皿の上の歯車
九月も半ばだというのに、真夏の名残のある日光と冷たい秋風のコントラストに辟易していた、ある日の昼食時。
仕方なく選んだ背もたれの無い椅子に座って、どうにも落ち着かないまま、私は友人たちと昼食をとっていた。
一緒に、と言っても、その人たちに声をかけた理由は椅子を選んだ基準と大差ない。それに、外で食べるのに一人では他人の視線に憚られる。だから、相手の対角にいながら、声に耳を傾けてはいなかった。他の友人たちは、身を乗り出すなり腕を組むなり、口をはさむなりしてその雰囲気に加わっている。彼女たちだって話に興味があるわけじゃない。波風を立てない友達でいることが選ばれる合格点となるからこそ、ポーズは大事にするものなのだが、なぜかこの時ばかりは鼻の先すら付けられずにいた。
「でね、さっきのことなんだけどね。」
話す方だって話したいから話すだけで、レスポンスなんて大層なものは期待してないのだろうが、ちらりと視線が掠める度、次第に焦りが出てきた。持ちつ持たれつのご近所付き合いなのだから、適当な反応でもしなければと思ってはいるものの、気が乗らない。
ふと、指先が冷える。
学生生活に。自分以外の環境に。今という時間に。そして自分に。
虚しくなる事がある。切なくなる事がある。呆けてしまう事がある。
五月病というやつが、慢性的に続いている。なのに、たまに更に深い所に飲みこまれてしまうような、ぬるい感覚さえある。
それももう、慣れた。
仕方の無い事なのだ、と諦観する事にしてやりすごす。周りを取り巻く、聞こえる音に、そっと、耳を立ててやる。でも何にも興味は向けないようにして、呼吸を忘れた人形のように、ただ在るだけになる。そうして風に紛れた時こそ、一層自分の内にある異質さが際立っていって、自覚を取り戻せた。
一番の解決法だと思いながら、これこそが正しいとは信じられない。だのに抜け出せないのは、きっと無くなってしまうことに染まっているからだった。
それなのに、この時は違った。
惹かれてしまう。
興味が湧いてしまう。
テーブルに置かれた、さっきまで私が口を付けていた、白いコーヒーカップ。
冷たい風に、受け皿に置かれたティースプーンが揺れて、まるで見つかった事に驚くように甲高い音を立てた。わずかに残っていた雫がカップの底で薄茶けて、カラカラと乾いていく。
奪われたように見入った。ふと、カップの白い色が気にかかる。
先程までは温かいものを包んでいたはずなのに、今ではそう疑う事すらいけないと思わせるくらいに冷くなった、陶器の光沢。
それに囲まれて、消える事に抗えない、褐色の孤独。
みんなでいる時の黒と違って、独りの時はあまりにも小さくて灰色にすらなれない。でも、どこか火の匂いがする色をしている。
咳をしたときに喉の奥に蟠る、あの熱を帯びた赤の色に似ている。
そうか。唐突に悟った。
だから、なんだ。
黒に染まる事に憧れ、目指す。だけど、半分も染まらないうちに段々と乾き、自分の色に戻って生きていく。なのに、最期は、白を塗り付けられ、温度まで失ってしまう。
私たちと同じ、だけど、目に見えない、もの。
すっと背筋に走った恐怖に目を瞬いた。誰にも気付かれないようにひっそりと振り出しに戻った、目の前の白、いつまでも同じ色。
秋風の冷たさに、手を引かれた気がした。
喉の奥で何かが詰まる。苦しくて涙ぐみそうになる。目を閉じると落ちてしまいそうで、瞬きすら恐怖に換わる。
無意識に指先を温もらせていた自分に気付く。鳴咽と一緒に吐き出してしまいたくなる程の小さな抵抗。
まったくもって小さく、臆病な自分にさえ苦しくなる。
その時、銀色の音が鼓膜に刺さった。
恐怖と抵抗が吹き飛ぶ。そして、理由の無い安堵が無秩序に広がっていく。
納得のできない居心地の良さは、私に釈明を求める。白紙に思考を抜き出して、言葉を繋いで意味を見出す。
私は、私が私を怖がっている事に気がつかなかった。
一心不乱に自分自身に言い訳をさがして、行き詰る。
そこには何もない。
気が付くと首筋を伝っていた風がやんでいた。
胸の奥から這い上がってくる熱いものがある。
信用できなかった安心感が薄れ、目の前しか見る事の出来ない悲しみに気が付いた。
どこかで抗っていた。しかし違う。私は、白と同じなのだ。
そう思うと、喉の奥の蟠りは次第に下っていった。音の無い風に目元が撫でられ、さっと冷えた。でも、もう恐れずに見ることが出来るだろう。
冷たさに耐えるように口元をしばって、ティーカップを掬った。
私を映して、ゆっくりと温もっていく。少しずつ混沌と、混濁していく。その茶色も、白も、私も。
「何、してんの?」
声にはっとして頬が熱くなる。手のひらには感覚が残っているのにコーヒーカップは皿の上に置かれていた。
何でもない、と返すと、鼻を鳴らして彼女はまた話し出す。
すこしは耳を傾けようと思えた。
どのくらいの間、時間は止まっていたのだろう。
カップの底には残渣さえ感じられなくなった。
指先が、少しだけまた冷えた。