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コロニーの空でおはよう!  作者: ぺろぺろぬっこ
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空は水じゃない!

丸い空の下、今日は“はじめてのゼロG”。

「空は水じゃない、壁だと思え」――怖さもワクワクも混ぜて、一歩前へ。小さな成功を、一緒に掴みに行こう。

 ここはオービタル居住区〈エルピス3〉。大きな円筒の内側に私たちの街が貼りついていて、床が丸く続いて、空は反対側の街に溶けていく。最初に見たときは、空にもう一つの地面があるのが信じられなくて、何度も首が痛くなるまで見上げた。


 “重力”は地球みたいに引っ張られているわけじゃなくて、床のほうが回って私たちを外側へ押しつけている。だから本当は引力じゃなくて遠心力。外周の居住リングでは地球とほぼ同じ重さ――先生は「だいたい0.98Gくらい」と言っていた――に調整されていて、転んだときの痛さも、牛乳をこぼしたときの広がり方も、たぶん地球とあまり変わらない。変わるのは、たまに足が半歩分だけ置いていかれる感覚。床が回っているぶん、私がふわっと飛び上がると、次に着地したい場所がほんの少し前に進んでいる。理屈は分かってきたけど、身体がまだ時々びっくりする。


 昼と夜は、天井――つまり円筒の内側の高い位置に並んだ投光パネルと空模様のプロジェクタで作られる。朝は白っぽく、昼は青く、夕方にはオレンジが少しずつ混ざって、夜は深い群青に。雲も、風も、ちゃんとある。風は空調の循環だから、角を曲がると急に強くなることがあるし、階段の踊り場は案外あおられる。スカートには注意、というのは身をもって学んだ。


 〈エルピス3〉にはいくつかの“輪”がある。私の家と学校があるのは居住リングの南回廊セクターC。住宅と商業、駅、学校、保健センター、公園、ぜんぶが歩いていける距離にぎゅっと詰まっている。駅から駅へは環状列車で数分。動く歩道はゆっくりだけど、考え事をしながら乗っていると目的地がふいに近づく。休日に家族で出かけるときは、環状列車でぐるっと一周して、反対側の街を“空越し”に眺めるのが父のお気に入りだ。


 居住リングの外側(といっても、感覚的には上のほう)には農耕リングが続いていて、水耕栽培のレタスやトマト、ハーブ、そして藻類のプラントが並んでいる。藻ミルクや藻グミは最初「名前がちょっと……」と思ったけれど、飲んでみると抹茶とハーブの中間みたいな風味で、意外とやさしい。ここで食べるものの多くはコロニー製。味噌や醤油も小さな発酵施設で育っていて、朝ごはんの匂いは地球の台所と同じだった。


 円筒のど真ん中――中央軸は無重量帯。スカイリフトで上がっていくと、体の重さが薄くなって、膝の裏がくすぐったくなる。軸心には展望区と保守用通路、それから私たちがこれから通うゼロG体育館がある。壁も床も天井も、ぜんぶ“壁”として使う場所。先生いわく「空は水じゃない、壁だと思え」。水泳でバタ足しても前に進まないし、慌てて手をばたつかせると逆に回ってしまう。止まりたいときは面で受けて、掴む。理屈はまっすぐで、怖いのは最初だけ――だといいな。


 コロニーの安全は徹底している。回転速度や空気成分は常に監視されていて、非常時にはセクターごとに自動シャッターが降りる。清掃は小さなドローンが黙々とやっていて、朝の通学路では白い点が並木の間を往復しているのをよく見る。夜になると外縁の遮光板が少し閉じて、窓の反射が薄くなるから、展望区のガラス越しに星が見える。地球で見た星と同じで、でも少し違う――空は丸く、見上げるといつも反対側の暮らしがある。誰かの部屋の灯り、誰かの笑い声、誰かの晩ごはんの湯気。丸い空に、たくさんの“普通”が漂っている。


