#4
外は平日だというのに人が多かった。そして、一様に公園へ向かって歩いているようだった。
はてな。
七海輝は自転車を漕ぎ、人波を尻目に僅かに首を傾げた。
約束の時計台が見え始めたとき、七海輝の足は止まった。
急に、今自分の着ている服に何か変なところがあるような気がしてきた。
急に、街ゆく人々の目線が自分に集まっているように感じ始めた。
だが、前述のように彼女は過去を鑑みない人間である。だから、過去の自分が選んだ服について今更に悩む事は殆ど無かった。
故に、これは七海輝にとって初めての感情だった。
「過去の自分に対する不信感」
言い換えれば、自省。内省。自分の客観視。
これまで七海輝が出来なかった事である。
そのため、彼女には急に沸いたこの感情の意味も名前も分からなかった。ただただ、決まりの悪さだけという重いしこりを胸に、時計台のある広場の門をくぐった。
「やぁ、七海輝ちゃん。見違えた様に美人になっちゃって」
良川五月は、自転車を押して複雑そうな顔をして歩く七海輝の姿を確認するなり、そう言った。
七海輝は彼の声を知覚して、そしてその顔を見て驚きを隠せなかった。
「……そういうセンセイは、ちょっと……やつれた?」
「ええ?そうかな」
良川はトボけた笑いで誤魔化した様に見えた。しかし、七海輝の大きな双眸は彼の目元の深い隈に釘付けになった。
そして、その隈の上の瞳が朧げな黒に滲んでいるのも。
長い前髪で周到に隠してはいるが、頬骨が矢鱈と高く目立ち、頬は痩けていた。
「じゃ、そこのカフェでお茶しよっか」
黒い髪を揺らし、良川は七海輝にそっと背を向けた。彫刻の様にどっしりとした、冷たい背中だった。
そして、その背の向け方は、まるで自分の瞳の意味に気が付いたみたいだと、七海輝は思った。
アクアリウム併設のカフェは、海の底の様に青い間接照明で、外よりも涼しく感じられた。
上着を着て来れば良かったと、七海輝が本日二度目の内省をした時、順番が来てカウンターのウェイターが「ご注文は」と無愛想に尋ねた。
カウンター奥の電子メニュー板を見ても、カタカナが多くて七海輝にはさっぱりだった。
七海輝は普段、カフェに入る事は滅多にない。コーヒーは好きだが、いつものファストフード店の物や、コンビニので十分満足していた。それに、一人でお洒落な店に入るのは何だか気が引けたし、よく連む仲間達はこういう店には合わないと分かっていた。
暫くしても七海輝が何も言わないのを確認して、斜め後ろからメニュー板を見ていたのであろう良川が「アイスコーヒーを二つ。グランデサイズの。一つにはホイップクリームとチョコクランチを付けてね」とカフェに良く馴染む、囁く様な甘い声で言った。
七海輝が思わず見上げると、良川は「先に席取っておいて」と微笑み、七海輝を注文の列からそっと外した。
良川が自分の分も払ってくれたというのに気付いたのは、エイの泳ぐ水槽の真横の席に座った後だった。
からん、という音が、微かにざわめく店内の中でも鮮明に七海輝の耳に響いた。
その音は目の前の、ホイップクリームとチョコクランチのかかったアイスコーヒーのグラスから漏れた物だった。
「あの……これくらい、払えるけど」
七海輝はそれを睨んで、動かない。
強情を張ったまま、グラスに手を掛けようともしない七海輝を良川は駄々っ子を見る目で見ている。
「良いじゃない。俺の方が一回りぐらい年上なんだから。早く飲まないと、溶けるよ」
そう言って、自分のアイスコーヒーを口に運んだ。その長い睫毛の示す先には、七海輝の分のアイスコーヒーがある。
その事に気付きながらも、七海輝は手を膝の上に置いたまま、石の様に動かなかった。青白いクリームがグラスから一筋、垂れ始めていた。
「……何が気に入らないの。ごんぼほってるだけじゃ、俺には分からないな」
良川の口調は、ちっとも怒気を孕んでいなかった。むしろ、淡々と落ち着いていて、言葉の隙間にナイフを刺せるだけの余裕があった。
それが分かって、七海輝は彼に敵わないのを知った。
彼は間違いなく大人で、七海輝は間違いなく子供だった。
「……飲んでいい?」
だから、七海輝が言えたのはその一言だけだった。
青の中で暗く沈む自分の足を見つめながら、それを言う事しか出来なかった。
