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「質問は終わった? じゃあ、ちょっと着いてきて! 見せたいものがあるの!」
「なんだよ、急に……」
「いいから、早く! 着いてきて!」
エリスがぐいぐいと俺の腕を引っ張ってくるので、カプセルの中から抜け出し、立ち上がる。
クッション性のあるカプセル内からいつ振りか分からない現実の地に降り立つ。自らの体の重さを噛みしめながら、一歩目の足を踏み出す。ずいぶんと身体が重い気がする。あの夢の世界では身体能力があがり、自分の身体の重さなんて感じたことがなかった。
「ずいぶんと違うな、あの世界とは……」
俺の独り言を聞き、エリスが何を今更、といった風に応えてくれる。
「当たり前でしょう、あの世界は精神が伴えば理論上何でもできるんだもの。例えば空を飛ぶことだって可能よ。でも、そうした場合、現実世界に戻った時、精神と肉体のギャップが大きくなりすぎちゃうからわざと現実世界と変わらない感覚を持たせているんだから。ただ、夢の世界を現実世界と思って何時までも眠り続けられては困るから、少しは現実世界との感覚のずれが起こるようにも設定されていたんだけど……」
「そうか、俺達はあの世界に違和感を持ち始めたことによって、現実世界との感覚のずれが生じ始めたのか……」
そのずれのおかげで身体能力も上がり、年齢を重ねることをしなくなった。
「……まだ、違和感がある?」
エリスが心配そうな目で見つめてきたので、俺は微笑んで否定する。こういう優しいところはやはりマリアに似ている。何か俺に見てほしいものがあるらしいのに、俺が辛そうなら後回しにしようとするのだろう。
「いいや、大丈夫だ。行こう」
「うん! 着いてきて!」
エリスは俺が大丈夫そうだと分かり、今度は満面の笑みで手招きをする。
エリスのあとについて行き、カプセルがある部屋を出る。何回か廊下を右に左に曲がると、これまでより長い廊下に出た。
「もう少しで着くわ。この廊下の先……」
エリスの言葉に従いしばらく歩くと一つの扉の前まで辿り着く。壁に取り付けられたスイッチを押すと自動でその扉が開く。そして開かれた先に待っていたのは――――
「すごいでしょう! 私が植えたのよ! ロボット達にも手伝ってもらったんだけどね」
「ああ……きれいだ……」
ドアを通り抜け、人工的な光が支配していた空間から、柔らかな太陽の日差しの元に進み出る。そこにあったのは光を受けて輝いている青々とした小さな木々の群れ。未だ成長途中であるが、確かにこの地に根付いている。森と呼ぶには未だ少ない面積だが、この世界における希望の芽のように思えた。
「もう少しで農耕も可能になるわ。人参だってジャガイモだって玉葱だって作れるようになれる! そうしたら豚や牛だって育てることができる! そしたらママにまた料理を作ってもらうことができるわ!」
確かにあの夢の世界で得た知識をつかえばあと少しで農耕や牧畜を行うことも可能だろう。しかし、エリスがマリアに作って欲しいという言う料理、このエリスがいう食材を聞く限りその料理とは……
「エリス、マリアに作ってもらいたい料理って……?」
俺がそう聞くとエリスはマリアとは違い小さな胸を反らして言う。
「カレーよ! あんなに甘くて美味しい食べ物はないわ!」
エリスにとってカレーは甘いもの。辛くて刺激的な食べ物と知る前にこの少女は母親とは引き離されてしまった。しかし、マリアはエリスの記憶を失った時でも彼女が好む味を覚えていた。マリアがエリスのために作ったことのあるカレーの味。母が子の味覚に合わせて作ったその優しい味を、俺も知っている。
「ああ、たしかに甘いカレーはめちゃくちゃ美味いよな。マリアが目覚めたら作ってもらおう」
何時の日かきっと、あの時の五人にエリスを加えた皆で、カレーを食べよう。
※
エリスの案内で小さな木々の群れを抜けていく。
「私が目覚めた時は、この辺りは一面の荒野だった……。あなたのようにいつか目覚める人達のことを思って、少しでも希望を失わないようにって思ったの。覚めない夢はない……私がいつか無理やりにでも起こして、ほら、こっちの世界も悪くないでしょ! って言えるように頑張ったのよ……」
覚めない夢はない。ただ、目覚めたその世界に希望がなかったらどう思うだろう? 小さな一人の少女は、どう思っただろう……?
