2011年11月22日
※この作品はフィクションであり、実在する人物・団体等とは関係ありませんです。あ、100日目だ。
11月22日(火)
珍しく夢を見ない夜だった。深夜から昼にかけて、私が寝ていた時間帯を「夜」と称するのであれば、であるが。そんな言葉の定義を考えてしまうほど私の生活には変化がなく、やることがなく……いや、「やること」は自分で探さなければならないものだ。そして少し探せば見つかるものだ。
なので私は文章の続きの展開を考えることにした。これが「やること」なのか、という疑問は頭に残っている。しかし今私が「やること」と言えば、これか職探しくらいしかない。そして今日はハローワークの狂人窓口の私の担当者の中年女性が出勤しない日である。なので文章を書くことにしたのだ。家の中では相変わらず榎本なごみがうろついている。榎本なごみには「やること」はないのだろうか。尋ねてみたかったが、それより文章を書くことを優先させた。続きの展開を考えてみた。逃亡中の男か女の死でしか話の動く気配がない。そんな発想しか浮かばない自分の脳味噌が嫌になる。もっと柔軟な脳みその持ち主と交換できないものだろうか。きっとできないだろう。柔軟な脳みその持ち主は柔軟な考え方を持っているから、私なんかの脳みそと交換しても損しかしないことくらい分かっているだろうから。それでも一応、男が女に公園の水道で貯めておいた水をほとんど飲ませて死にかける、というところまで、文章を書きすすめた。男を死なせるべきか。悩みどころだ。
ついでに親が死んだときのことも考えてみた。今、親が死んだら。遺産はいくら残るだろう。遺産でいつまで暮らせるだろう。当たり前だが私の親は自分が死んだとき子供である私たちに遺産がいくら渡ることになるのか明かしていない。でもきっと非常に面倒くさい手続きを取ることになるだろう。親には長生きしてほしい。いや、狂った子供を抱えているのだから、いっそ死んだ方が楽、とか考えているかもしれない。……そんなわけがない。もしそうだとしたら、親は自殺しているだろう。しかし親は生きていて、私に一日一食を与え続けている。親は私をどうしたいのだろう。
画期的な視界の改革法を編み出した。榎本なごみが目の前にいるときに目を閉じて深呼吸し、ここには誰もいない、と信じ込んでから目を開けると、榎本なごみの姿が消えるのだ。逆に、目を閉じて、榎本なごみはここにいる、と思って目を開けると榎本なごみはここにいる。私の目は新たなステージへと登ったのだ。狂いの新たなステージへ。「どうしたんですか」と榎本なごみに言われて、私は目を覚ました。「寝てるんだか寝てないんだか分からない瞼の動きをしていたので。起こしてしまったのでしたらごめんなさい」気が付けば私は晩餐を終えて自室で気絶していた。今日見たものや考えたことは、どこまでが夢だったのだろう。これは狂いが一段階進んだ証拠かもしれない。