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コロニーの空でおはよう!  作者: ぺろぺろぬっこ
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星は掴めない

ゼロGの“型”を胸に、今度は丸い空の“見え方”を覚えます。

掴めないなら、見えるように整えていこう。

 ホームルームのチャイムが消えるのを待って、私は筆箱をそっと閉じた。手がまだ少しだけ震えているのは、ゼロG体育の余韻が体のどこかに残っているからだと思う。黒板の隅に書かれた「一呼吸」のチョーク文字が粉っぽく光って、窓の外には人工の午後の色が濃くなり始めていた。


 端末が震える。《ひかり救出隊》の新着。

 浅見明日香:〈展望区、出動!〉

 桜庭ほのか:〈まずは一呼吸。それから〉

 星野ひかり:〈星、見たい〉


 送ってから自分で少し笑ってしまう。短い文のほうが、胸の高鳴りと速度が合う。カバンの口を閉じて立ち上がると、明日香が椅子を肩にかけるみたいな勢いで近づいてきた。


「よし、出発。目的地は中央軸・展望区! 任務名『星を見る』!」

「任務名がそのまんま」

「こういうのは直球がいちばん刺さる」

「私は『帰宅時間厳守』がサブ任務です」ほのかが穏やかに付け加える。「ひかりさん、お母様から“明るいうちに帰る”ってメッセが来てませんか?」

 私はポケットの端末をのぞいて、苦笑いした。

「来てる。“星は夜でも、女子高生は昼のうちに”って」

「名言」明日香が真顔でうなずく。「よし、薄暮帯ヒットでいこう。反射低減モード、時間合えば星けっこう出るから」


 三人で教室を出る。廊下のざわめきに混ざって、部活動のポスターが新しく増えていた。《空間把握研究会》《軌道体操部》《園芸ボランティア》。ほのかが一瞬だけ足を止め、園芸のチラシをまっすぐに直してから歩き出す。


 昇降口を抜けると、連絡回廊のガラスが床に四角い光の帯を並べていた。動く歩道に乗る前に、ほのかが小さく指を立てる。「一呼吸」。私も真似して、鼻から吸って口から吐く。

(床に置いてかれない)

 心の中で唱えて、タイミングを合わせて足を乗せる。体が半歩だけ先へ運ばれる感覚が、今日はすこし心地よい。

「よし」

「今日のひかりは安定してる」明日香が隣のレーンから覗き込む。「床の気持ちになれてる」

「床の気持ちって何」

「『君を置いていきたいけど置いていかない』という葛藤」

「やさしい床だ……」


 回廊の角で風がふっと強くなる。空調の流れが集まる所。私は自然にスカートの裾を押さえ、明日香が「学習効果」と親指を立て、ほのかが「今日の回廊風力、表示がオレンジでした」と事実を添える。こんなふうに三人で歩くリズムが、もう当たり前みたいになってきている。


 駅前広場に出ると、人の流れがひとつにまとまって列車の方へ吸い込まれていく。ガラス屋根の向こうに、逆さの街の窓明かりがちらちらと揺れて見えた。広場の片隅で、清掃ドローンの列がブラシを回している。白い点が規則正しく往復する動きは、見ていると気持ちが落ち着く。


 改札を抜けると、壁のデジタルポスターがちょうど切り替わった。《本日:展望区 反射低減モード 実施》。文字の下に小さく、照度が落ちる時間帯の案内が流れていく。

「今日だ」私は指を差して、声が少し上ずる。

「勝った」明日香がガッツポーズ。

「混みます。場所取りは早めが正解です」ほのかはもうルート検索をしている。「中央軸直通のスカイリフト、2番乗り場が最短」


 ホームに滑り込んできた環状列車は、側面に安全週間のポスターを貼っている。《耳がふっとしたら唾をごくん》――東雲先生の声が、脳の片隅で再生された。車内に乗り込んで、私は窓側の吊り輪につかまる。明日香が反対側にぶら下がって足で小刻みに床を蹴り、ほのかがそれを「やめましょう」と目で制して笑う。


 列車が動き始めた。窓の外の街が、ゆるく弧を描いて流れる。出入口の上の路線図に、中央軸直通の表示が光る。向かいの席に座った小さな子どもが母親の袖を引っ張って、「空に人がいる」と指をさした。母親は微笑んで、「空じゃなくて、反対側の床なの」と答える。私は心の中でうんうんと頷く。ここでは、その説明を何度も自分に言い聞かせるから。


 端末が震えた。今度は家族チャット。

 母:〈帰りは明るいうちにね。気をつけて〉

 父:〈星は逃げない! しかし娘は帰る!〉

 私は〈了解〉とだけ返して、画面を閉じた。目線をあげると、明日香がにやにやしている。

「『星は逃げない』きたな」

「うちの父、語彙がだいたい走りがち」

「嫌いじゃない」

「私は母の“別問題です”の方が好きです」ほのかがくすっと笑う。


 二駅で列車を降り、スカイリフト乗り場へ向かう。案内サインの矢印が床に落ちる影と重なって、流れが自然に一方向になる。ゲート前で一旦呼吸を揃えるのは、もう儀式みたいなものだ。

「一呼吸」

 三人で同時に小さく肩を上下させる。ゲートが開き、カプセル状のリフトへ。座席に腰を下ろすと、背中の方から冷たい金属の感触が伝わってくる。扉が閉まり、微かな振動とともにリフトが動き出した。


 最初は何も変わらない。ただ、靴底の重さがすこしずつ薄くなる。膝の裏がくすぐったく、耳の奥がぽん、と跳ねる。

(軽い)

 怖くはない。けれど、どこかで「落ちない?」という古い感覚が顔を出す度に、理屈がなだめてくれる。「落ちない、ここは回ってる」。ほのかが私を見て、目だけで「大丈夫」と言う。明日香は隣で腕をぐるぐる回して、ひとりでウォームアップを続けている。