 学校も、普通と少しの違いが同居している。ホームルームで時間割を配られて、国語も数学も英語もある。そこに「宇宙航行学」と「宇宙身体運動学(ゼロG体育)」が混ざって、シミュレーターの時間がちょっとした人気だ。教室の窓からは人工芝の校庭と、遠くの逆さの街が見えて、昼休みの購買は“藻”を冠した新商品がやたらと強い。チャイムの音は地球と同じで、でも鳴り終わったあとの静けさは少し違う気がする。たぶん、音の反射の仕方が丸いから。


 生活の細かいルールもある。動く歩道では右に立って左を空ける、スカイリフトでは耳抜きを忘れない、ゼロG区画では髪を結ぶ、ポケットに入れるものはファスナーを閉める。私の場合はさらに「階段で振り返らない」「風の向きに注意」「猫ちゃん系は休日限定」という、個人的な教訓も追加された。笑い話にできるなら、それはもう私の味なのだと、ほのかと明日香が言ってくれた。


 ここに来て一か月。地球の空は広く平らで、ここは丸くて近い。違っているのに、毎日を支えるものは似ている。朝の匂い、通学路の足音、教室のざわめき、帰り道のソフトクリーム。宇宙に住んでいても、やっぱり私は、普通の高校生だ。だから今日も、床に置いていかれないように、一歩ずつ。中央軸へ上がるスカイリフトの入口で、深呼吸をひとつ。耳がふっとしたら、唾をごくん――担任の先生に教わった通りに。


 玄関のドアが開くと、すぐにコロニーの朝の匂いがした。金属と水と、少しだけ青い草。地球の朝よりも、匂いの輪郭がくっきりしている気がする。


「いってきまーす!」

「転ばないようにねー!」と母。

「宇宙は君を歓迎している!」と父。

「そのわりに私は毎日歓迎されすぎて転ぶんだけど……」


 ブツブツ言いながら、私は南回廊セクターCの通学路に出る。通りに沿って、低層住宅の壁が白く光っている。頭上の“空”は今日もよく晴れて、反対側の街が逆さまに浮かんでいた。朝対応の投光パネルは柔らかく、木の葉の縁にだけきらりと硬い光を落とす。


 動く歩道に片足を乗せる瞬間が、まだ少し怖い。

(床に置いてかれない、床に置いてかれない……)

 えい、とタイミングを合わせて乗る。体が半歩だけ前へ滑っていく。成功。

「よしっ」


 隣のレーンを、清掃ドローンが小さなブラシをくるくる回しながら追い抜いていった。白い豆粒みたいな機体に「おはよう」と小声で挨拶すると、ピッと返事のような電子音。いい朝だ。


 角を曲がると、風がふっと強くなる。空調の流れが集まる場所。スカートを片手で押さえるのは、もう癖になった。踊り場の床に貼られた小さな注意ピクトグラム――《風に注意》の猫の絵――を見るたび、私は“例の事件”を思い出して耳が熱くなる。


 駅前広場に出ると、朝の人の波が生まれていた。制服の色が混ざる。遠くのベンチで、年配の人が鉢植えのバジルを膝にのせて水をやっている。こういうのは地球とあまり変わらない。違うのは、広場のガラス屋根越しに“逆さの人影”が滑るように動いていること。空にも誰かの朝がある。


 改札のゲートにカードをかざす。ピッ。

 ホームに出ると、透明な防護壁の向こうを環状列車が滑ってきた。車体の側面には、今週の安全週間のポスター――《ゼロG体育館 初回はゆっくり、面で接地!》――が貼られている。先生の声が頭の中で再生される。「空は水じゃない、壁だと思え」。うん、分かってる。分かってるけど、身体はいつも少しだけ驚く。