良川はきっと、笑っているだろう。そう思いながら、顔を上げると。
「七海輝ちゃんはしっかり俺に甘えなさいね」
彼は大真面目は顔をして、七海輝の瞳を見つめていた。
七海輝は言葉が出なかった。
ただ、目頭がじんと熱くなって、喉が渇いた。
だから、返事の代わりにアイスコーヒーを一気に半分飲んだ。
溶けたクリームとチョコレートが苦いコーヒーと混ざり合って、七海輝の中で昨日の頬を伝った涙の味と混ざった。
「わたし、多分、寂しい」
「うん。そうだろうね」
「家族が、いない」
「うん」
「誰も、わたしを知らない」
良川はただ、青の中で最も深い黒の瞳で七海輝を見た。冷たい色ではない。優しい沈黙を湛えた、静かな瞳だった。
「本当の家族が、ほしい」
初めて腹の底から出た言葉は、確かな熱を孕んで七海輝の喉の水分を奪ってしまった。
ちらりと上目遣いに良川を見ると、彼は微かに笑って、七海輝とアイスコーヒーを交互に見た。
そして、彼女がストローに口を付け、喉にそれを流し込んだのを知ると、そっと何かを差し出した。
それは、ハンカチだった。
「なに」
「良いから、横を見てごらん」
横、というのは水槽の事らしかった。訝しげに首を横に向けると、一筋の涙を流す一人の少女が居た。
それは、七海輝だった。
「あ……」
「どうぞ」
そう言うや否や、良川はハンカチを七海輝の頬に当てた。
涙の冷たさと、ハンカチ越しに伝わる良川の手の温かさ。
七海輝は暫く、彼のなすがままに涙を拭いてもらった。
瞼を閉じて、脳に幸せな液体が満たされるのを感じながら。
放心しながら、青白い腹を見せながら水中で踊るエイを眺めていると、不意に良川が口を開いた。
「カンゴウカイは今日からだってね」
「え……何?」
耳慣れない単語に、七海輝は良川を見た。すると、「ごめん、花見の事だよ」と照れた様に笑った。
「ああ……」
この地方では、花見の事を「カンゴウカイ」とか、「観桜会」とか言うんだっけ。
七海輝はそんな事を思い出して、自分がまだアオモリに馴染めていないのを知った。
「公園はもう八分咲きかなぁ」
彼女の疎外感を察知したのか、良川は「カンゴウカイ」から興味を逸らそうとした様だ。
そして、それは訳なく成功した。
七海輝はその一言で、今朝の人混みを思い出した。
「花見シーズンだったんだ」
「うん。もうゴールデンウイークだしねぇ」
「ゴールデンウイーク」
「……もしかして、忘れてた?」
「すっかり」
別段忙しかった訳ではない。
現に昨日の朝までの七海輝は、その事を覚えていた。
「その鼻の傷のせいかな」
良川は七海輝の鼻の上を指差した。
ちょうど、横一線に切り傷がある場所だ。
「これは、何て事ないけど」
「雅も心配してたもんね」
七海輝はその名前に、コーヒーを吹き溢すほど過剰反応した。
すぐ脇を通りかかったウェイターが、すかさず布巾でテーブルや床を拭いてくれた。七海輝も口から垂れるコーヒーを服の袖で拭おうとした。しかし、それよりも早く良川がさっきのハンカチを口元に押し当て、また拭いた。
長い睫毛の奥の、七海輝の瞳は、幸せに溶けていた。
青の世界で、唯一甘い蜜の色をしていた。
「もちょっと、自分の見た目に気を使った方が良いと思うけど。飛んだオセッカイかなぁ」
そんな良川の声が、遥か遠くで聞こえた。
「折角めんこいんだから、あんまし大きい傷作っちゃ、勿体無いよ」
そう言いながら、彼は絆創膏の裏紙を剥がして、七海輝の鼻の傷に貼った。
水槽に映る自分を確認すると、それは、色白の七海輝の肌にも馴染む色の絆創膏だった。
「まるで、知ってたみたい」
「知ってたよ。雅が言ってたから」
「なんで、アイツ」
「だから、心配してるんだって。アイツなりに」
七海輝は首を傾げた。
「心配?どうして」
「うーん。それを俺に聞くかぁ」
良川は笑って、はぐらかす。
「そうだ、花見だけど」
「ちょっと、ごまかさないでよ」
「ごまかして無いよ。もう雅も誘ってるから」
「ええ?」
「明日さ、行こうかなって。他に成田ちゃんも来るって」
「誰、それ」
「トモダチ」
良川の言う友達は、七海輝の知る友達ではない様な気がして、ワザと、「どうしようかなー」と乗り気でない風に言った。
「いい子だよ。ちゃんと紹介するから」
「……年上?」
「うん。大学時代からの、後輩」
「女の人?」
