第三話 タロウちゃん
「おい」
「ななななななんですかっ」
「怖いのは分かるが、俺を盾にするな」
「たたたた盾になんてしてないですよっ」
そう言いながら、前を歩いている朝倉一尉の背中を押しながら進む。
「それのどこが盾にしてないだって?」
「ききききき気のせいですよっ気のせいっ」
その日の深夜、私と朝倉一尉は、懐中電灯と万が一のための武器にと、モップと味塩を手にハンガーにやってきた。
言い出しっぺの野上曹長はどうしたかって?
何故か、急に上からの呼び出しを受けて東京へと出張となってしまった。まさか逃げた?と思わなくもなかったけれど、あとの顛末を教えてくれよな?と言っていたあの無念そうな顔からして、それはないように思う。
ハンガーに近づくにつれて、音が聞こえてくるのが分かった。確かにすすり泣きのようにも聞こえる。そして思い出した。このハンガーに駐機してあるのは、野良猫に粗相をされているのかもしれないからと、格納していた一番機であることを。
「朝倉一尉、ここに駐機してあるのって、一番機ですよね?」
「そうだが」
「ってことは、うちの一番機が怪奇現象に晒されているってことですよ。もしかしたら油漏れも、それが原因なのかも。何かの振動とかそんなもので、機体から油が漏れているのかもしれません」
「なるほど……ってだから押すな」
申し訳ないけれど、私だって自分の身がかわいいのだ。科学的な現象だと判明するまでは、朝倉一尉にはここは男として潔く頑張ってもらいたい。そういうわけで、私はさらに一尉を前に押し出す。
「だけど、とても低周波振動には聞こえないですよね、どこから聞いても泣き声です」
「だから俺を盾にするのはやめろって」
「何かあったら頑張れ一尉。パパはとてもかっこよかったって、娘さんには伝えますから。もちろん奥さんにも」
「どうしてそうなる、しかも俺がやられる前提とか、一体どういうつもりだ」
一尉のことを盾にしながら進み、ドアを開けてもらってハンガー内部に入る。確かにシクシクと、それはそれは悲しそうなすすり泣きのような音が聞こえていた。どう考えても、建物の家鳴りでもなければ、野良猫やネズミの鳴き声でもない。
「な、泣いてますよ」
「泣いてるな……」
はっきり泣き声が聞こえているので、さすがの一尉も若干逃げ腰になっている。私を置いて逃げ出してもらっては困るので、ベルトのあたりをしっかりと握った。
「灯りをつけた方が良いんじゃないか? だからそんなところをつかむな、ズボンが脱げる」
「離して一尉が逃げちゃったら困るじゃないですか。大丈夫です、脱げない程度に加減はしてますから。灯りをつけたら逃げませんかね?」
「逃げてくれた方が良いと思うんだがな……加減ってなんだ加減て、いい加減に離せ」
「いやです。一尉に置いていかれたら困るもの」
「まったく……」
二人で壁際をジリジリと横ばいに移動しながら、一尉が照明のスイッチに手をのばす。スイッチを入れるとハンガー内が明るくなり、泣き声もピタリとやんだ。
「聞こえなくなりましたよ、本当に逃げた?」
しゃがみ込んで、機体の下をうかがう。野良猫が走っていく姿でも見えるかと思ったけど、そんな姿は何処にもなかった。
『……ママじゃない』
「一尉、いま何か言いました?」
「いや、俺は何も」
『パパじゃない……』
「羽原、そっちこそ何か言ったか?」
「私じゃないですよ!」
『……ママとパパじゃない……僕、捨てられちゃったの?』
悲しそうな呟きが聞こえたと思ったら、いきなりウワーンと号泣する声がハンガー内に響き渡った。あまりの大音響に、思わず手にしたモップを放り出して、両手で耳をふさぐ。
「一体どこから聞こえてくるんですか、この声?! 基地内のスピーカーと地元ラジオの混線?!」
「知るか、何処かに誰かいるのか?」
耳をふさぎながら、機体の周りを見回すけど、猫どころかゴキブリ一匹すら見えない。グルグルと周囲を見回しながらふと顔を上げ、泣き声が一番機の方角から聞こえてくることに気がついた。
「……まさか?」
「どうした?」
「あの、もしかして泣いてるのって、一番機じゃ?」
「……おい、いくらなんでも戦闘機は泣かないだろ」
「でも、音は一番機の方角から聞こえてきますし……」
あちらこちらに立ちながら、泣き声が聞こえてくる方向を確かめる。大音響でグワングワンと響き渡っているけれど、どう考えても発生源は一番機だ。
「し、しかたないですね、呼びかけてみますよ」
「お前、正気か?」
一尉が信じられないという顔をした。
「だって、少なくとも泣いているのは一番機で確定みたいですし。……あの、す、すみません、一番機さん?」
『ぼく、一番機なんて名前じゃないもん、タロウだもん!! うわぁぁぁぁぁぁぁんっっっっ』
そして更に泣き声が大きくなる。ああああ、鼓膜が破れる!!