 列車が停まる。扉が開く。私は乗り込んで、窓側の二人掛けに腰を下ろした。向かいに座った小さい男の子が、隣の母親の袖をつつく。

「ママ、どうして空に街があるの?」

「ふふ、空じゃなくて反対側の床なのよ。ぐるぐる回ってるから落ちないの」

 私は心の中で「そうそう」と頷く。ここに来て一か月、私はその説明を自分にも言い聞かせてる。


 列車が動き出す。窓の外の街が、ゆっくりと弧を描いて流れる。角を曲がる市場の屋台から、焼いた藻パンの匂い。交差橋を渡る制服の列。清掃ドローンの列。朝は列が多い。


 端末が小さく震えた。《ひかり救出隊》のチャット。

 浅見明日香:〈起床。今日、空を泳ぐ〉

 桜庭ほのか:〈泳がないで掴む、です〉

 星野ひかり:〈今日は床に置いてかれない〉

 ほのか:〈素晴らしい目標です〉

 明日香:〈じゃ私は置いてく〉

 ひかり:〈やめて!〉


 二駅で学校最寄り。私は立ち上がって降車口に並ぶ。扉の向こう、ホームに入ってくる風が少しひんやりして、頬が気持ちいい。歩き出した瞬間、肩のあたりが軽く引かれた。

「ほい」

 袖口をつまんだのは明日香。

「また半歩先に行くところだった」

「い、今のは準備運動だから!」

「はいはい。――おはよ、ひかり」

「おはよう」

 少し遅れて、ほのかが改札を抜けてきた。

「おはようございます。今日の回廊は風が強いみたいですよ」

「え、ほんと?」

「風向センサーの表示がオレンジだったので。スカート、気をつけて」

「理屈で刺さるやつ!」


 三人で駅から校門までの回廊を歩く。連絡回廊のガラスは朝の光を集めすぎて、床に四角い光の模様を並べていた。動く歩道に乗る直前、私はそっと深呼吸する。

「一呼吸」

 ほのかが小さく笑って合図する。

「任務:ひかりを床に置いていかない」

 明日香が勝手に作戦名を付ける。

「やめて、もう既に恥ずかしいんだけど」

「大丈夫、私が片袖、ほのかがもう片袖」

「両袖を掴まれる高校生って何」


 でも、二人に両側を固められると、不思議と歩調が揃う。歩道の流れに乗って、足だけが先に行かないように、膝の力を抜く。うん、今日はいける気がする。


 回廊の途中、壁面の広告が変わった。《展望区 今週末は照明反射低減モード》。

「お」明日香が反応する。「週末、星見いこ」

「うん、行きたい」

「許可が出ればですが」

 ほのかの言い方はいつもやわらかいのに、内容はきっちり現実的だ。私は思わず笑った。

「父は宇宙を推すから大丈夫。母の許可が壁」

「空は水じゃないけど、母は壁」

「名言っぽく言わないで」


 ふと、連絡回廊の端で足を止める。ガラスの向こう、遠くの農耕リングが見える。並んだ水耕棚の緑。その合間を、白い作業スーツの人がゆっくり移動している。逆さの街の窓辺では、誰かが布をぱたぱたと振っていた。私は“空”に手を振り返す。届かないけど、届く気がする。


