2011年10月12日
※この話は私の日記ではありません。フィクションです。フィクションですってば。
10月12日(水)
パソコンのメーラーを数日ぶりに開いた。どうせいつもメールマガジンや迷惑メールくらいしか送られてこないので、数日に一度しか開かないのである。すると、珍しくメールマガジンでも迷惑メールでもないメールが届いていた。件名は「件の小説」である。「件」は「くだん」と読むのだろう、きっと。こういう読みづらい読み方の感じを得意げに使うと印象を悪くしたりするのではないか、と思いながら恐る恐る開いてみると、「こんにちは、猿です」から文面が始まっていて「小説を書いてみました」と続いていて、それから長い長い小説が書かれていた。この「猿」というのは先日読んだ文芸雑誌の「猿」なのか、それとも先日道端で話してそれから動物園に帰ったサルのことなのか、どっちなのか迷ったが、小説家の「猿」だったら私のメールアドレスなど知っているはずがないし、動物園のサルだとしても私のメールアドレスなど知っているわけがない。つまりこのメールは……誰からのメールなんだ? 分からなかったが、とりあえず小説は途中まで読んだ。とても長い、本にすれば一冊分になりそうなほど長い小説だった。しかもサルのくせに人間の男と女が恋に落ちる小説だった。私はこれを読んでどうすればいいのか。感想でも返信すればいいのだろうか。とりあえず数日かけて読んで、それから考えることにした。結論の保留である。こんなことを繰り返していると、人生を駄目にする。
編集者が私の部屋を尋ねてきた。私がメールに書かれた小説を読んでいる間に、母と編集者が打ち合わせを始めていたらしい。編集者は私の肩越しに私の(榎本なごみからプレゼントされた)パソコンの画面を覗き込んだ。モニターにはいかがわしい画像は表示されていないので恥をかかずに済んだ。編集者はメールの文字を見ると、「おお、猿先生の新作じゃないか」と言った。メールの画面はかなり下の方までスクロールしてあったので、文頭の「猿です」の文字は表示されていないのに、どうしてそんなことが分かるのか。「文章には人間が出るものなんだ。まあ、猿先生は表現が独特だから、ということもある。僕は猿先生の担当になりたくて編集者になったくらいだから、少し文章を見れば、それが猿先生の書いた文章だということが分かるんだ」と、編集者は雄弁に、しかも友好的に、私に話をしてくれた。ところで今日は私に何もしないのか、と尋ねてみると、「うん、そろそろ君のことを殺そうと思っているんだ。今はその証拠隠滅の方法を考えている最中でね、まだ思いつかないから今日は何もしないよ」と、ひどいことを言った。こんな物騒なことを平然と口にできるのは、世間知らずな中学生か編集者くらいのものだろう。「そんなことはないさ、僕は他ではこんなことは言わない。相手が君だから言うんだ」まるで私のことが好きみたいなことを編集者は言った。「君のことは、気にかけているよ。いや、気に障っている、と言った方が正確かもしれないね」そうか。私の予測できる死因に、狂い死に、急性アルコール中毒に加え、編集者による殺害が加わった。
あの編集者は悪人である。私を殺そうとしている、と、晩餐の席で母に報告してみた。「ええ、分かってるわよ、あの人がいい人じゃないことくらい。でも、私の本を作ってくれるんだから、付き合っていくしかないでしょ。私は売れっ子じゃないんだから、仕事相手を選べないのよ」母の仕事が順調ではないことを、私は今日初めて知った。