願いの鈴
空気に呑まれる、とはこの事を言うのだろう。
この場に漂う爽やかでありながらほんのりと甘さを含む香の薫りがそうさせているのかもしれないが、それを抜きにしても、目の前の男はひどく浮世離れした存在だった。艷やかに伸びる髪は女性的だが、質の良い衣服から覗く手足は成人した男のそれだ。印象的な瞳の色と整った顔立ちは華やかで、ゆったりした白のシャツと黒のスラックスに大輪の花をあしらった赤い着物を羽織るという大胆な着こなしをものにしている。先ほどの色気を帯びた声といい、『派手』という言葉がよく似合う男だ。
一方、後ろに控えている男はその印象とは真逆で、とても落ち着いた見た目をしている。短い黒髪は椅子に座る派手な男よりさらに深い色合いで、冷えた氷のような色の瞳がよく見える。肌は褐色に近く、濃淡の異なるグレーのシャツとベストを合わせた姿は影のようで、いかにも用心棒といった風貌だ。
「あの……。聞かせて、とは?」
やっとのことで絞り出した言葉尻がわずかに震えたことに羞恥した司だったが、さして気にも留めていなさそうな様子にほっとする。だがそれも束の間、伺うように見た二人の表情に、司は今度こそ困惑した表情を浮かべた。
「あの……?」
「お前じゃないよ」
羽織の男がすっと司を、正確には司の後ろを指差す。
「用があるのはその後ろさ」
その言葉に倣い振り返るも、当たり前ながら司の他には誰もいない。
……これは本格的にヤバい店に入ってしまった。
司はすんと澄ました顔の裏で盛大に焦った。どうにかして逃げる道を模索するも、わけのわからぬまま連れてこられた場所なので具体的な脱出ルートは思い浮かばない。どくどくと次第に大きくなる心臓の音を抱えていると、じゃらりという音とともに司にとっての救世主が現れた。
「失礼いたします。お茶をお持ちしました」
カフェで会った黒髪の店員がトレーに乗せた二つのカップをテーブルへ配置していく。流れるように給仕を終えると、両方のカップから湯気とともに花のような甘い香りが沸き立った。店員は羽織の男へ一礼すると、司の方へ向き直る。
「お客様は別室へどうぞ。ただ、そちらの鈴はお預かりいたします」
「鈴、ですか?」
「ご安心を。丁重にお預かりし、用事が済んだ頃にお返しいたします」
不安そうな声色から察したのだろう、宥めるように店員が微笑む。司は戸惑い、パーカーのポケットへ手を伸ばして中の鈴へそっと触れた。司が今持っている鈴は、この一つだけだからだ。
幼い頃からお守りとして肌身離さず持っているその鈴は、今はスマートフォンのカバーに括り付けている。自分にとって縁深いそれを、見ず知らずの、しかも、いかにも怪しい人間の前に差し出して良いものか。警戒心から握りしめた手の中で鈴がしゃなりと転がる。その澄んだ音色に予感のようなものを感じ、司はスマートフォンごとポケットから取り出した。
少し色褪せた紫の組紐で繋がれた鈴は、白地に金が混ざった青色の塗料で鱗のような模様が描かれている。揺れるたび照明に反射してきらりと光を放つそれは見慣れた姿をしていたが、どうしてか、今は外した方が良いように思えてくる。
「絶対に、今日、俺が帰るまでに返してくれますか」
羽織の男は司の後ろをじっと見つめ、瞳を閉じた。
「約束しよう」
スマートフォンのカバーから丁寧に紐を外し、黒髪の店員が差し出すガラス細工のアクセサリー入れに鈴を入れる。手元から離れていく様子を目で追いながら、司は再度、釘を刺した。
「絶対に返してくださいね」
店員に案内されるまま、司は部屋の奥にある珠暖簾の奥に消えていく。
「面白みのない顔をして、意外と疑り深い男だな。さて、」
羽織の男が見上げた先。先ほどまで司が立っていた場所には、戦装束の女が一人、立っていた。美しい銀の髪を紫の髪紐で一つに括り、青色が波紋のごとく揺れる瞳は高潔な様が見てとれる。纏った白銀の鎧には、鈴と同じ模様があしらわれていた。
「貴殿がよろずやの店主か」
「いかにも」
「さる御仁にこちらを伺った。どうか我が願い、聞き届けていただきたい」
その姿に相応しい凛々しい声に、羽織の男はにこりと頷く。差し出した手に答えソファーに腰掛けた女は、緊張した面持ちで口を開いた。
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「お待たせいたしました。アップルパイとアールグレイでございます」
何事もなかったかのようにテーブルへ置かれる、先ほど注文したスイーツ。つやつやと照る肉厚なりんごと、とろりとした表面のアイスクリームはとても魅力的だが、それよりも気になることがありすぎて食事どころではない。