 校門が近づく。外壁の白は、朝だと粉砂糖みたいな色をしている。門柱の横に、新入生用の案内板。《ゼロG体育は中央軸へ。耳抜き忘れず、髪はまとめて》。

「耳がふっとしたら、唾をごくん」

 三人で先生の声まねをして、同時に笑う。


 校庭にはもう生徒が集まり始めていて、体育委員が列の整え方を説明していた。校舎の影が長い。影の縁で、柔らかい風が制服の裾を撫でた。私はとっさにスカートを押さえる。

「学習の成果」

 明日香が親指を立てる。

「ひかりさん、ヘアゴム、あります?」

「ある。今日は結ぶね」

 私はポケットからゴムを取り出して、髪をひとつにまとめた。

「似合う」

 ほのかがまっすぐ言う。顔が熱くなる。

「ありがと」


 昇降口の前で靴を履き替える。上履きに足を入れると、床の感触が少しだけ変わった。ゴムの匂い、磨かれた床の冷たさ。教室が近い匂い。

 下駄箱の上に、見慣れない張り紙が一枚。《救護箱の場所》。地図に小さな赤い印。

「覚えました」

 ほのかが小さくうなずく。

「私は今日、救護箱に行かせない」

 明日香が胸を叩く。

「プレッシャー!」


 廊下の掲示板には部活動のポスターが増えていた。《軌道体操部》《空間把握研究会》《園芸ボランティア》。

「園芸、入ろうかな」

 ほのかがつぶやく。

「いいじゃん。私は……何にしよう。動きたい。いっぱい」

「本気でパイロット志望だもんね」

「うん。空、掴みたい」

 明日香の横顔は、いつもより少しだけ真剣だった。私はその横顔を見て、胸のあたりがむずむずした。私も、何か掴めるだろうか。床でも、手すりでも、目に見えない何かでも。


 教室前の廊下に、朝のざわめきがたまっている。サッカー部らしい男子がボールを足もとで転がしていて、先生の「廊下は走らない!」がすぐ飛んでくる。私は二人と目を合わせて、うなずく。


「行こっか」

「行こう」

「行くぞー」


 教室のドアを開けると、いつもの天井、いつもの黒板、いつもの光――でも、今日はすこしだけ違うはずだ。窓際の席にカバンをおろし、私は端末を開いた。《ひかり救出隊》に短いメッセージを打つ。


 ひかり:〈本日の任務、床に置いてかれない〉

 明日香:〈了解。任務名、長い〉

 ほのか:〈短く:前へ〉


 私は思わず笑って、端末を閉じた。

 前へ。今日は、昨日よりも。

 まだ朝の匂いが薄く残る教室で、私は小さく深呼吸をする。動く歩道よりもゆっくりの速度で、でも確かに前へ進むために。今日はゼロG体育。


 朝のざわめきが教室に満ちる前に、担任の東雲こはる先生がスッと入ってきた。淡い色のカーディガン、手には配布物の束。黒板に「一呼吸」と大きく書く。


「おはようございます。一年二組さん、まずは一呼吸~」

 声までやわらかい。先生は配布物を前から回しながら言った。

「今日は中央軸のゼロG体育があります。初回は“慣れる”回です。耳がふっとしたら――?」

「唾をごくん!」

 クラスの何人かが声を合わせ、私も反射で言ってしまう。

「よくできました。髪の長い人は結ぶ、ポケットはファスナー閉める、アクセサリーは外す。はい、これが安全カード。今日の合言葉はここに」


 カードの中央、太字でこうある。《姿勢→減速→接地》。その下に小さく、「焦ったら丸まる」「止まるときは面で」。


「では点呼を取ったら、駅側のスカイリフトに向かいます。列の移動は急がない。まずは一呼吸」


 出席を取り終えると、私たちは二列で廊下に並んだ。靴音が連なって、昇降口の光に向かう。桜庭ほのかが私の横に並び、私の髪を見て小声で言う。


「ひかりさん、ゴム貸しましょうか?」

「持ってる、ありがと。……よし」

 ひとつに結ぶと、首筋がすーっと涼しい。

「似合ってます」

「……ほのか、直球が照れる」


 列の少し後ろで浅見明日香が肩を回している。

「おっしゃー! 空、掴むぞ」

「泳いじゃだめだよ?」

「分かってるって。分かってるけど口が言う」


 校舎を出ると、連絡回廊のガラスが朝の光を四角く床に落としていた。スカイリフトの乗り場前で一旦停止。東雲先生が振り返る。


「ここでも一呼吸。リフトはゆっくり上がりますが、体感は少しずつ軽くなります。耳がふっとしたら――?」

「唾をごくん!」

「よし。では行きます」


 乗り場のゲートが開き、カプセル状のリフトに順番に乗り込む。発車のチャイムが鳴って、窓の外の景色が滑り始めた。最初は何も変わらない。ただ、膝の裏が少しくすぐったくなって、靴底の重みがふわりと薄くなる。耳の奥がぽん、と小さく跳ねた。


(……軽い)

