29.壊された“兄”の影
ゲイルを避けるため、かつてエル兄の現れた茶屋には近づけなかった。エル兄の“雇い主”に関して、ロイが数人見当をつけてくれたが、その屋敷の周辺を張り込んでも、彼を見つけることは叶わなかった。捜索は難航し、手がかりらしい手がかりもないまま日々が過ぎていた。
けれど、時は来た。
その日はジルベール王の生誕祭だった。街道では華やかなパレードが行われ、町は人々のざわめきに包まれていた。本気で祝おうとしている民は皆無だが、礼を尽くさねば不敬とされる。街道沿いを埋め尽くす人並みの中に──私は彼の、背中を見た。
私は息を呑んで駆け出した。
「……エル兄!」
ざわめきの中を縫うように、追いかけて、追いかけて。裏路地の突き当たりでふと気配が薄くなった影の腕を、荒く息をつきながら掴み取る。
「……気配は消したつもりなんだけど」
「何回……ッ、かくれんぼしたと思ってるの、エル兄と!」
今日も彼は瞳だけが見えるように外套を身体にまとわせている。けれど、怪訝そうに眉を寄せたのが雰囲気でわかった。じっと私を見つめたあと、エル兄は思い出したように声を発した。
「……アンタ、あの時オッサンと話してた女か」
「やっぱり、記憶……ないの?」
想定していた最悪のパターンだ。私の心に冷たいものが走った。
「“オレ”を追ってきて、なんのつもり?」
「エル兄を迎えに来たの! 一緒に帰ろう? 私、アリシアだよ。エル兄……エルネスト・レジェの妹だよ!」
必死に名を呼ぶ。しかし返ってきたのは、突き放すような声だった。
「……人違いじゃないの? オレには家族なんていない」
「違う、見間違えるわけない! エル兄は私の父さんに引き取られたの。イヴォン・レジェ。覚えてない? エル兄はずっと私を護ってくれてたの……!」
私の訴えにもエル兄はこめかみを押さえ、顔をしかめるだけだった。
「うるさ……頭、痛ぇ。……てかアンタ、貴族かなんか? 護衛2人もはりつけて。まぁ今は撒かれたみたいだし、大した能力でもなさそうだけど。オレ、貴族って大ッキライなんだよね。金くれるなら、なんでもするけどさ」
その軽薄な言葉が、かつての誇り高く、優しい兄の面影と一致することはない。けれど私は11と18を知っていた。『彼らのように、エル兄が貧民のまま暮らしていたら』──その視点をくれたのは、クラージュ様だ。
「もしかして、23?」
その言葉に、エル兄ははたと動きを止めて、私をじっくりと見つめた。
「あれ? 知ってんの」
「エル兄の、昔の名前」
ふーん、と呟いたエル兄が薄く笑った。
「ホントなんだ。記憶がない時期のオレ、貴族に飼い慣らされてたのかよ、ダッセェ」
「飼ってたわけでも、貴族として暮らしてたわけでもないよ! 私たちは平凡……とはいえないかもしれないけど、ちゃんと家族として……」
「家族ねぇ……、クソ喰らえ。“ちゃんと家族として暮らしてた”なら、何でオレは今、こうなってるんだよ。どうせ、アンタらが生活に困って捨てたんだろ」
「違……っ」
否定したいのに。弁解の言葉がうまく出てこない私を、ぐっと睨んだその目は、昔の面差しを残していながら知らない色を帯びていた。苛立ちと、冷淡と、どこか諦めたような影。
そして、私の必死さを嘲笑うように、彼はふっと息を吐いた。
「ホント、バカみてぇ。アンタ、家族として“オレ”が好きだったんだ?」
「当たり前でしょ! 記憶がなくたって、エル兄は私のお兄ちゃんだもん。過去形じゃない、今だって大好きだよ」
「──じゃあ、アンタの大好きな“エル兄”。ブッ壊してやるよ」
その声と同時に、エル兄の鼻から下を覆っていた布がするりと外される。露わになった口元を懐かしむ間もなく、彼の端正な顔が目の前に迫った。
頬を固定され、抵抗する暇もなく、唇が重なる。
「……っ!?」
熱く鋭い衝撃が、触れた瞬間に胸の奥まで走った。
強引で荒っぽいのに、頬を包む指に懐かしい優しさが微かに混ざっていて、心臓がギリギリと、痛く絞られる感覚に襲われる。
「キレーな顔して、偽善述べてるやつが一番むかつく」
低く囁く声が、唇の隙間に熱を落としていく。
「そんなにオレといたいなら、アンタも汚いとこに堕ちればいい」
切なくて苦しい、今までに感じたことのない胸の痛みに、私は息をすることすら忘れかけていた。