「これは新手の超音波兵器か?!」
「あー、ごめんなさい、タロウさん、すみません! いいかげんに泣き止んでください!!」
両耳を塞いでいても、役に立たないぐらいの大音響の泣き声のせいで、頭がグワングワンしてきた。いつものイヤーマフをしてこれば良かった!!
『ふえ゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛ぇぇぇんっっっっ!!』
そしてその声に合わせて、機体の下にポタポタと茶色い液体が落ちて、あの油染みができる。機体の何処から出ているのか分からないけど、間違いなく油は一番機から染み出したものだったのだ。
「あの、もしもし?! ママとパパって誰のこと?」
『ママとパパはママとパパだもん!! うわぁぁぁぁぁぁん、ママとパパに会いたいようぅぅぅぅ、パパァァァァァ、ママァァァァァ、うわぁぁぁぁぁんっっっっっ』
ああああ、頭が割れるぅぅぅぅ!!
「……名前で覚えてないのか。顔なら分かるんじゃないか?」
一尉の言葉になるほどと思って、満を持してふさいでいた手を耳から離すと、スマホを取り出した。緊急時に備えて、今夜は携帯許可を貰っていたのが幸いした。大音響のせいで早くしないとこっちの聴覚が危ない、急いで誰なのか見つけないと!!
「えっと、うちの整備班関係の写真がいくつかあったはず」
写真ホルダをタップして、保存してある写真を探していると嬉しそうな声があがった。
『あ、ママだ!!』
泣き止んでくれたのは良いけれど、キンキンと耳鳴りが半端ない。
「え? どこ? 誰のこと?」
『その写真の前の!! パパも写ってた!!』
「パパも? ちょっと待ってね、これかな……?」
また泣き出されてはたまらないと、急いで写真を探す。
それは、ここで開催された航空祭の時に撮った、F-2戦闘機に関わる隊員達が写っている集合写真だった。そしてスマホを差し出してからハテ?となった。一体この子の目はどこにあるの? 赤外線センサーの部分? それともレーダー?