 怖くはない。浮かぶというより、体が“ゆるむ”。私の横でほのかが、視線だけ笑っていた。

「緊張、減りました?」

「うん。ちょっとだけ」

 明日香はすでにハイテンションだ。

「ゼロG体育館ってさ、壁も床も天井も壁なんでしょ? 楽しそう!」

「言い方が体育っぽい」

「体育だよ!」


 リフトが止まり、扉が開く。中央軸の通路は、音が少ない。床と壁の境目に手すりが何本も走り、ところどころにネットが張られている。天井に見えるはずの場所にも手すりがあるのが、もうおかしくて笑ってしまう。


 体育館のゲート前で、赤い短髪の女性が片手で手すりをつかんでいた。漆黒のトレーナー、無駄のない姿勢。目が合った瞬間、空気の温度が少し下がった気がした。


「一年二組、集合」

 短く響く声。竜胆ひより先生だ。

「初回担当の竜胆だ。ここでは私の声が上からも下からも飛ぶ。迷ったら声の方へ来い」


 私たちは壁際に“立って”並ぶ。立つ、といっても靴底に仕込まれた磁力でぺたっと貼り付いているだけ。足裏に吸い込まれる感覚が新鮮で、私はこわごわと足踏みした。


「では器材」

 竜胆先生が壁のラックから三つの道具を取り出す。

「手首につける微推進エアパフ。必要なときだけ一瞬、ぷしゅ。腰のハーネスにつなぐマグライン。巻取り式の安全ロープだ。靴はマグブーツ、勝手に歩けない。移動は壁から壁へ。合言葉は――」

「空は水じゃない、壁だと思え」

 クラスのあちこちから声が上がる。

「そうだ。泳ぐな、掴め。焦ったら丸まれ、止まるときは面で受ける。今日やるのは“壁キック→姿勢保持→減速→接地”。これだけ。これが全部だ」


 デモンストレーションが始まった。竜胆先生が壁をすっと蹴る。膝もつま先も無駄がなく、視線が行き先に釘付けになる。体はほとんど傾かない。手すりの直前で手首をほんの一瞬ぷしゅと鳴らし、速度を合わせ、両足の面でぺたり。私は息を忘れて見とれた。


「視線が姿勢を決める。見たい場所に顔を向けろ。手足をばたつかせるな。動くのは最小限。――じゃあ、やる」


 空気が張りつめる。名前が呼ばれていく。クラスメイトが一人、また一人と壁から離れ、ゆっくり、あるいは勢いよく、反対の壁へ“渡って”いく。上手い子は最初からうまい。慎重な子はゆっくり。声が飛ぶたび、誰かが安堵の笑いを漏らす。


「星野」

「は、はい!」

 私の番が来た。手のひらが汗ばんでいるのが分かる。足裏の磁力が名残惜しい。

(視線、姿勢、減速、接地……)

 私は青いラインにつま先を揃えた。竜胆先生の指が三、二、一と折れていく。

「――キック」


 ビューン。

 思ったよりずっと、速い。体が前に放り出される。視線を先に――と頭は叫ぶのに、目は恐怖で近場に落ちる。私は反射で手足を動かした。ばたばた、ばたばた。

 その瞬間、体がひねられた。

(やば――!)

