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「僕を忘れろ」と言った義兄が忘れられません【連載版】  作者: 矢井瀬 月


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30.キスで崩れる


 熱い。苦しい。

 ……どうして? エル兄……


 熱さも、苦しみも、唇だけじゃない。胸の奥で何かが弾け、息の仕方もわからない。

 押し返さねばならないのに、体は一拍遅れる。

 指先が彼の胸布を掴んだのは、拒むためのはずなのに、淡く痺れるように力が抜けていく。

 静かな裏路地で、心臓の音ばかりが私の耳を支配する。


 こんなの、望んだ再会じゃない。

 “兄”である彼は、こんなふうに触れたりしない。エル兄はたとえ記憶を失っていても、私の大事な“家族”であり“兄”だ。

 わかっている、なのに──。額に触れる柔らかい猫っ毛が、私を包む体温が、記憶と今をまぜ返す。懐かしさと恋しさが絡まり、恐れを巻き込んで、私の“愛”を歪めてゆく。


 やめて、と何故か言えなかった。苦しさで何とか押し留めているものが、声を出せば最後、すべて決壊する気がして。

 見上げると彼の瞳の奥に、ギラリと鈍く揺蕩(たゆた)う熱が見えた。何故──? そう思った瞬間、心臓がぎゅっと縮まる。痛みの奥に、別の熱が生まれる。


「……っ、やだ……」


 これ以上は危険だと、押し返す腕にようやく力が戻る。エル兄の唇が離れた瞬間、遅れて息がこぼれ、喉が乾いて震えた。唇がじんじんと熱くて、人差し指でそっと触れる。そこに残る体温が、鼓動をまた跳ねさせる。痛い、苦しい。なのに涙と一緒に、どうしようもない温もりまで込み上げてくる。


(ヤダ)? そんなことなさそうだけど。……少なくとも、“妹”がする表情(カオ)じゃないよね」


 そう言いながら、唇に残った唾液を無遠慮に拭われて、体に残る震えが嫌悪ではないことに、私は気づいてしまった。


「きっと“エルネスト”は、アンタを女として見てたよ。だって、こんなに(たかぶ)ってる」


 面白そうにクスクスと笑うその声に、胸の奥が掻きむしられる。


──違う、違うはずなのに。

 けれど、その言葉に縋りたくなる自分がいる。エル兄の痕跡が、この人(ヴァズリー)に残っているのなら、この身を差し出しても良いとさえ思えてしまうのだから、どうかしている。


「……返して」

 絞り出した声は、不意に湧いたものだった。何故そんな言葉を投げかけたのか、自分でもわからなかった。


 彼は私の手首を取って、グッと体を引き寄せた。

「何を? お兄ちゃんの記憶? それとも──、アンタの心?」


 指同士を絡められ、額が触れそうなほど近くで囁かれて、呼吸が止まる。そのまま、再び唇が触れそうになった、その瞬間。


 「彼女から、離れろ」


 低い声が空気を裂いた。


 はっとして振り返る。そこには、影のように立つ男の姿があった。鋭い双眸がこちらを射抜く。

 氷の刃のように冷たいその眼差しに、私は息を呑んだ。


「ロイ……」


 声が震える。罪を見つかった子供のように、胸の奥がざわめいた。


 彼はゆっくりと歩み寄る。足音は静かだが、確かな圧をもって近づいてくる。

 私の正面にいた“23(ヴァズリー)”は面白げに肩を竦め、挑発的に笑んだ。


「あーあ、アンタの保護者? 見つかっちゃったね」


 ロイの眼差しがさらに鋭さを増す。おそらく彼は、私の唇に残る赤み、震える身体、そのすべてを確認して、23(ヴァズリー)を敵と見なしたのだ。胸が締め付けられる。言い訳を探そうとしても、喉が乾いて言葉が出ない。


「離れろと言っている」


 ロイの迫力にも臆することなく、ただ面倒臭そうに、23(ヴァズリー)は軽やかに手を上げると、半歩退いて私を解放した。


「怖いな。せっかく“妹”に会えたと思ったのに」


 口元には、わざとらしい笑みを浮かべたまま、23(ヴァズリー)は言った。


「じゃあまたね、“アリシア”」


 “エル兄”を思い起こさせる優しい声音を残し、彼は群衆の中に溶けていった。


 完全に感情の手綱を手放した私を、ロイは困った様子で眺めている。


 私は慌てて首を振り、ロイの袖を掴んだ。


「ロイ、お願いします。今のこと、どうか“ヨルカ”には……」


 言葉はそこで詰まり、視界に涙がにじむ。羞恥と恐怖、そして名づけようのない焦燥に押し潰されそうになりながら、私はただ縋るようにロイを見上げた。


 このとき、クラージュ様に心を探られることよりも、エル兄の捜索を中止させられる恐怖のほうが勝っていた。その時点で、私の心はすでに定まっていたのだと、あとになって気づく。


「……“ノア”さん」


 しばし沈黙ののち、ロイは深く息を吐いた。困惑と同時に、どこか諦念を帯びた眼差しで私を見下ろしている。


「貴女の御身は、貴女が自覚されている以上に大切なものなのです。本当は、すべてあの方にお伝えすべきなのでしょうが……」


 彼は口元を片手で覆い、視線を泳がせた。


「……貴女も大分混乱されているようです。迷わず殿下(かれ)に添い遂げると決めていただきたかったのですが、仕方ありません。あの方にも、今はあまり心を乱してほしくない。ですから、もう少しだけ猶予を差し上げます」


 そう言って苦笑を滲ませるロイの声音は、不思議とやわらかかった。

 胸の奥に澱んでいた羞恥と恐怖が、ひとときだけ和らいでいく。


「ただし」


 ロイの表情が引き締まる。袖を掴む私の手にちらと視線を落とし、低い声で告げた。


「……殿下(あの方)に害が及ぶようなことがあれば、ボクは迷わずアイツを殺します」


 私は涙を堪えながら、固く拳を握りしめた。


ロイ登場エピ=ep14〜15、23


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