 リフトが停止し、扉が開いた。中央軸の通路は、音が少ない。床と壁の境界に等間隔で手すりが走り、ところどころにネットが張られている。遠くで空調の風が低く唸る音がして、匂いは少し金属の冷たさを帯びていた。


 展望区の手前で、壁の案内パネルがもう一度《反射低減モード 実施中》を告げる。小さなイラストが、ガラスを覗く人影の周囲に×印の照明を描いていた。

「“自分側の光を減らしましょう”」ほのかが読み上げる。「ふむ……これ、実践編ですね」

「よーし、理屈と気合の両輪で勝つ」

「気合は補助輪です」

「ほのかーー!」


 通路の先で、視界がふいに開ける。展望区。大きく弧を描くガラス面が、ゆるい曲率で私たちを包む。ひとつの面が空へ向かって伸び、その先に、丸い空の反対側が広がっている――はずだ。けれど今はまだ、室内の照明と人の動きが強く、ガラスはほとんど鏡みたいにこちらを返してくる。


 人の流れは思ったより多かった。家族連れ、学生のグループ、年配の夫婦。反射低減モードの開始時刻が近いせいで、手すり沿いの良い場所はもう埋まりつつある。ガラスの際に並ぶ床の暗い帯には、ちらほら空きがあるけれど、角度がうまくないと映り込みが消えない、と注意書きが添えてあった。


 私は自然に息を吸い、吐いた。胸の中で、さっきと同じ言葉が浮かんでくる。

(星、見たい)


「とりあえず、あの暗い帯を目指そう。覗きやすい角、あるはず」明日香が先頭に立つ。人の波の隙間を探すのがうまい。

「私は近くの案内パネルの位置と照度を確認しておきます」ほのかはもう地図を開いている。

「私は――」

「ひかりは私と同じ列な。床に置いていかれないのも任務だから」

「そこ、毎回付いてくる」

「任務に継続性があるのは良いこと」


 手すりの近くまで出ると、ガラスに自分たちの姿がくっきり映った。私が息をするたび、曇りが白く広がって、すぐに消える。思わず手の甲で拭くと、ほのかがハンカチを差し出してきた。

「曇りは拭きます。反射は……減らします。たぶん」

「たぶん……!」

「理屈は分かるんです。あとは実地」


 ガラスの端、足元の暗帯に三人で並ぶ。背後から人々のざわめきが波のように寄せては返す。頭上で照明の列が一段階だけ落ち、視界の明るさがわずかに下がった。反射低減モードの合図だ。空気の色が少し冷たくなる。私は、胸の鼓動が速度を変えるのを感じた。


「ひかり」

「ん?」

 明日香が手をひらひらと振る。「いったん、端末の明るさ最低に。自分の光から消してく」

「了解」

 私は設定を開いて輝度を一番下まで下げ、ポケットの中にしまう。ほのかが小声で続ける。

「私、係員さんに訊いてきます。落とせる室内照明がどれか。合法の範囲で」

「お願い」

 ほのかが軽やかに人の間をすり抜けていく。背筋の伸び方が頼もしい。私はガラスにもう一度顔を寄せかけて、ぐっと堪えた。曇らせない。息は横に逃がす。


「星、見えるかな」思わず漏れた独り言に、明日香が肩を並べる。

「見える。見えるようにする」

 その言い方が好きだ、と思った。見える・見えないじゃなくて、見えるようにする。ゼロG体育のときに、掴めないなら面で受ける、と覚えたのと同じだ。世界に合わせてもらうんじゃなくて、世界に合わせにいく。


 頭上の照明がもう一段だけ落ちた。反射低減モードが本格的に始まる。背後で小さく「おお」という声が上がる。私はガラスの端に手をそえて、薄い冷たさを掌に受け取った。向こう側に、点がひとつだけ、いるような気がした。


「戻りました。あそこの案内パネルは市民モードでスリープ可能だそうです」ほのかが息を弾ませずに言う。「落としてきますね」

「頼む!」明日香がすぐ応じる。

 ほのかがタッチパネルに触れると、近くの案内板がふっと暗くなった。ガラス面から室内の色が一枚はがれたみたいに、私たちの影が薄くなる。


「……すごい」

「まだいける。床の暗帯、もう半歩前。角度、斜めに」

「角度?」

「ガラスに対してまっすぐ覗くと、自分の光が戻ってくる。斜めにすると、戻りが外れる」

「ゼロGの“面で受ける”の逆だ」

「逆かもしれないし、同じかもしれない。言い方の問題」

「どっちでも良さそう……!」


 私たちは半歩だけ前に出た。足の裏が、暗帯の端にかかる。私は肩をすこしすぼめて、ガラスに正対しないよう体の角度を変える。呼吸を横に逃がすのを忘れない。背後で小さな子の声が「見える?」と弾み、母親の声が「もう少し暗くなるよ」と応える。


 空は――丸い。丸いのに、今はまだ、こちらの色の方が強い。私はその境界に目を凝らした。

(星は掴めない。でも)

 頭の中で、言葉の続きが形になりかけて、まだ言葉にならないまま、ガラスの向こうを見つめる。


「準備、整った気がする」明日香が低い声で言う。

「整いました」ほのかが頷く。「まずは一呼吸。それから、見ましょう」


 三人で同時に、胸を小さく上下させる。私たちの影が、ガラスの中で三つ、小さく揺れた。反射はさっきより薄い。向こうはさっきより深い。足元の暗帯から、冷たい空気がしみ出してくるみたいだ。


