横で若者が目を見開いて、口をあんぐりと開けている。
「……何か?」
紫鈴が受け入れられると思わなかったにしては様子がおかしい。
若者はしきりと紫鈴と男を見ている。
何度も、何度も。
男もまた、先程と何かが違う。
固まっている様にも見える。
と言っても表情は見えない。
元々男の前髪が目にかかるくらい長く、鼻と口元ぐらいしか見えないのだ。
「あの、兄さん、これはつまり……」
若者の戸惑った声に、はっとした様に男は頷いた。
「ああ。……俺は彼女に同行する」
物々しい言い方が気になったが、同行するという言葉に紫鈴は感謝を述べた。
「謝辞はいい。……こちらの都合でもある」
男はぶっきら棒に言い、若者を紫鈴から離れた所に連れて行った。
何やら色々な事を伝えている。
それを聞いている若者も只ならぬ雰囲気だ。朝食を取っている時の無邪気な気配が飛んでいってしまっている。
やがて二人は紫鈴の元へと戻って来た。
若者がつっと前へ出る。
青ざめた面持ちで、片腕にを胸に当てて言った。
「僕はこれから村に戻ります。兄さんをどうかよろしくお願いします。
えっと、お名前を伺ってもよろしいですか? 僕の名は、シン・タル・ミージャと申します」
若者の正式な問いに、紫鈴も両の手を前で組み返礼をする。
「伯紫鈴と申します」
「紫鈴様、兄さん、道中の無事を祈ります。
それから…お二人で村に戻られる事も」
二人?
訝しげに首を傾ける紫鈴に、シン! と男は嗜める様に呼んだ。
「分かってるよ! 全ては風と大地の神の御心のままに。ご無事を祈っています」
そう言ってシンはさっと自分の馬に跨り、村へ帰っていった。
シンを見送って男の方を振り返ると、もう出発の準備が整っていた。
馬の背に、前へ乗るのか後ろに乗るのか迷っていたら、前へと指示され、乗馬にも男が手を貸してくれた。
「ありがとう。道中よろしくお願いします」
改めて言うと、ああ、という短い答えが返ってきた。
こんなに口数の少ない男だったか、と思ったが、旅が始まる前にこれだけは聞かなければと口を開いた。
「あの、お名前を教えて貰えませんか?」
「シルバ」
「シルバ殿」
「敬称はいい」
「分かりました。では私の事も紫鈴とお呼び下さい」
「分かった」
では行く。と野営地から街道へ出た。
病み上がりとはいえ、馬と呼吸が合わせられると分かると、シルバは馬の腹を蹴って駆けさせた。
紫鈴は少し前のめりになりながら必死に上体を保つ。
そして、景色が流れる速さを感じ、シルバの馬が紛う事なき駿馬である事を知った。
「シン、どうした、息を切らして」
「叔父さん、大変! 兄さんが……されて!」
「何?! アリが許したのか?!」
「うん、許した! 僕、この目で見た!」
「なんと……一族の者ではなかったのか………。シン、急ぎ村へ戻れ。場合によっては考えねばならぬ」
「うん、分かってる、兄さんからも言われてる」
「…シルバも承知だな。相、分かった。行け」
「はいっ」
バタバタバタ
by キサ&シン




