第一話 謎の油漏れ
『空と彼女』では社さんと一緒に空を飛んでいたタロウちゃん。
そんなタロウちゃんに異変が?!
「班長、また油漏れしてますよ、一番機」
その日、いつものように朝一番のフライトに向けて、機体の飛行前点検の準備をしている途中、機体の下にある染みを見つけた私は、一番機の機付長である野上曹長に声をかけた。
「またか? おかしいな。昨日の最終の全体チェックでは、どこも異常は無かったはずなのに」
そう言いながらこちらに足早にやって来ると、足元に転々と落ちている染みを見下ろしてから、機体を見上げ油が漏れているところが無いかとあちらこちらをのぞき込む。
「おかしいな、今回もどこからも漏れた痕跡がないんだがな。もしかして、ここに潜り込んだ野良猫が粗相でもしたか? たしかこいつの上では、よく野良猫が昼寝をしているよな」
「あの野良ちゃんは、藤崎さんがタロウちゃんのかわりだと言って、実家に引き取っていったはずですよ。それにこれ、どこからみても油です」
手袋をはずして下に出来た染みを指でこすってから、念のためにとにおいを嗅いでみる。間違いなくオイルのにおいだ。
「おかしいなあ。もう一度全体チェックをするかー?」
この機体の機付長を長年務めていた榎本一佐が、飛行教導群の司令として小松へと異動となり、その右腕だった藤崎曹長と、パイロットとして搭乗していた社一尉を始めとする数名が、アメリカでF-35配備のための訓練に入ってから数ヶ月。この基地では現在進行形でちょっとした異変が起きていていた。
いや、正確にはこのF-2戦闘機の周辺で、と言ったほうが正しいかもしれない。
「どうした、またオイル漏れか?」
「おはようございます、朝倉一尉」
ヘルメットを片手に奥から出てきたのは、社一尉の後任としてこの飛行隊に配属されてきた朝倉一尉。元は小松にいたパイロットで、榎本一佐からの直々の依頼で、イーグルから機種転換課程を経て、この基地の飛行隊に配属されてきた人だ。
本人の前では口が裂けても言わないけれど、一尉の前歴が小松の某教導群なので、本人の知らないところでうちの飛行隊のパイロット達から、鬼か神かのように崇め奉られている。
「すまないな、朝倉。謎の現象すぎて、うちとしてもそのつど対処するしかやりようがない」
「自分はかまいませんが、こうも続くとF-2の運営に支障が出ませんか」
「そうなんだがな……」
すでに、一番機で謎の油漏れのような現象が起きている話は上に伝えてはあった。だけど機体から漏れたのか、はたまた整備していた整備員の誰かが油をこぼしたのかさえ分からない状況で、謎は深まるばかりだ。
実際、こんなはっきりしない状況で、故障疑惑のある一番機を飛ばすのはどうなんだという話ではある。だけど最近いろいろと周辺が騒がしい周辺状況もあって、人員にも機体にも余裕のない空自としては、総点検して異常がなければ訓練やアラートに上げるしかなかった。
だからこの油漏れ現象が始まってからは、連日これでもかというぐらい、一番機の点検を担当整備員総がかりで行っている。だけど結果はご覧の有り様で、まったく改善の兆しが見られない。榎本一佐から後を任されたベテランの野上曹長も、まったくのお手上げ状態だ。
「もしかして、朝倉一尉の操縦が荒すぎるとか?」
私は、この現象が起きた時に真っ先に思いついた可能性について口にした。別に根拠がまったくないわけじゃない。なぜならこの現象が始まったのは、今のメンツになってからだったから。つまり私達一番機の整備員とパイロットの朝倉一尉。私達に心当たりがないなら、朝倉一尉になにか理由があるのかも、と思ってもしかたがないと思う。
「馬鹿なことを言うな。俺は普通に飛ばしているぞ」
私の言葉に一尉が顔をしかめる。
「でも分からないじゃないですか。小松ではそれが普通だと思っていた飛ばし方が、実はそうじゃなかったというのはあるかもしれませんよ。以前はイーグルだったわけですよね。しかも一尉がいたところは普通じゃないですし、飛ばし方も無茶ぶりが多いって聞いてます……私は見たことありませんが」
「機種転換の時にだって何も言われてないんだ、問題はないはずだ。俺のせいにしたがっているようだが、本当のところは羽原が、ランディングギアのシリンダーに油をかけまくったんじゃないのか」
さっそく攻撃の矛先がこっちに向いた。さすがコブラを背負って飛んでいたパイロット、なんて感心している場合じゃなかった。
「失礼な。私はサラダにはドレッシングをダバダバかけますけど、シリンダーには適量の油しかさしませんよ!」
「サラダにはダバダバかけるのか」
「ノンオイルに限ってですけどね」
サラダとF-2を一緒にしないでほしい。
「それで? 野上曹長、本当に今回も原因は不明なんですか?」