「行こう」

 明日香の声に、私はうなずいた。まだ星は出てこない。けれど、見える準備はできた。扉の手前に立っているみたいな気持ちで、私はガラスの向こうを見続けた。


――この先で、星が出る。出るようにする。

 そんな確信だけをポケットに入れて、私はそっと、次の一歩を前へ置いた。


 足元の暗い帯に、靴の先だけ触れた。背後で人のざわめきが波みたいに寄せては返して、頭上の照明が一段、また一段と落ちていく。ガラスは大きい鏡のまま――だけど、ほんの少しずつ黒が深くなっているのが分かる。


「まずは一呼吸」

 ほのかの声に合わせて、私たちは同時に息を吸って、吐いた。ガラスの表面が曇らないよう、息は横へ逃がす。さっき教えてもらったばかりの新しい“呼吸の向き”。


「自分の光から消そ」

 明日香が腕時計の画面をスリープにして、端末をポケットの奥にしまい込む。私も同じように輝度を最低にしてから、手の中の熱を感じない場所へ押し込んだ。ほのかは周囲を見回しながら、控えめに手を挙げる。


「近くの案内パネル、係の方に許可をもらってスリープにします。戻ってきますね」

「お願い」

 ほのかの背中が人の間に消える。しばらくして、手前のパネルがふっと暗くなった。ガラス面から私たちの影が、薄いフィルムを一枚はがしたみたいに淡くなっていく。


「おお……効いてる」明日香が小声で感嘆する。

「でも、まだ私たち自身が写ってる」私は自分の輪郭を見つめた。肩が少し上がっている。緊張の形。

 肩を落として、体の角度を斜めにする。正対しない。ゆっくり、ゆっくり。ガラスの向こうに、黒の密度が増す。


 そこへ、背後から小さな「わぁ」という声。振り返ると、幼い子がガラスに駆け寄って、ぺったり両手をつけた。すぐに親御さんが「手を離そうね」と優しく注意して、手形の跡が白く残った。

「拭きます」ほのかがすっとハンカチを出して、端っこから輪を描くみたいに曇りを取っていく。「曇りは取れます。反射は――減らしましょう」

「たぶん、ね」私は笑った。笑いも、少しは緊張を減らす。


 しばらく見つめる。黒の奥で、点がいるような気がする。でも、はっきりしない。瞬きすると消える。まぶたの裏に残像ができて、今見えているのが残像なのか本物なのか、一瞬分からなくなる。


「目、慣らす時間がいります」ほのかが静かに言った。「三十秒、正面は見ないで、横で呼吸」

「任務:三十秒」明日香が手でカウントを作る。「さん、にー、いち……」

「早い早い」

「気持ちの三十秒!」

「それ、五秒……」

 笑いながらも、私は目の力を抜いた。黒を黒として受け取る。無理に“見る”のをやめて、黒の向こうから出てくるのを待つ。


 頭上の照明が、また一段落ちた。背後の人のざわめきが少し静かになる。ガラスに映る私の輪郭が、さらに薄くなる。

(来る)

 そう思った瞬間、じわっと白い点がひとつ、浮いた。ほんの針先みたいな光。心臓が一拍、速くなる。

「……あ」

「見えた?」明日香が小声で寄ってくる。

「たぶん、いま……ひとつ」

「私も見えました」ほのかが頷く。「このあたり――」指で示した途端、ガラスの向こうから別の光がぱっと明るくなった。

 振り返ると、通路の反対側にある広告ボードが、ちょうど映像切り替えのタイミングで全白を挟んだのだ。

「ぬあっ!」明日香が小声で叫ぶ。「いまのタイミング~!」

「広告は、止められません……」ほのかが現実を淡々と述べる。


 星の気配は、一枚幕をかけられたみたいに見えなくなる。私は唇を結んだ。

(掴めない。けど、見えるように、したい)

 あの一瞬で分かった。ここにいる。いるから、環境を整えれば見える。


 周囲の明かりをもう一つ、もう一つと落とせないか、目で探した。頭上のライン照明は係の人の管理でもう少し落ちる予定らしい。足元の“見切り灯”は安全のため残す必要がある。

「人の服の反射もありますね」ほのかがささやく。「白や蛍光色は目立ちます」

 たしかに、前の方で白いパーカーの人が動くたび、ガラスのこちら側の白がわずかに揺れる。私は口を開きかけて、すぐに閉じた。注意するようなことではない。ここはみんなの展望区だ。


