32.迷子のあなたへ
鳥の羽音が遠ざかり、静寂が落ちた。
私たちはただ呆然と、その場に立ち尽くしていた。
「……逃げられましたね」
はぁ、と溜め息をつきながら、先に口を開いたのはレオだった。
「でも……効いてた。間違いなく」
アンドルーが小さく言う。真剣な目で、エル兄のいた場所を見つめている。
「あの様子……アリシア様のこと、頭のどこかで覚えてる。絶対に思い出せます。アイツの中に“エルネスト”が残っているのなら、必ず説得できるはず」
力強く励ましてくれるアンドルーに、私は静かに頷いた。
「レオ、アンドルー……すごく心強かった。一緒に来てくれてありがとう。手が空いている時は、これからもお願いできる?」
私は初めて、心からの笑顔を彼らに向けた気がする。「もちろんです」と笑い返してくれる二人と、私は軽く手のひらを叩き合わせた。
“エル兄”に再び会える保証なんてどこにもない。けれど、23が私たちを受け入れてくれるまで、何度でも向き合わなければならない。
「行こう。今日は……もう十分」
そう言って歩き出すと、レオとアンドルーが左右に並んでくれた。
✽
それからというもの。あの裏路地に通っても、エル兄は一度も現れなかった。街中でも、気配を掴むことすらできない。
一か月ほど何の手がかりもなく、焦燥を胸に、私とレオ、アンドルーは手当たり次第に街を探し歩いた。人目を避けて裏道を進み、かつてロイに示された区画にも足を運んだが、成果は得られなかった。
そんなある日の昼。
「最近、目障りな鼠がうろついてるって聞いたんだが」
「てめぇら、何を探っていやがる?」
粗野な声とともに、五人の男たちが路地の影から現れ、私たちを取り囲んだ。鋭い眼光に、背筋がひやりとする。焦りのあまり無闇に動き回りすぎたことを、今更ながら悔いた。クラージュ様の行動に支障をきたすわけにはいかない。
「行方不明の猫を探しているのです」
私は控えめに笑みを浮かべ、言い訳を口にした。だが男たちは鼻で笑い、値踏みするように私をじろじろと眺める。
「猫だと? へえ……ずいぶん必死な探し物じゃねえか」
「お嬢ちゃん、かわいい嘘つくねぇ。俺たちも手伝ってあげまちょーかー?」
嘲るような視線が突き刺さり、喉の奥が乾いていく。背後ではレオが小さく身構え、アンドルーが息を呑む音が伝わった。狭い石壁の路地に、逃げ場はない。
「何のことか……」
言い終えるより早く、男の一人が乱暴に手を伸ばした。それに怖がるふりをして避け、レオの後ろへ回ると服の下に隠した短刀の柄を掴む。
「猫探しにしちゃ、目つきが鋭すぎるな……。本当は何を嗅ぎ回ってやがる?」
──その刹那。
ヒュン、と空を裂く音がした。レオの正面にいた男が短い悲鳴をあげ、肩にナイフを深々と突き立てた状態で崩れ落ちる。続けざまに別の男も膝を折り、場は一瞬にして混乱に包まれた。
「走れ!」
私の身体を抱き上げたのは、エル兄だった。
その腕の力強さに、言葉を失う。驚愕する私をよそに、彼はレオとアンドルーへ鋭く声を飛ばした。
「散るぞ!」
敵の視線を振り切り、エル兄は私を抱えたまま駆け出した。胸の奥まで突き上げてくる鼓動は、恐怖のせいか、それともエル兄の腕に包まれているせいか、自分でも判別がつかない。
石畳を滑るように走る足取りに、微かな振動が伝わってくる。肌に吹きつける風、頬をかすめるエル兄の吐息。すべてが混じり合い、視界が揺れた。
回された腕は力強いのに、乱暴さはない。落とすまいと私を抱え込む温もりが懐かしくて、涙が滲んだ。
やがて辿り着いたのは、海に近い岩場の陰。水音に包まれた隠れ場で、ようやく足を止めたエル兄は、私を砂の上に下ろした。
「……暑」
彼は顔を覆っていた布を取った。柔らかな薄茶の髪を揺らしてこちらを見る。その顔つきはまだ、23のままだった。
「記憶、まだ……だよね? どうして助けてくれたの?」
問いかける私に、「わかんね」と呟いた23は、私の隣に腰を落ち着ける。