いやいやと首を振りながら、一尉は曹長のほうへと顔を向ける。
「ちょっと一尉。なんでそこで私じゃなくて、曹長に質問するんですか」
「当たり前だろ。野上曹長が機付長なんだから」
なにを言ってるんだお前、という顔をされた。なんだか非常にムカつく。
もともと自分にも他人にも厳しくて偉そうな人ではあったけど、ここ最近は遠慮がなくなってきたのか、ますますカチンとくることが多くなっていた。そのうち、こっそりとヘルメットの見えないところにハゲと書いておいてやろうと決心する。今のところ、朝倉一尉の頭に禿げる兆候は見えていないけれど。
実はこのヘルメットに悪口を書くというのは、前任の藤崎曹長から伝授されたものだ。これを一つ書いておくだけで、無礼なパイロットの言動も、大抵のことは笑って許せるぐらいの余裕ができるんだそうだ。藤崎曹長も、社一尉のヘルメットにこっそりと何か書き込んでいたらしいし、ここは是非ともこの先輩直伝の裏ワザを使わなくては。
「漏れた形跡が機体に見られなくて、困惑しているというのが正直なところでな」
一尉の質問に曹長は困ったように首を振る。航空機は、ちょっとしたことが大事故にもつながりかねない精密機械の塊だ。このまま空に上げることは出来ない。
「今から再度点検をするから、こいつの飛行は午後からってことで頼む」
「分かりました」
「どこにも異常がなければ、いつものように昼から上げてやるから心配するな」
「頼みます」
そういうわけで、一号機の整備担当の私達は、総出で隅から隅までの点検を始めた。一番怪しいのは、油染みの場所からしてエンジン部分と姿勢制御のギアの部分。そこを重点的に調べてみたけど、いつものようになんの痕跡も見つからない。
「一体どこからこの油は現れたんだ……そもそも本当にこいつの油なのか?」
「そう言えば調べてませんよね、油の成分までは」
一番機の下で見つかったからこの機体からの油だと思い込んでいて、今まで成分を分析するなんてことまで考えが及ばなかった。
「うちに調べる装置なんてありましたっけ?」
「航空開発実験集団の研究課に知り合いがいる。あそこなら大抵の機器は揃っているだろうから、そいつに頼んでみるか。それでそっちの点検の結果は?」
「以前と同じです。どこからも一滴も漏れていません」
それぞれが担当している場所をチェックし、互いに場所を交替しながらダブルチェック、トリプルチェックとしていく。だけどいつもと同じで、どこからも油漏れの形跡は見当たらなかった。本当に謎だ。一体どこから現れたんだろう、この油。
「ほんと、謎ですよね。別成分となったら、さらに謎が深まってしまいますよ」
「たしかにな。いっそのことこいつから漏れているほうが話は簡単なんだが」
足元の染みを靴でグリグリとこすりながら、やれやれと溜め息がもれた。
「この子、配備から何年でしたっけ。もうすぐ二十年? 二十歳の坊やがお漏らしだなんて、ちょっと困ったことですよね」
「まったくだな」
『僕、お漏らしなんてしてないもん!!』
「ん?」
なにか聞こえた気がして、書類を書いていた手を止めた。
「どうした羽原?」
「野上曹長、いまなにか言いました?」
「ん? いや何も言ってないがどうした?」
「なんか聞こえた気が」
「そうか? カラスでも鳴いていたんじゃないか?」
そう言われて耳をすましてみる。
確かにここは野外だし、郊外なこともあってカラスや鳩良く飛んでいるしスズメもやってきていた。しかも、最近までは野良猫までいたのだ、動物達の泣き声が聞こえても不思議じゃない。だけど今朝は特にカラスが騒ぐわけでもなく、鳩がエサを求めてハンガー近くをウロウロしているわけでもなく、静かなものだ。
「……疲れてるのかな」
「ここ最近は毎日だからな」
たしかにこの異変のせいで、整備員全員がオーバーワーク気味だった。それでも嫌な顔一つしないのは、任務だからというよりも、全員が一番機を大事に思っているからだ。
「油成分の調査で、原因がはっきりすると良いんですけどね」
「そうだな。なんとかサンプルは採れそうか?」
「ほとんど地面にしみ込んでしまっていますけど、何とかいけるのではないかと」
油部分を布切れでゴシゴシとこすって、布に油をしみこませる。ここから先のことは、その手のことが得意な人達に任せておけば、なんとかしてくれるだろう。布を密封できるビニール袋に入れて、曹長に手渡した。
「では曹長、お願いします」
「さっそく府中に届けてもらおう」
「それで、一番機のフライトはどうしますか?」
「午後からはいつも通りで。点検もいつもと同じで念入りに」
「分かりました」
この時の私は、まさか自分達があんな不思議なことに遭遇するなんて、思いもしなかったのだ。