「よし、人間遮光作戦だ」明日香がひらめいた顔をする。「私が横に立って、ひかりの視界に入る余計な光を身体で遮る。ほのかはハンカチで小さい“覗き窓”」

「合法で非接触、いい案です」

「やってみよ」

 私がガラスの端に顔を寄せ、ほのかがハンカチで視界の四角を作る。明日香は私の斜め後ろに立って、背後の広告と白いパーカーの人の動線をうまく塞ぐ位置を探す。

「ここだ。ここ、私が立つと反射が減る」

「役に立つ筋肉」

「筋肉は遮光にも効く」


 しばらく、その態勢で見つめた。黒の中の点が、またひとつ浮く。さっきよりもはっきり。もうひとつ。

 胸が、ゆっくり温かくなる。

「……いる」

「いるな」明日香の声も低い。「生きてる点」

「薄暮帯の最後の光です」ほのかが微笑む。「ここから、少しずつ増えます」


 そのとき、背後で小さなフラッシュの音がした。

「フラッシュはご遠慮ください」とアナウンスが流れる。すぐに係の人が丁寧に声をかけ、フラッシュが止む。

 ガラスの向こうの黒が、また少し戻ってくる。私は呼吸を浅く整え、視線を“次の黒”へ移す。点がふくらむのを待つ。


 ……けれど、次の瞬間、別の広告が切り替わって、また全白が差し込んだ。ため息があちこちから重なる。

「広告め……!」明日香が小さく拳を握る。

「広告は悪くありません。仕事です」ほのかの言葉に、我に返る。

「そうだね……ごめん。じゃあ、角度をもっといじろう」

 私は体をさらに斜めにして、正対を避けた。頬をガラスから少し離し、目だけを細める。

「私もハンカチの影を足します」

 ほのかがハンカチの位置を微調整すると、視界の四角がほんの少し暗くなる。明日香も半歩ずれて、私の視界から広告の反射を外す。

 ――すうっ。

 黒が深くなった瞬間、さっきより細かい点が複数、いっぺんに浮いた。

「今、増えた」

「見えた見えた!」明日香が興奮まじりに囁く。

「この角度、保持」ほのかが指で“ここ”を示す。


 息を止めすぎないよう、わずかに吸って、さらにわずかに吐く。点はいる。いるのに、時々、消える。

 黒の奥に、反対側の街の灯りがにじみ、それと星の点が混ざる。どっちが星で、どっちが窓なのか、分からなくなる瞬間がある。

「判別が難しいですね」ほのかがつぶやく。「星は点のまま瞬く。窓は面で揺れる。……たぶん」

「たぶんが好きだよ、ほのか」

「科学はいつも仮説から」

「名言っぽい!」


 そこへ、通路脇の案内パネルが自動で復帰して、また少し明るくなった。タイマーかもしれない。ほのかがすぐ向かって、係の方と短く何か話し、もう一度スリープにして戻ってくる。

「復帰タイマーの設定が短いみたいです。今は手動で延長できました」

「さすが」

「いえ、係の方が親切でした」


 再び暗さが戻る。戻るたびに星が増える。でも、また広告の白が差し込む。波みたいに、見えては隠れ、隠れては見える。その繰り返しに、私は面白さを感じ始めていた。固定された“見え”じゃない。環境と私たちの共同作業だ。


「ねえ、地球の海でもさ」私は小さく言う。「夕方、海面がぎらぎら光って、何も見えないときがあったの。少し角度を変えると、急に中が見えるの。星と海、ちょっと似てる」

「分かる」明日香が頷く。「プールの水面も、正面はまぶしくて、斜めにすると底が見える」

「入射と反射ですね」ほのかが補足する。「角度は裏切りません」

「言い方が強い」


 人波が新しくなって、背後の列が入れ替わる。白い服が増える時間帯だ。ガラス面にこちら側の明るさが戻る。

「はー、厳しい」明日香が肩を回す。「遮光幕が欲しいところ」

「合法だと、ハンカチと体の位置取りくらいですね」

「偏光があれば……」ほのかがぽつりとつぶやく。「でも、持っている人は少ないでしょうし」

 偏光。言葉だけは聞いたことがある。サングラスのレンズとか、カメラのフィルタとか。

「偏光って、反射の光だけ弱めるやつ?」

「ざっくり言うと、そうです」

「ざっくり好き」


 もう一度、覗く。点は、いる。でも、もっと見たい。

 私はガラスの端に額を近づけ――と、寸前で止める。曇らせない。横に吐く。

「ひかり、姿勢いい」明日香が小声で言う。「ゼロGで学んだ形が地上でも効くな」

「“地上”って言うの変だよね、ここ」

「“地上”は気持ちの話」

「便利な言い訳!」


 そのとき、背後から「すみません、少し譲ってください」という声。人の流れが詰まって、私たちの背中にゆっくり圧がかかる。明日香が即座に半歩下がって、通路を開ける。

「どうぞー、こちら空いてます」

 人の波が抜けていく。私は体勢を崩さないように、ハンカチの四角の中で視線を固定した。いない。……いや、いる。

 絶妙に視界の端で点が瞬く。そこへ、通路の端で光る売店の冷蔵ケースが“開く”音。光がじんわり広がる。

「あーっ、ケース……!」明日香の肩が落ちる。

「閉店まであと少しの時間帯ですからね」ほのかがため息をひとつ。「でも、閉まれば暗くなります。待てば、きっと」


 待つ時間。

 三十秒、六十秒、九十秒。

 黒の中に、点が増えたり減ったり。人の流れが薄くなり、冷蔵ケースがぱたんと閉じる音。光が一枚、薄くなる。

「……今だ」

 私たちは同時に息を潜めた。

 じわっ。

 さっきより、細かい点が、まとめて浮く。背後で小さな拍手が起きる。誰かが「見えた」と囁く。

「やった」

「この角度、保存」明日香が冗談とも本気ともつかない声で言い、ほのかが「頭に保存」と応じる。私も心にブックマークを打つ。見え方の手応え、呼吸の速度、頬に当たる冷たさ、全部、今日の“基準”だ。


 ……けれど、また別の広告が全白を挟み、外国語の映像が色鮮やかに流れ出す。

 見えた星が、ふっと消える。

「うーん」三人の声が重なった。

「私、係の方に相談してきます。スリープの延長をもう少し」(ほのか)

「私は人の流れを手で誘導する。『こちら空いてます』って」(明日香)

「私は……角度と呼吸、続ける」

 役割が自然に割れる。さっきのゼロGみたいに、言わなくても分かる配置。私はハンカチの四角をもう一度調整して、ガラスに正対しない姿勢を作った。


 視界の端で、黒がまた深くなる。今度は、誰かが端末の画面をこちらに向けて掲げた瞬間に、また白が差し込む。写真を撮ろうとしたらしい。

「フラッシュ禁止の案内、見える位置にありますか?」と、ほのかの声。係の人が素早く対応して、フラッシュは止んだ。

 戻ってくるほのかの横顔が、少し紅潮している。走っていないのに、責任感の色。


「ありがとう」

「いえ。消せる光から消す――が、今日の教訓になりそうです」

「いい言葉」

「名言はだいたい、地味です」

「地味を讃えたい」


 私たちの影が、ガラスの中でまた薄くなる。点が戻ってくる。

 けれど、私は同時に思った。

(限界がある)