 世界が回る。天井の手すり、横のネット、遠くの壁、また手すり。ぐるん、ぐるん。体の輪郭が溶ける。左右も上下も分からない。

「わ、わわわわっ……!」

「星野、丸くなれ」

 声が飛ぶ。膝を抱える。少しだけ回転が弱まる――けど、まだ、回る。迫る手すりに手を伸ばしたら、手が空を掴んだ。掴めない。怖い。

「救出隊、任務開始」

 背中で明日香の声が弾けた。次の瞬間、腰のハーネスがカチっと鳴る。マグラインが伸びて、どこかの手すりに磁力で吸い付く感触。

「巻きます」

 ほのかの声は、水面みたいに落ち着いている。ラインがすうっと巻き取られ、私の回転がさらに落ちた。

「最後、面で合わせる」

 竜胆先生の合図。私は震える足の裏を、目の前の“壁”へ――いや、床として受け止めた。ぺた。磁力が吸い込む。世界が止まる。

「――生きてる……!」

 へたりこんだ私に、明日香が親指を立てた。

「任務完了!」

 ほのかが息を合わせるように笑って、小さく拍手する。私は笑うか泣くか迷って、変な顔になった。


 竜胆先生は短く頷いた。

「悪くない。恐怖は姿勢で鎮める。形を作れ。形が心を落ち着ける」

「はい……!」

「次。浅見」

「へいへーい!」


 明日香は壁を蹴ると、ほんとに泳ぎ始めた。バタ足、ストローク。

「進まん」

「だから言った、空は水じゃない。掴め。手すりへ、視線」

「視線!」

 明日香は笑って軌道を修正する。壁から壁へ、手すりから手すりへ、“渡る”。最後は少し勢い余って、べちっと音を立てて貼り付いた。

「いった!」

「面で受けるのは合格。音は要練習」

「押忍!」


「桜庭」

「はい」

 ほのかは青いラインにそっと踵を揃える。視線が行き先に吸い付いて、呼吸が薄く整うのが見える。

「――キック」

 ふわり。サラダの葉っぱが空を渡るみたい。直前で手首をほんの一瞬ぷしゅ。速度がぴたりと合って、ぺた。音が小さい。

「満点」

 竜胆先生の口元が、ほんの少しだけ笑った。

「ありがとうございます」

 ほのかの頬も、少しだけ紅くなっている。


 ひと通りの“壁キック”が終わると、先生はネットの内側に色の違う小さなリングをいくつか投げ入れた。ふわふわと漂う輪っかが、光を受けてきらりと縁だけ光る。


「ミニ課題。各自、自分の色を一つ回収して、面接地。エアパフはチョイ噴きのみ。救出隊は常に準備」

 私たちはそれぞれの色のリングを見つける。私は黄色。明日香は赤、ほのかは薄い緑。


「星野、もう一度だ。視線、姿勢、減速、接地。声は聞こえている」

「……はい」

 私は深呼吸した。カードの言葉を胸の中でなぞる。視線を黄色の輪へ。体を少し――のばす。足を揃え、指の先まで無駄を取る。

「――キック」


 さっきより速くない。怖さがないわけじゃないけど、ひとつひとつ、頭の中の順番を踏む。輪が少し右へ流れる。

(右へ行きたいなら、顔を右。手は最小限)

 手首のエアパフをちょい。本当に一瞬。体が少しだけ軌道を変える。視界の中心に黄色が戻る。

「いま一拍置いて」

 ほのかの声。私は呼吸を一つ止めて、輪の向こうへ視線を通す。

「今だ、掴め!」

 明日香の声。私は輪を手で掴んだ。掴めた。うれしい、でも止まらない。

「面で」

 竜胆先生の声。私は手すりへ顔を向け、足裏の面を準備する。最後に、ちょい。エアパフの一瞬の噴きで速度を合わせる。

 ぺた。

 磁力が足裏に吸いつく。リングは手の中。世界は回らない。

「……できた」

 私の声が、小さく零れた。胸の奥が一瞬、熱くなって、それからふっと軽くなる。

「任務完了!」

 明日香がまた親指を立てる。ほのかが目を細めて笑い、竜胆先生は短く言った。

「悪くない。次は視線をもっと前へ。行き先は輪じゃない、次の壁だ」


 順番に、みんなも自分の色を回収していく。赤が、青が、緑が、手から手へ渡る。誰かがちょっと回って、誰かが笑って、誰かが救出される。体育館に初めての音が満ちて、私の鼓動がようやく普通に戻ってきた。