司が連れてこられたのは、先ほどの部屋からそう離れていない部屋だった。とはいえ、珠暖簾で隔たれた廊下からさらに引き戸を一枚挟んでいるので、当然あちらの部屋のやりとりは見ることも聞くこともできない。内装は似通ったレトロな装いだが、気圧されるような雰囲気はなく、洒落た昔ながらの喫茶店のようで居心地は何倍も良い。
とはいえ、司にとっては依然として訳のわからない空間であることに変わりはなかった。
「あの、店員さん。そろそろ教えていただけますか。此処がどういうところなのか」
「ええ、もちろんです。ですが、そのお話は食べながらでいかがでしょう。パティシエが丹精込めて焼き上げた一品ですので、ぜひ温かいうちに」
ポットからティーカップへと弧を描く美しい琥珀色とふくよかな香りに後押しされ、司は訝しみつつもナイフとフォークへ手を伸ばす。さくりと小気味よい音を立てたパイ生地は多少散らばりつつも、りんごと分離することなく口へ運ばれた。香ばしい生地と、じゅわりと広がる果実の甘み。とろけるようでいてしっかりとした歯触りのりんごがもたらす満足感に、緊張でこわばっていた頬が緩むのを感じる。甘い後味の残る口に含むアールグレイの華やかさとほんの少しのスパイシーな風味が余韻を残しつつ口の中をリセットし、いくらでも食べられそうだ。
「すごく美味しいです」
「ありがとうございます。パティシエも喜びます」
柔らかな空気の中、食事を続ける司の様子をしばらく見ていた店員は、妨げにならない頃合いを見計らって口を開いた。
「先ほどのお話ですが、この店は我が主である星河様が営んでいる『よろずや』でございます。ただびとには言えぬ悩みや、望みを抱えているお客様からの依頼を受け、見合った報酬を対価に叶えて差し上げる。それがこの店の生業です」
「ただびとには、言えない……」
司の脳裏に、黒づくめや派手なスーツの強面が浮かぶ。
「誓って申し上げますが、お考えになっているような法に触れる後ろ暗い内容はお受けしておりませんので、ご安心を」
「すいません、顔に出ちゃってましたか」
「いいえ、お客様は大変落ち着いた顔をなさっておいでですよ。このお話をするとよく疑われますので、慣れたものなのです」
困ったように微笑む店員はいかにも自然体で、とても騙したり、危害を加えようとしているようには見えない。しっかりものの友人が言う、そういう人が一番怪しいのだという声が聞こえた気がした。
「我々が対象としているものは、例えば怪奇現象だったり日常のほんの少しの違和感。人ならざるモノ、といえば分かりやすいでしょうか。そういったものに悩まされている方や、同業者、あやかしものから神に至るまで、様々な方からご依頼をいただきます。ただし、お受けするのは店主が気に入った依頼のみ」
微笑んだ口元へ指を立てる、その姿がとても異質に見える。先ほどまで優雅なカフェの店員だったひとりの男が、『普通』ではないことを告げていた。
「この店のお客様となるのは、店主である我が主が気に入った依頼内容をご提示くださる方だけ。その点では、まだ貴方の鈴も、このよろずやのお客様となるかは決まっていないことになりますね」
「そういえば、さっきの人が俺は客じゃないって」
「お客様がカフェでご覧になったあの貼り紙は、この店に相応しき悩みや願いを持つものにしか見えない呪いがかかっているのです。願いを持っていたのは鈴の御仁でしたが、加護を持つ貴方にも力が影響して見えたのでしょう」
「鈴の御仁、というのは」
先ほどのやりとりで、なんとなく感じていたものがある。推測というにはあまりにも確信めいたものだが、それでもにわかには信じがたく、どうしても第三者からの肯定が欲しかった。
「貴方がお持ちの鈴には、貴方を守護する存在が宿っているのですよ。その方が、この店に相応しき願いをお持ちなのです」
いつの間にか手が止まっていたアップルパイは、あと二口ほど残っている。溶けたアイスクリームがじわじわと生地を侵食していく様は、今の司の心情を表しているようだ。浪漫を感じ憧れていた人ならざるものの世界。それをこのような形で知り、またこんな近くにそんな存在がいたなんて。夢と現実が交わり溶けていく、喜びとほんの少しの恐怖が同居する奇妙な感覚だ。けれど決して不快ではなく、これから起こるかもしれない、まだ見ぬ先に気が逸る。
「あの、」
「お客様、主人が貴方をお呼びです。お部屋までご案内いたしますので、どうか心ゆくまでアップルパイをお楽しみください」