 合法の範囲で、私たち三人の工夫だけでは、ここまで。もっと“術”が欲しい。もっと“段取り”が。


「偏光、やっぱりあったらいいな」ほのかがぽつりと言う。

「持ってる人、いるかな」

「さあ……」

 首をかしげたそのときだった。私たちの斜め横、手すりにもたれた誰かの影が、ちょん、とこちらへ傾いた。

 軽い、けれどよく通る声が、ガラスに沿って滑ってきた。


「――反射、消してあげよっか?」


 私たちは同時に振り向いた。黒の中に、ウィンクがひとつ、きらりと光った。


 手すりにもたれていた女の子が、私たちの視線を受け止めて、片目だけ小さくつむる。黒に近い群青のショートが光を吸って、口元だけがいたずらっぽく上がっている。肩から斜めにかけた細長い工具袋。指先には薄いマググローブ。


「自分たちの光が、星の邪魔してるの。消せる光から消す――それが近道、ね?」

 当たり前みたいに言って、彼女は私たちの足元の“暗い帯”を一歩だけ踏んだ。ブーツの底が小さく「ぺた」と鳴る。


「えっと……」私は言葉を探す。「私たち、いま、角度と、呼吸と、ハンカチで……」

「うん、正解に近い。でも、段取りが足りない」

 彼女はにこっと笑い、ひらりと指を振った。

「私は月城瑠奈。ここ、時々お手伝いしてる。市民モードの範囲なら、もう少しできるよ?」


 明日香がぱちぱちと瞬いた。「お、お手伝い? プロ?」

「プロ見習いの市民。内緒ね?――って言っても合法の範囲」

 ほのかはさっと会釈した。「桜庭ほのかです。よろしくお願いします」

「星野ひかりです。助かる……」

「浅見明日香! 力仕事は任せろ!」

「今日は力任せ禁止ね、浅見ちゃん。手は添えるだけ」

「は、はい!」


 瑠奈は近くの案内パネルに視線を投げ、私たちに顔を戻す。

「役割、分けよっか。――ほのかちゃん、市民モードで案内パネルをスリープ。復帰タイマーが短いときは係の方に延長をお願いしてみて。言い方は“反射低減の観覧に協力します”でいける」

「任せてください」

「明日香ちゃんは人の流れの誘導。『こちら空いてます』『一列ずつ』『フラッシュ無しでお願いします』――声の高さは今より一段低め。通るから」

「低め……了解!」

「ひかりちゃんは、端末の輝度ゼロ、ポケットへ。そのうえで――」

 瑠奈は工具袋から名刺大の薄い板を取り出した。

「偏光シート。ガラス端に軽く当てて、“見える角”を探して。角度は私が合図する」


「偏光って、反射の光だけ弱めるやつ?」

「ざっくり、それ。ざっくり好き?」

「好き」

「じゃ、いける。――対価は藻グミ三分の一で手を打つ」

「交渉はやっ!」明日香が笑う。

「冗談半分本気半分♡」


 段取りが一気に色を持った。

 ほのかはすぐに係の方へ向かい、短く事情を伝えてスリープ延長の許可をもらう。戻ってくると、柔らかい声で周囲の人にも「反射を減らすために少し照明を落とします」と告げ、理解を得ていた。

 明日香は通路の隙間に立ち、低めの声で「こちらどうぞー。足元気をつけて。フラッシュ無しでお願いします」とリズムよく流れを整える。

 私は偏光シートを指先でつまみ、ガラスの端にそっと当てる。瑠奈が私のすぐ横、斜め後ろに回り込んだ。


「ひかりちゃん、シートは寝かせる→起こすでゆっくり。私が『そこ』って言ったら、止めて」

「うん」

「息は横。曇らせない。肩は下げる。姿勢、ゼロGで教わった“形”」

「形……」私は無意識に膝裏の力を抜き、肩の力を落とす。回転する空の下で覚えた“落ち着くフォーム”。

「そう、いい姿勢。――じゃ、いくよ。寝かせて……ちょい起こす。もうちょい。ストップ」


 シートの角度が、ふっと“はまった”感触がした。室内の白が薄皮みたいに剥がれ、ガラス向こうの黒が濃くなる。

「感じるでしょ?」

「……うん」

「今度は顔。ガラスに正対しない。斜めにして、片目で覗く。ハンカチフード作るよ」

 瑠奈はほのかのハンカチを借り、明日香の髪ゴムでガラス端に即席の影を作った。四角い覗き窓。

「私、フードの縁を持ちます」ほのかがすっと指を添える。「固定します」

「助かる。――明日香ちゃん、白い服の人が来たら、ひかりちゃんの斜め前に遮光で入って」

「任せろ、筋肉は影も作る!」


 頭上の照明が一段落ち、ほのかがスリープした案内パネルが暗さを保つ。通路の人波は明日香の誘導で均された。

 環境が、私たちに寄ってくる――そんな感覚。私は息をほんの少し止めて、偏光シートの角度をミリ単位で動かした。


「ちょい、戻す。……そこ」

 瑠奈の指が、空中で止まる。

「よし、基準角いただき。――ひかりちゃん、そのまま保持。目は遠く。今見えてる“白い自分”じゃなく、黒の奥。三十秒、待つ」


 三十秒。私の中の五秒が、十回。

 ほのかの手はフードの縁で微動だにしない。明日香の低い声が人の流れを整えて、フラッシュの注意が柔らかく通る。瑠奈は私の横で、呼吸のテンポだけを合わせている。同じ高さ、同じ斜め。

 ――じわ。

 黒が、ほんの少し深くなった。けれど、まだ“出た”とは言えない。出る予感。来る気配。


「次、床。半歩だけ暗帯へ。『半歩』ね。欲張らない」

 瑠奈の声は、甘いけれど命令形だ。私は足先をそっと前に置く。靴の底が「ぺた」と鳴って、ハンカチの四角の中に床の反射が少し減った。

「いい。角度はそのまま。――今の自分の輪郭、見える?」

「……見える。少し、薄くなってる」

「それが正解に寄ってるサイン。『見えた』って叫ばないのも正解。波が崩れるから」

「叫ばない……」

「心でガッツポーズしよ?」


 私は心の中で、にぎりこぶしを小さく上げた。

(見えるようにする)