 課題が終わると、竜胆先生が手を叩いた。

「今日はここまで。器材を戻して整列」

 マグブーツの磁力をすっと弱め、壁際に並ぶ。東雲先生がリフト前で待っていた。

「みんな、顔が少しスッキリしてますね。一呼吸して、下へ戻りましょう。耳がふっとしたら?」

「唾をごくん!」

 声がそろう。笑い声が混ざる。私たちは列になってスカイリフトに乗り込んだ。


 リフトが降りていく。体に重さが少しずつ戻る。空気が濃くなる。床の確かさが足裏に戻ってくる。私は窓の外を見た。ガラスの向こう、遠くの“空”に、逆さの街がまたゆっくり回っている。


(空は水じゃない。掴めば、進める)

 ポケットの中で端末が震えた。《ひかり救出隊》にほのかからスタンプ:任務完了の宇宙猫。すぐに明日香が「次は音を小さく接地だな」と送ってくる。私は笑って、短く返した。

〈了解。前を見る〉


 リフトが止まる。扉が開いて、いつもの重さが一気に揺り戻す。廊下のざわめき、床の固さ、遠くのチャイム。私は靴紐を結び直して、二人と目を合わせた。


「――おつかれさま」

「おつかれ!」

「お疲れさまでした」


 指先に残る、黄色い輪の感触。足裏に残る、ぺたの音。

 私は小さく深呼吸をして、教室へ向かって歩き出した。今日は、昨日よりうまく歩ける。床に置いていかれない。視線は、次の壁へ。


 教室に戻ると、腕が少し震えてペンが重かった。黒板には東雲先生の「一呼吸」の横に、小さく〈今日の感想を三行〉とある。

 一行目:回ると世界が丸い。

 二行目:空は水じゃない(ほんと)。

 三行目:次は音を小さく接地。

 書いてからくすっとなる。隣でほのかが用紙を斜めにして見せてきた。〈救出隊:任務完了〉の丸いスタンプが押してある。いつ用意したの、それ。

「手作りです」

「早いよ器用だよ可愛いよ」


 後ろから明日香が身を乗り出す。

「先生、感想四行でもいい? “空は壁。了解!”って入れたい」

「浅見さんは三行のなかに“了解”を詰めてください」

「むずい!」


 ホームルームの終わり、東雲先生がまとめる。

「今日はよく頑張りました。竜胆先生から伝言。――“視線は輪じゃなく次の壁”。忘れものしないで、まずは一呼吸で下校」


 チャイム。椅子が擦れる音と一緒に、端末が震えた。《ひかり救出隊》に新着。

 ほのか:〈購買で藻グミ、どうですか〉

 明日香:〈任務成功祝い!〉

 ひかり:〈音を小さく噛む〉

 明日香:〈それはグミの話〉

 ほのか:〈どちらも正解です〉


 購買前は少し並んでいた。藻グミの新味“ライム&ハーブ”を三つ。ベンチで包みを開けると、ほのかな青い香り。

「かたい」

「噛みごたえ大事」

「任務の後の糖分は正義、ですね」

 三人で同時にひとかみ。さっきの“ぺた”の感触が、足裏にもう一度よみがえる。


「ね、週末の展望区、行けそう?」

「母が“明るいうちなら”って。夕方なら大丈夫」

「決まり。薄暮帯で星、掴もうぜ」

「星は掴めませんよ」

「気持ちの話!」

 言い合いながら笑って、端末で予定を合わせる。画面の小さなカレンダーに、三人分の印が並んだ。


 校門を出ると、人工の光はまだ午後の色。連絡回廊のガラスに、遠くの逆さの街がやわらかく映っている。動く歩道に乗るとき、私は自然に一呼吸していた。床に置いていかれない。視線は、次の壁へ。

 ポケットの中、救出隊のグルチャに竜胆先生からの注意書きが写真で送られてくる。〈空は壁。忘れるな〉

「りょーかい」

 小さく口にして、私は歩道の流れにそっと乗った。

読んでくれてありがとうございます。

恐怖の前に“形”を作れば、ちゃんと前に進める――宇宙でも日常でも同じだね。

次回は展望区で星見。丸い空の向こうで、三人の距離がもう一歩近づきます。

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