「おじいさんがいなくなってずっと一人だった……。あなたは分からないでしょうけどね、私はあなたよりずっと年上なのよ! おじいさんが作ったすごい長生きできる薬を飲んで、十数年に一歳しか年をとらないようになった……。おじいさんが亡くなってからずっと、ずっと一人で……とても、とても寂しかった……」
エリスはそこで言葉を区切り、前歯で下口びるを噛んで必死に涙を堪えようとしていた。しかし、その目にいっぱいにたまった涙は彼女の白いほほを滑り落ちていった。
「ずっと、ずっと待っていたの……あなたのように目覚めてくれる人を……」
少し前を歩いて俺を先導していたエリスは振り返り、涙を溜めた瞳を向けて言う。
「だから、ありがとう永志。目覚めてくれて、この世界を美しいと言ってくれて、ありがとう。私がしてきたことは無駄じゃなかった」
……感謝をするのは俺達のほうだ。夢の世界に逃げ込んで、真実を隠されてのうのうと生きていたのだから。その間、この少女は、少女のおじいさんは、ずっと戦い続けていた。俺達が逃げ出した現実と。たった一人で……。
「エリス、君と君のおじいさんがいなければ、この世界は終わっていた。もう一度やり直そう。今も眠っている人達が起きたら、もう一度この世界を……」
俺がそう言うと彼女は涙を堪えようとするのをやめてわんわんと泣き出した。しかしその足は止まることなく、前へ向かって進み続けていた。
「もう少しよ。最後に見せたい場所があるの」
そう言って彼女は俺を連れて少し坂になっている道を登って行った。その頂上に見えるのは一本の樹。
二人で同時に登り切って、そこから見える景色を見る。
「ああ、これは……」
この景色も俺は知っている。前に見たものより大部小さくはあるけれど。
「綺麗でしょう? 私がまだ夢の世界でママと一緒に居た時、こんな場所に連れてきてもらったことがあるの……。その景色より大部規模は小さいんだけどね……」
「いや、十分だ……とても、綺麗だ……」
エリスが最後に俺を連れてきた場所。そこに広がっていたのは、夢の世界で彼女の母と見た景色と同じ景色――――色とりどりの花が咲き誇る花畑だった。
「そう言ってもらえると嬉しいわ……。目覚めても何もない荒野が広がっているのは嫌だと思ったの。黒と茶色しかない世界なんて嫌でしょう? 私は、とても嫌だった……。目が覚めて初めて外に出て、一つくらい綺麗だと思える景色がないとね」
花畑の中に一本の畦道がある。きっとここをエリスは何度も往復したはずだ。花を植えに、水をやりに、雑草を抜きに、何度も何度もその道を通ったはずだ。エリスは樹のそばまで歩いていき、その幹をそっと触る。
「夢の中の景色でもここに樹があったの。たぶんあの樹は普通の樹だったと思うけど、私はリンゴの樹を植えたのよ。リンゴの樹を根付かせるほど、この世界は回復した。この樹は人類の知識の象徴よ。リンゴはカレーに入れても美味しくなるって本に書いてあったしね」
ああ、そういえばマリアもカレーにリンゴを入れていた。俺もエリスの傍まで歩いていき、リンゴの樹の幹を撫でる。
「それに、人の始まりは一本のリンゴの実を食べたことから始まるって相場が決まっているもの」
「そうなのか?」
「そうよ。そんなことも知らないの?」
「ああ、知らなかった。俺には知らないことばかりだ……でも、これから知っていこうと思う。君と、一緒の時を過ごして」
エリスが若いままで俺ばかりが年を食うなんてまっぴらだ。それに、夢の世界の人達が目覚めるより先に俺が死んでしまったら、またエリスは一人になってしまう。大丈夫だ。エリスは俺よりずっと年上だと言ったけど、俺だってあの夢の世界で何年も、何年も年を取らなかった経験がある。
「それって……」
「生きていこう。今はまだ何もない世界かもしれない。でも、これが世界の本当の姿なんだ。現実を受け止めて、前に進み続ければきっと……」
きっと、俺達が夢にみた世界のように……
「そうね……きっと……」
俺達は生きていく。この世界で
――――生きていく