 さっき自分で言った言葉が、胸の内側で形を持つ。


「――広告、全白来る」

 瑠奈が斜め後ろで、ほぼ無音のように呟いた。次の瞬間、通路の反対側が予告通り白く光る。

「斜め、キープ。目は閉じない。まばたきはゆっくり」

 白が過ぎ、黒が戻る。戻ってきた黒は、さっきより濃い。

「うん、良い戻り。じゃ、ハンカチ、縁をもう二センチ内へ。――ほのかちゃん、ぴったり」

「了解です」

 ほのかの手が二センチ、確かに二センチ、動く。覗き窓はさらに影を増やし、室内の名残の白が薄くなる。


 私は偏光シートを少しだけ寝かせ、瑠奈の「そこ」で止める。

「……息」

「――横」

 私と瑠奈の声が重なる。ふたりとも笑って、すぐに真面目に戻る。

 背後で小さな靴音。白いパーカーの子が私のすぐ後ろに来る気配。

「明日香ちゃん」

「入る!」

 明日香がひょいっと私の斜め前に壁になる。白が四角の外側に押しやられる。

「ナイス遮光」

「筋肉、仕事した」


 しばらくの静寂。

 反射は減り、呼吸は静かに、身じろぎひとつしない小さな空間。

 私は気づく。いま、私たちはゼロGのときと同じことをしている。形を作り、恐怖ではなく手順で心を落ち着ける。合言葉は違うけど、やっていることは同じだ。


「カウントするね」瑠奈が囁く。「五、四、三――」

 私は唇の内側を軽く噛んで、偏光シートの角度をミリだけ整える。

「二――一――」

 瑠奈の指が、空中でそっと下りる。

「――基準完成。次で出る」


 心臓が、ゆっくり跳ねた。

 ほのかの指先は揺れない。明日香の低い声が、遠くでまた「フラッシュなしで」と笑いを含んで通る。

 瑠奈が、ほんの少しだけ体を寄せる。

「ひかりちゃん、次の黒を見る。ここでも、ここでもない――あっち」

 視線が、瑠奈の言葉に連れて行かれる。四角の先、黒のその先。

「いいよ。――じゃ、合図で」


 私は頷いた。息は横。肩は下げたまま。

 その瞬間、通路の上で売店のケースが閉まる音が、ぱたん、と遠くに落ちた。

「いま」


 瑠奈の声が、針の先みたいに鋭くて、やさしい。

 私は四角の中の黒へ目を細め――


瑠奈の声が合図になって、私は四角の暗い覗き窓の向こうへ視線を流し込んだ。偏光シートは“基準角”で固定、肩は下げて、息は横へ。まばたきはゆっくり――


 じわっ。


 黒の奥で、針の先がひとつ、点った。ほんとうに小さい。いきなり明るい星じゃない。けれど、私の中で何かがほどけるように、胸の鼓動が一拍だけ跳ねて、それから静かに落ち着いた。


「……見えた」

 声にならない声が漏れる。四角の中の黒は、さっきより深い。点はひとつ、そしてもうひとつ。わずかに瞬くたび、こちら側の空気が少しだけ冷たくなった気がした。


「カウントしないで、味わって」瑠奈が囁く。「目は奥。点を追いかけず、来るのを受け取る」

「受け取る……」

「うん。掴めないけど、見えるようにはできる。それが今」


 ほのかが四角の縁を持つ指にほんのわずか力を足す。「固定、いいですか」

「いい。完璧」

 明日香の低い誘導が背後で流れる。「こちら空いてます、足元お気をつけて。フラッシュ無しでお願いしまーす」

 通路の明るさが一定に保たれ、人の流れが整う。そのたび、黒の中の点が増える。こしょうをひとつまみ撫でつけたみたいに、ばらりと細かい光が散り、それぞれが独立して瞬く。


「おおお……!」明日香が、誘導の合間に四角を覗いて息を呑む。「生きてる点だこれ」

「星は生きています」ほのかが小さく笑う。「遠いところから、ずっと走ってきた光です」

「文章が詩集」


 私は四角の奥を見る。黒の薄皮が一枚、また一枚とはがれていくように、点は密度を増していく。反対側の街の灯りも見える。窓の面の揺れと、星の点のままの瞬き。見分けるコツが、体に入っていく。


「ひかりちゃん、次の壁へ目線を送って」瑠奈が続ける。「いま見えた三つのさらに向こう。顔はそのまま、視線だけ遠く」

「……こう?」

「そう。いま、増える」

 言葉の直後、本当に増えた。三つが五つに、五つが七つに。ふいに、細い斜めの線が結べるような気がした。

「三角……?」

「見えます。小さな三角形」ほのかが指先で空中に線を描く。「ここから、こう」

「分かる。分かるぞ。うわ、気持ちいいこれ」明日香が素直に笑う。


 四角の中の暗さが保たれているのは、ほのかの安定した手と、明日香の誘導と、瑠奈の段取りのおかげだ。私は偏光シートの角度をミリ単位で保ちながら、胸のどこかで「ありがとう」を数えていた。


「お隣さんもどうぞ」

 明日香が声を落として、近くで待っている親子に順番を譲る。ほのかがハンカチフードの縁を一時的に広げ、瑠奈が「この角度」と指を差す。

 小さな子が覗いて「あ!」と短く声を上げ、親御さんが「見えた?」と同じ高さに目を合わせる。その様子が、四角の外側でやわらかく揺れた。

「触らずに覗いてくださいね。曇ると見えにくくなります」

 ほのかの声はいつも通り落ち着いているのに、嬉しさが混じっているのが分かる。


 私たちは、少しずつ位置を入れ替えながら、基準角を共有した。覗く人が変わるたび、瑠奈が「寝かせて」「ちょい起こす」「そこ」と短い言葉で角度を合わせ、ほのかがフードの影をぴったり当て、明日香が反射の原因になりそうな人の動線を優しく遮る。