私が昔エル兄にしていたように、自然に肩に寄りかかると、23は少し狼狽えたように言った。
「え、一応“兄妹”なんだよな?」
「うん、そうだよ」
「距離感おかしくないか……?」
「あー、よく言われてた」
「“エルネスト”は聖人君子かよ!? オレは無理だ。離れないと押し倒すぞ!」
そう言われて、私は慌てて少し距離を置いた。
けれど、このほんのちょっとの隙間が、ひどく寂しい。『エル兄に触れていたい』と私の心が強く叫んでいた。
「アリシアか……アリシア、……アリシア」
23は、私の名を何度もつぶやき、宙に向かって手を伸ばしては、掴むように握りしめる仕草を繰り返していた。
「まだ、オレのことを兄貴として好きなの?」
喉が詰まる。当たり前だと即答できない自分が歯痒かった。
「忘れちゃえばいいのに、アンタも。“エルネスト”のことなんか」
どういう気持ちで言ったのかはわからない。けれど、あの山中での別れ際の言葉が蘇り、私は首を振った。
「それは無理。前にも忘れろって言われたことあるよ。でも、『本当のお兄ちゃんじゃないから、忘れて生きる』なんて出来ない。いつか会えると信じてたから頑張ってこられた。会えないときも、エル兄の存在が私を支えてくれてたの……あなたが忘れても、私は絶対に忘れない」
そう告げると、23は拗ねたように顔を背けた。
「……アンタと会ってからずっと、オレの中で何かが蠢いてる。物足りなくて、それが何だかわからなくて。気づけばアンタの顔が頭に浮かんで、……すっげぇ鬱陶しい。そのくせ、触れたくて堪らなくなる。どうしたって消えなくて苛つく……」
言葉を吐き出しながら、23が自分の左耳をしきりに触るのに気がついた。
「耳飾り……落としちゃったんだ」
「?」
「あのね、色違いなの。今は目立つから首に下げてるけど、私はずっと右耳につけてたの。これ、エル兄の瞳の色と同じ硝子片なんだ。よく見て」
私は彼の手のひらに、碧の硝子片を乗せた。
恐る恐るそれに触れた23は、何かを確かめるようにゆっくりと硝子片を撫でる。
「オレの瞳……か。良い具合に濁ってる」
自嘲めいた笑みを浮かべる彼に、私はすかさず首を振った。
「そんなことない、綺麗だよ。ガラスも、エル兄の目も。私が小さい時に見つけたんだって。きっとこの辺にも落ちてるんじゃないかな? 新しいの、探してあげる!」
夕暮れ時、シーグラスを探すにはぎりぎりの時間帯だった。私は慌てて海岸を見渡す。きっと見つかる、きっと──。
キラリと夕陽を反射するものが目に映るたび、しゃがみこんで確かめる。目につくのは違う色ばかりだけど、シーグラス自体は落ちている。逸る気持ちを抑え、地道に探し続けて。夕陽が沈みかけた頃、ようやく……見つけた。
夕陽に翳せばわずかに橙色がかったが、間違いなく空色の硝子片。私は胸が弾むように嬉しくなった。
「あったーー!! 見て、エル兄。水色発見! “ありしゃ”の目の色!!」
エル兄は、よく私に幼い頃のやりとりを話してくれた。詳しくはわからないけれど、エル兄にとっての転機になったらしい、彼が大事にしてくれていた “ふたりの思い出”。
「エル兄のガラスと、ありしゃのガラス。交換こして持ってようね」
エル兄の昔話をなぞりながら話す私を、不思議そうに見ながら、23は呟く。
「交換……」
「うん、そう! もう迷子にならないように」
「迷子?」
「だって、交換こした目のガラス持ってたら、なかよしさんってことでしょ」
そうだ。あの時、おまじないをかけたって聞いた。
──『もしエル兄が、またまいごになっても、ありしゃと、ぜったい会えるおまじない、かけておくね!』──
「エル兄ったら、また迷子になっちゃって……本当におドジさんだね。絶対に会えるおまじない、叶うといいな。……はいっ」
そう言って、私は持っていた空色の硝子片を、23の手の上の、碧の硝子片と交換した。
「ずっと、一緒だよ」
迷子エピソード=ep2