遮るように告げ、大きな掌で出入り口を指し示す。紫がかった黒の瞳の色が、心なしか先ほどよりも強く色付いて見えた。
「店員さんのお名前って、聞いてもいいですか?」
「濡羽と申します」
カフェで会った時と同じように優雅に微笑んでいる彼だが、その視線には見定めるような気配を感じる。
礼とあわせて司も自らの名前を告げ、これから対峙する異質な空間への覚悟とともに、皿の上のパイと紅茶を口一杯に頬張った。
「お邪魔します」
濡羽に連れられ再度訪れた部屋は、やはり独特の香りと雰囲気に満ちていた。羽織の男と短髪の男は先ほどの場所から動いておらず、司の鈴もテーブルに置かれたアクセサリー入れに変わらぬ姿で置かれている。促されるまま男の対岸にあるソファーへ腰掛けると、短髪の男がアクセサリー入れを司の前まで運び、無言のまま差し出した。器から取り上げた手元でしゃらしゃらと動きにあわせて聞こえる音色が司の強張った心をゆっくりとほぐし、スマートフォンに括り直せば、あるべきものが戻った安堵感が胸中を満たしていく。
タイミングよく濡羽が訪れ、テーブルに残っていたカップと新しいものを取り換えた。下げられたカップの中身が少し減っていた事が、別室で聞いた夢のような話が現実なのだと、司に確信を与えていく。給仕にあわせて立ち昇る鼻腔をくすぐる花の香りが、ここを訪れたときと同じ茶であると告げていた。
「よろしいかな」
作業を終えて下がる濡羽にあわせ、羽織の男が優雅に微笑んだ。
「此処のことは濡羽から聞いたろう。俺は星河、この店の店主だ。お前の鈴から依頼を引き受けた。願いが届くまでお前とも顔を合わせることになる。短い間だがよろしく頼むよ、お客人」
「はあ、あの、よろしくお願いします」
反応の弱い司へ助け舟を出したのは、それまで一言も言葉を発しなかった短髪の男だった。
「主。お客人、戸惑ってる。説明足りない」
「あれま。いいかい、その鈴に宿るお前を守護する御仁の願いとは、迫っている危機からお前を守り抜くこと。その危機は最早避けようがないモノと化してしまっているが、その根源が探れないらしい。根源を掴むこと、守護のサポートを依頼されている。手を貸す以上、俺もお前とある程度行動を共にする必要がある。俺にかかればそう長く時間はとらせんが、まあよろしく頼むってところかな。何か質問は?」
「えっと、俺の鈴がこの店のお客さんになったってことですよね。対価が必要だって聞きましたが、おいくらくらいでしょうか。学生なので金額によってはすぐ用意できないといいますか……相場ってどのくらいなんでしょう」
受理されている以上、支払いは確定しているだろう。自分を守ってくれるものの為ならきちんと支払いたいが、多少小遣いを貯めているとはいえ、司はバイトもしていない大学生だ。数千円とて大金なのに、この手の店が数千円で済むはずもない。
「お前の依頼でもないのに、なぜお前が対価を気にする?」
星河が浮かべているのは、心底分からないといったよな、呆れさえ見える表情だった。
「支払うのはその鈴であってお前じゃない。そんなに怯えなくてもいい」
「でも、鈴ってお金持ってないんじゃ」
「対価が金銭とは限らないのさ。もうその鈴からは対価をもらってるからね。あとは俺が腕を見せるだけ」
「そうですか……」
子供のように腕を回す彼の姿に、小遣いの前借りで済むだろうかとひやひやしていた司はほっと胸を撫で下ろす。結局は自分を守るということなら何もしないのは少し気が引けるが、どうしようもない金額で途方に暮れる未来を回避できたのは素直に嬉しいところだ。
「お前、名前は?」
「瑞枝司です」
「じゃ司、お前が通ってる学校は?」
「翔正大学ですけど」
「ふーん。次いつ行く?」
「えっと、……明後日ですね。え、なんで?」
「俺も着いてくから。正門前で待ち合わせな」
「え?」
いくつもの疑問と、何を気にすることもなく振る舞っている目の前の男に、さしもの司も思考が止まる。動揺のままに泳いだ視線が隣の短髪の男とかち合うと、彼は何かを察したようにひとつ頷いた。
「鉄という。よろしく」
「あ、よろしくお願いします……」
ぺこりと頭を下げ、なぜか無言で頷きあう鉄と司。互いに真顔のままであるが、司の胸中は彼らに対する突っ込みの嵐だった。
着いていく、とは?
なぜ大学へ?
そもそも、部外者は立ち入り禁止では?
この男の行動を説明してくれる人はいないのか?
司の心の叫びと動揺は、誰に届くことなく奇妙な店の中に消えていった。
続