 何度目かに私の番が戻ってきたとき、四角の外側の世界が遠のいて、四角の中の世界だけが近づいてきた。黒は黒で、点は点で、けれど点のひとつひとつに奥行きがある。

(地球の海で、夕方の水面がぎらぎらして何も見えなかった時――少し角度を変えたら底が見えた、あれに似てる)

 胸の中で、遠い匂いがふっとよみがえる。塩と風。いまは金属と空調と、でもやっていることは同じだ。環境に合わせ、見えるようにする。


「保存しよう、これ」明日香がぼそっと言う。「頭に、この角度」

「保存の前に、一呼吸」ほのかが微笑む。

「はい先生」


 瑠奈が、私の横で小さく笑った。「ひかりちゃん、いま視線が安定したね」

「うん。なんか――怖くない」

「うん。形ができると怖さは減る。ゼロGといっしょ」

「……同じなんだね」

「同じ。同じだから、応用が効く。私たち、たぶんどこでもやれるよ。掴めないものを、見えるところまで連れてくる」


 その言葉が、胸のどこかの空白にすっと収まった。

(掴めないけど、見える。――それでいい。いまは、それがいい)


 四角の中で、点がまた増えた。ひとつは微かに色を持っている気がする。白にほんの少しの青。

「色……?」

「見えます。色比が変わってきたんだと思います」ほのかが控えめに解説する。「照明が落ち、目の順応が進んでいます」

「順応、好きな言葉」

「筋肉の順応もよろしく」


 通路の端で、売店の冷蔵ケースが閉まった。周囲の白が一枚ぶん薄くなり、星の粒の密度がまた一歩、こちらへ近づく。近くの誰かが「わぁ」と素直に声を上げ、別の誰かが小さく拍手をした。


「基準角、共有」瑠奈が手短にまとめる。「この“影の四角”と、偏光のここ。あと、姿勢。みんなで同じ型を作ったから、見えた」

「型……いい言葉」

「型が心を落ち着ける。竜胆先生、言ってたでしょ?」

「言ってた」

「だから大丈夫。見えなくなっても、もう一回型に戻せば、また見える」


 その時、四角の外側で、係のお兄さんがこちらへ目礼した。「ご協力ありがとうございます」と口の形だけで言って、小走りで別の区画へ向かう。

「こちらこそ」ほのかが同じように口だけで返す。

「ね、対価」瑠奈がこっそり囁く。「藻グミ、三分の一」

「覚えてた!」

 私は笑ってポケットから今日の戦利品を出した。「ライム&ハーブ、どうぞ」

「ありがとう。糖は思考を滑らかにする」

「科学っぽい」

「気分の話」


 グミをひとつ口に入れて、私はもう一度四角の奥を見た。点が、いる。さっきよりも、たくさん。

 明日香が横で、双眼鏡を取り出そうとして、すぐしまう。「今は肉眼で行く」

「いい判断」ほのかが頷く。「双眼鏡は揺れが出やすいですから」

「揺れるのは心だけでいい」


 四角を覗く順番をまた交代し、私は今度は外側から二人を見る側に回った。

 ほのかの指はまるで器械みたいに正確で、縁の影を一ミリもぶらさない。明日香は柔らかい壁になって、人の流れと反射の白をうまく外へ逃がす。瑠奈は段取りを、負担のない速さで回す。誰も無理をしていないのに、全体がよく回る。

(救出隊に、段取り係が増えた感じ)

 なんだか心強くて、私は胸の奥がぽうっと温かくなるのを感じた。


「じゃ、自己紹介の正式版いっとく?」瑠奈がふと思い出したように言った。「さっき名乗ったけど、ちゃんと。私は月城瑠奈。保守セクションのボランティア。市民モードの範囲で段取りするの得意」

「桜庭ほのか。観察と整理が担当です。救急箱も、だいたい持っています」

「浅見明日香! 誘導と筋肉!」

「星野ひかり。……見たいと思う係」

「最高の係名」瑠奈が笑う。「見たいと思う人が中心。段取りはその外側に回るだけ」


 四角の中で、ほんの少し大きい点がひとつ、呼吸に合わせるみたいに瞬いた。

 私は息を横へ逃がして、ゆっくりまばたきをした。

(星は掴めない。けど、見える)

 それで今は、十分だ。


 ……と、通路の奥で小さな電子音が一度だけ鳴った。遠くの柱の上、黄色いランプが一回だけ点滅して、すぐ消える。誰も気にしていない。けれど、ほのかは視線の端でそっと確かめ、瑠奈が「大丈夫、通知だけ」と小声で伝えた。


「続けよっか」

「続ける!」


 四角の暗がりに、また細かい砂のような光が湧いた。私たちは同じ型に戻り、同じ言葉で呼吸を合わせる。

「一呼吸」

 声が揃って、空の黒が深くなる。

 ここは丸い空の下。星は掴めない。でも、一緒に見える。今夜、私たちはそれを覚えた。次の合図が来るまで――見えるようにし続ける。


 四角の暗がりに砂みたいな星が増え続けていたとき、通路の奥で電子音が二回、短く鳴った。柱の上の黄色いランプが点滅し、頭上の案内に《訓練:遮蔽シャッター半閉》の表示が走る。空気が少しだけ緊張して、人の流れが詰まりはじめた。