「……うん。さては、嫌なんだね?」
「嫌じゃないけど……。年上の女とか、未知」
「大丈夫だよ。怖くないから。噛み付いたりしないよ」
「ふーん」
良川と「成田ちゃん」と雅という組み合わせに釈然としない物を感じながらも、七海輝はその「成田ちゃん」に少し興味が湧いた。
「あのさ」
「ん?」
「……大学って、楽しい?」
七海輝の口から出た、初めての未来に対する一言だった。
良川はそれを知っているのだろう。驚いた様に目を見張った。
しかし、それは一瞬で、すぐに柔らかな微笑を取り戻した。
「七海輝ちゃんは、勉強好き?」
「真逆!大嫌い」
「じゃあ、どうして大学の事を聞くの?」
「……やっぱり、勉強好きじゃないと行っちゃいけない?」
この一時間で、七海輝はすっかり良川に気を許してしまったらしい。照れ笑いにも似た、下唇を軽く噛む笑顔を覚えた。
「いや、そんな事はないさ。俺も勉強は嫌いだったからね」
「うそ。『世界最高峰の頭脳』じゃなかった?」
その単語に、良川は僅かに眉を寄せた。だが、矢張り、また元の笑顔に戻って咳払いをした。
「それは、外では言わないで。俺、顔出ししてないから」
「えっ、そうなんだ……ごめんなさい」
ごめんなさい。
その一言が自分の口から出てきたのに、七海輝は驚いた。それに気付くと、両唇が擽ったくなった。
「それでね、俺は勉強は好きじゃなかったんだけど。教科書を読むのは好きだったんだ」
「どういう意味?」
七海輝は盛大に顔を顰めた。
「勉強ってのは、先生から押し付けられる物だろ。そんなの、楽しい筈ないだろ」
「うん」
「でも、自分で教科書を開いて読むのは、押し付けられた物じゃないから、勉強じゃないよね」
「えー……やってる中身は勉強じゃん」
「駄目だよ。俺の学校では、『勉強』って言葉は禁句なんだから」
「何が違うの」
良川は腕を組んで、暫く水槽の中を泳ぐエイを眺めていたようだった。そして、イタズラを思いついた子供の様な顔をした。
「今から、英単語だけのしりとりをしようか」
「えっ」
「enjoy」
「えっ⁈……english?」
「sugar」
「ガイン」
「それはgain。ゲインって読むから尻取りは成立しないし……ンが付いたから、七海輝ちゃんの負けだ」
「えーっ、ツーアウトじゃん」
良川は笑った。
「どう?これも、勉強?」
七海輝は殆ど氷が溶けて味の薄くなったアイスコーヒーを飲んで、唸った。
「テスト勉強とかとは、違う感じがする。楽しかったし……」
「そうでしょ。これは勉強じゃない」
「でも、英語やったよ。しかもガイン……じゃなかった、gainってこないだやったばかりの単語使ったし。間違っちゃったけど」
「gainを使って、間違ったから正しい事が分かったんじゃない?」
「そうとも言う」
「でも、間違っても怖くなかったでしょ」
良川は空のグラスを指で弾いた。
結露が蝶の様に空に舞った。
「恥ずかしかったけど、うん。授業で当てられて間違うより、ずっと怖くなかった」
「それで、授業よりこっちの方が楽しかった?」
「うん」
「じゃあ、七海輝ちゃんは大学もきっと、楽しいよ」
「そうかな」
「そうだよ。小学校から押し付けられてきた勉強よりも、ずっと楽しい事が出来る」
「でも、大学に行くなら、勉強もしなきゃ駄目なんでしょ。自信ない。お金もかかるし」
「英単語尻取りが楽しいなら勉強も楽しい事に変えられるさ。そうなれば、自分で稼いででも通いたくなるよ」
青い海の中で、良川は笑った。
そんな彼が、自分には途轍もなく遠い存在に思えた。
どうしたら、縮まるんだろう。
七海輝は自分の手を見た。
今まで幾人もの手を振り払ってきたその手は白く、随分か細く見えた。
「花見って、何時から」
「え」
「明日の、何時」
自分の手を膝の上で握りしめ、七海輝は良川を見た。
すると、良川はこれでもかと言うほど顔を綻ばせた。
「朝の7時!車で迎えに行くよ。この辺じゃないんだ。山の方で……」
子供の様に喜々として明日の計画を語る良川。そんな彼を見て、七海輝はなんだかホッとした。疲れ、痩けた頬も今は青い海の中でも分かるように紅潮していた。
そして、七海輝も、そんな良川の声に身を委ねながら、「明日は何を着て行こう」とエイの白い腹に幸せであるだろう明日を見ていた。