「目はどこ?」
『そこで見えるよ。僕のお鼻のところにいるのがママで、その左側に立ってるのがパパ』
「一体誰のことを?」
一尉ものぞきこんでくる。お鼻ということは、恐らく機体の先端だ。
「藤崎曹長と社一尉のことみたいですね。この二人のこと?」
そう言いながら画像を拡大して、二人の顔を指す。
『うん! 僕のママとパパ!!』
「あいつら、実は宇宙人か何かなのか? 戦闘機が子供だなんて」
「まさかそれはないでしょう」
『ママとパパは?』
「二人は今アメリカにいるよ。F-35戦闘機の操縦と整備の訓練で」
『じゃあ僕、やっぱりおいてけぼり……?』
悲しそうな声。でもここで泣かれたら、今度こそ頭が割れてしまうかもしれないので、慌てて話を続けさせようと質問をした。
「藤崎曹長と社一尉、じゃなくて、ママとパパはなんて言ってたの?」
『ママ、僕と離れたくないけど、アホなパパについていかなきゃ心配だからごめんねって。時々会いに来るからねって。でも、全然こないの』
「……社はアホなのか?」
「気にするのはそこじゃないような」
そして私達は一番機、じゃなくて、タロウちゃんの話を聞くことにした。
ママとパパがいなくて寂しいこと、今は誰も話を聞いてくれる人がいなくて寂しいこと、そして私と朝倉一尉が、初めて意思の疎通ができた人間だってことなどなど。
「でも、ママとパパとはお話しできなかったんだよね?」
『でも僕、ママとパパとはちゃんと心でつながってたもん』
「戦闘機にここ、いてっ」
余計なことを言いかけた朝倉一尉のスネを、思いっきり蹴飛ばす。
「他の戦闘機とは?」
『お話しできるよ。おじいちゃん達は、よく昔話を聞かせてくれる』
「おじいちゃん?」
「思うにF-4のことじゃないか? この基地では最古参の戦闘機だし」
「なるほど」
そして油染みのせいで午前中に飛べなくなったのも、つまらなくて泣いちゃう原因だったらしい。他の子は飛んでいるのに、僕だけここで一人ぼっちで寂しかったと。そしてその油染みも、タロウちゃんが泣くせいでできるものではあったんだけど、本人も何処から漏れているか、さっぱり分からないらしかった。
「まあ少なくとも、これからは私と朝倉一尉とお喋りできるから、寂しくないんじゃないかなあ」
『でもママとパパじゃないよ』
「うーん。それはしかたがないね、我慢しなきゃ。二人ともお仕事だし」
『僕、捨てられちゃったの?』
タロウちゃんは寂しそうな声で呟いた。
「そんなことないと思うよ。だって藤崎曹長は、最後までタロウちゃんと離れたくないって言ってたし。自衛官のお仕事って、そういうものだから」
『僕のことが嫌いになったんじゃない?』
「もちろん。社一尉だって、タロウちゃんのことはべた褒めだったからね。こいつはいい子だって」
それは、間違いなく一尉が口にしていた言葉だった。本人が意識していたのかは分からないけれど、少なくとも「いい子」と何度も口にしていたのだ。その時は、とうとう藤崎さんのタロウちゃん愛が社一尉にも伝染したかって笑っていたけれど、意外と心でつながっていたというのは、本当のことなのかもしれない。本人にその自覚があったかどうかは別として。
「さて問題はだな……」
そこで冷静に現実的な話を思いつくところが、元アグレッサーの朝倉一尉の凄いところだ。
「まずはこのことを話して、誰に信じてもらえるかってことだな」
「確かに。私達、頭がおかしくなったと思われるかもしれませんね」
『他の人とお喋りしちゃダメ?』
「そうは言わないがって、おい、ラダーをバタバタ動かすのはよせ」
『僕いろいろできるよ!』
さらにフラップをパタつかせ、キャノピーをパカパカと開け閉めをし始めた。
「そういうことを勝手にすると、また点検だと言われて午前中は点検漬けだぞ」
『えー……僕、お空飛びたい……パパと」
「社も当分は戻ってこれないからな。しばらくは俺と飛ぶしかないんだ。お前も男なら我慢しろ」
『……でも僕ぅ』
あ、また泣きそうな雰囲気。
「お前、ここしばらくアラート待機からも外されてるんだぞ。悔しくないのか?」
『……悔しい、かも』
「だったら我慢」
『ぶぅぅぅぅぅ』
不満げな声をあげると、タロウちゃんは何処からか分からないけど油をダバーッと流して、朝倉一尉に三十分ぐらい叱られることになった。
あとから一尉に聞いたところによると、一尉には甥っ子さんがたくさんいるそうで、このぐらいお年頃の子達の扱いは慣れているんだそうだ。
このぐらいの年頃っていうのが、私には良く分からないんだけど……。