「――まずは一呼吸」

 ほのかの声が、柔らかいけどよく通る高さで周囲に広がる。「足元を見て、ゆっくり進みましょう。ここは止まらずに」

「こちら空いてます! 一列ずつどうぞ!」

 明日香は一段低い声に切り替えて、両手のひらを大きく見せるジェスチャで列を分けていく。人の視線が自然と手振りについていって、押し合いがほどけた。


「ひかりちゃん、観覧灯をディムできる?」

「やってみる!」

 私は近くの市民モードパネルに駆け寄り、照度のスライダーを二段落とす。通路の白っぽい反射が弱まり、行き先の見切り灯だけがゆるく残る。ガラスの面にも余計な白が戻ってこない。


「観覧モードB、再設定……完了」

 すでにカウンター脇へ回り込んでいた瑠奈が、小窓越しに係の人と短くやり取りしてうなずく。「音量を低に、見切り灯のみ残す。――これで怖くない」


 短い緊張の波が、すっと引いた。シャッターは予告どおり半閉のまま止まり、すぐに開いていく。ざわめきに安堵が混じり、誰かが小さく拍手した。係の人が頭を下げて通路を走り、別の区画へ向かう。


「よし、視線は次の壁」

 私は息を横に逃がして、また四角の奥へ目を細めた。黒は戻り、星は息を吹き返すみたいに数を増やす。さっきの“型”に自然と体が戻っていく。

 ほのかの指は安定してフードの縁を支え、明日香は通路の端で「フラッシュ無しでお願いしまーす」と低い声を保つ。瑠奈は偏光シートの角度を一言で整える。「そこ」。


 落ち着きを取り戻した展望区で、係のお兄さんがこちらに歩いてきた。「ご協力ありがとうございました。おかげでスムーズでした」

「こちらこそ。消せる光から消しました」ほのかが少し照れながら言う。

「皆さん、うまいですね」お兄さんが感心して笑い、次の区画へ駆けていった。


「――じゃ、正式に」

 瑠奈が私たちに向き直る。工具袋が小さく鳴って、口角が上がる。

「連絡先、交換しよ。私、段取りと裏道担当。救出隊に混ぜて」

「もちろん!」

 四つの端末がコツンと触れ合って、画面に新しい名前が加わる。《月城瑠奈》

 すぐにスタンプが飛んだ。

 瑠奈:〈任務拡張〉

 明日香:〈了解!〉

 ほのか:〈本日の学び:消せる光から〉

 ひかり:〈星は掴めない。けど、見える〉


 藻グミの袋を開けると、ライム&ハーブの青い香りがふわっと広がった。瑠奈に三分の一を渡すと、彼女は満足げに頷き、すぐ真顔に戻る。

「ね、合法ルートで保守回廊の見学、来る? 週末に枠ある。見えるようにするための“裏側”、見せてあげる」

「行く!」

「手続き、私が確認します」

「保護者の許可は私が!」

 答えが重なって、笑いが弾ける。端末のカレンダーに仮の予定がぽんぽんと埋まっていく。


 ふと、ガラスの向こうを見る。さっきよりも細かい点が群れになって、丸い空の向こうへ流れている。反対側の街の窓と混ざって、線になりそうでならない距離を保つ。

 私は四角のフードをそっと外して、裸眼で黒を見た。もう、さっきほど反射が気にならない。目が馴染んだのだと分かる。胸の鼓動は静かで、でも確かに前を向いている。


「帰り、薄暮帯のうちに下りようか」

 ほのかの提案に頷く。母との約束が、胸のポケットにちゃんとある。

「撤収の型も決めよう」瑠奈が言う。「一呼吸→輝度復帰→お礼→下がる」

「型があると最後まで崩れない」

「そういうこと」


 私たちは四角の影を外し、偏光シートを瑠奈に返し、案内パネルに軽く会釈してから、人の流れを邪魔しない角度で下がった。さっき教わった順番のまま。

 最後にもう一度だけ、ガラスの奥に目を向ける。

(掴めないけど、見える)

 その言葉が、今は胸のいちばん落ち着く場所に収まっている。


 連絡回廊に出ると、人工の夕暮れが“下り坂”の色になっていた。床の四角い光は少しだけ長く、空調の風は少しだけ冷たい。動く歩道に乗る前、三人と一人――四人で、自然に呼吸を合わせる。

「一呼吸」

 肩が同時に上下して、歩道の流れにすっと入る。半歩置いていかれない。今日は、もう置いていかれない。


 駅までの道すがら、端末が震えた。

 竜胆先生:〈空は壁。忘れるな〉

 私は笑って、短く返す。

 ひかり:〈見えるように整えました〉

 少しして、東雲先生からも一言。

 東雲:〈まずは一呼吸、できてたね〉


 環状列車の窓に、逆さの街がゆっくり流れていく。明日香が吊り輪にぶら下がってあくびを噛み殺し、ほのかが保守回廊の申し込みフォームを入力し、瑠奈がグミの袋を器用に三等分する。

「対価はちゃんと貰うけど、見えるほうは何度でも手伝うよ」

「頼りにしてる」

「頼って、型は自分たちで覚える。そういうのが好き」


 ホームに降りると、回廊の風が頬を撫でた。誰かの夕食の匂い、遠くで掃除ドローンのピッという音。丸い空の向こうでも、同じ時間が進んでいる。

 私は二人と一人に手を振って、家の方向へ歩き出した。ポケットの中で、端末がもう一度だけ震える。《ひかり救出隊》にスタンプが届く。

 瑠奈:〈任務完了〉

 明日香:〈了解!〉

 ほのか:〈次は保守回廊〉

 ひかり:〈前へ〉


 丸い空の下で、掴めないものに手を伸ばす練習を覚えた。

 見えるように整える――それが今の私たちのやり方だ。

 明日は、今日よりきっとうまくいく。

「まずは一呼吸」「視線は次の壁」。教室で覚えた合言葉が、展望区でもちゃんと効いた回でした。

星は掴めない。でも、見えるように整えることはできる。次回はコロニーの裏側へ――保守回廊ツアーへ出発!

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