♯3
次の日、七海輝は言い様のない倦怠感に潰されそうになった。
前の晩は家に着くや否や自分の部屋の布団に潜って、泥の様に眠ってしまった。雨に濡れた制服のままで寝てしまったせいか、身体が重く感じた。もちろん、制服がそれ程までに濡れていたのだから、布団の湿り具合も並一通りではなかった。いくら無神経と呼ばれる七海輝といえども、ここで二度寝をキメる気にはなれなかった。
重い身体に鞭打って起き上がると、机の上で充電していた連絡用端末が鳴った。電話だ。七海輝はそれを手にとり、発信者を確認した。……非通知。
それまで寝ぼけて、靄がかかっていた頭が急に冴えるのを彼女は感じた。バケツいっぱいの氷水を、脳天からぶちまけられた様な気分だった。
電話に出るか出ないか悩んでいる間にも、端末は場違いに明るいサウンドと震度を繰り返す。
……。
息を、飲んだ。
「……もしもし」
七海輝のその声には、ありありとした不信感が感じとれた。
それに相手も気付いたのだろう。
「あ、怪しいモンじゃないよ」
いやに明るい声でそう言った。
「どちら様でしょう」
「そうか、七海輝ちゃんは俺と電話するのは初めてだったね」
「……?」
「俺だよ。良川五月。昔よく遊んだよね」
その名前に、七海輝は思わず目を剥いた。不意に、手で口を押さえた。
「え……と」
七海輝は嬉しかった。幼少期、尊敬していた人が10年ぶりに電話をくれたからだ。
しかし、今の七海輝には彼を呼ぶ事ができなかった。何と呼べばいいか、分からなくなっていた。
昔は、「にぃにぃ」と呼んでいた。
だが、今は自分ももう14歳。年が明けて1月になれば、自分は15歳になる。
それに、今の自分は番長。学校の上に立つ人間になってしまった。そんな奴が「にぃにぃ」だなんて、口が裂けても言えない……。
電話を握る手が、にわかに震えだした時だった。
「……良川……センセイ」
七海輝は良川五月が教師であるという事を思い出した。
自分の教師でもないのに、こういう風に呼ぶのはいささか変な気持ちがした。
なにせ、七海輝は彼が教えているところを実際に見た事はない。
教師である事も、人づてに聞いた。
七海輝の胸中の違和感を感じとったかの様に、電話口の彼は笑った。
「センセイって……七海輝ちゃんにそう呼ばれる日が来るとは、夢にも思わなかった……!」
彼があまり楽しそうに笑うので、七海輝をつい、つられて頬を緩ませた。
「それで、何の用事?」
スピーカーモードに設定し、端末を机に置いて、七海輝は重苦しい制服を脱いだ。
今はもう朝の8時半過ぎで、今日は平日。本来ならば学校へ行かなければならないのだが……。
七海輝にとってはどうでも良かった。
今、私は疲れている。
今、私は眠りたい。
今、私は誰にも会いたくない。……良川五月以外は。
「用事?ただ……七海輝ちゃんとお茶っこでも飲むかなぁって」
「え……いいの?」
「いいのいいの。あまり遠くには行かれないけど」
「平日だよ……?」
「うん」
「学校あるよね……?」
「……うん」
良川の返事がワンテンポ遅れたのは、何か後ろめたい事があるからか?七海輝はそれ以上何も聞かない事にして、「どこに行くの?」と話題を逸らした。
……あの琴寺七海輝に気を使わせるあたり、良川五月という男は只者ではない。
そんな七海輝の気遣いを知ってか知らずか、良川は嬉々とした声で続けた。
「ちょっとした買い物だよ。
そうだな……桔梗ヶ丘の時計台は分かるかい?」
「もちろん。ここでも1時間おきにい〜つくしみふか〜いと〜もなるイェスは〜って鐘の音が聴こえるよ」
「七海輝ちゃんはやっぱり歌が上手いね」
「えっ⁈」
「声楽部に入りなよ。きっとイイ線だよ」
唐突な褒め言葉に、七海輝は言葉を失った。
彼女は、昔から誰かに褒められるという事があまり無かった。勉強は出来ないし、授業態度も良くないし、口を開けばロクな事を言わない。周囲からそう言われ続けて、今日に至るのだ。
いつの間にか、自分でも「自分はバカで不良で、好かれる事は無い」と決めつけてしまっていた。
七海輝はそれに、今まで気が付かなかった。決めつけていた事すら、彼女は無意識で行っていたのだ。
「七海輝ちゃん?どうしたの」
「……何でも、ない。それより、何時に行けばいい?」
良川が小さく息を吐いた気配がした。今はスピーカーモードにしているが、もしあのまま耳にくっつけていたら……。七海輝の顔がポッと赤くなった。良川の息の振動を感じていない筈の耳まで、熱い。それどころか、むず痒さまで覚えた。
「今8時45分か……。じゃあ、9時でいいかな?ちょっと早い?」
その一言に、七海輝は自分がまだシャワーも浴びていない事に気が付いた。
それどころか、着替えも中途だ。
七海輝はスピーカーモードをOFFにして、耳に端末をくっ付けた。
「わ、分かった。9時。分かった」
「ふふふふ」
くっ付けた耳に、良川の笑い声が優しく拡がった。
ドッと汗が流れた。
そこで、自分の胸が剥き出しのままである事にギョッとした。
いや、着替えの途中であるのだから、なんらおかしな事は無い。だが、七海輝はその胸を手近にあったシャツで覆った。誰が見ている訳でも無い。しかし、どうしてかそうしないと彼女は落ち着かなかった。
「別に遅れてもいいからね。女の子の支度は色々必要だろう」
「へっ……⁈あ、いや……」
女の子。
普段の七海輝とは程遠い言葉だった。
何年ぶりかに女の子扱いをされて、七海輝はすっかり顔が赤くなった。そればかりか、目の前が白く輝き出した様にも感じた。
荒くなる呼吸を抑えて、七海輝は良川の次の言葉に耳を澄ませた。
「じゃあ、後で時計台で会うべ」
「………う、うん。後で」
それで電話は切れた。
通話終了の画面を暫し惚けた様に見ながら、七海輝は「惜しい」と思った。何が惜しいのか。その答えを彼女は持ち合わせていなかった。
9時、時計台……。
七海輝は部屋の時計を見た。
8時52分。
………。
5分でシャワーを浴びて、3分で時計台に向かう!
「今」の七海輝が下した判断はそれだった。…………