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「僕を忘れろ」と言った義兄が忘れられません【連載版】  作者: 矢井瀬 月


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21.感情の表出


 翌日。クラージュ様は朝早くから出かけていった。もう数日王都に滞在し、支援者たちに現状報告した上で、今後の方針を話し合うとのこと。


 私の方はというと、ただ待っているのがもどかしくて、簡単な変装を施し、ひとりで都の様子を探りに出ることにした。


 マチルダさん特製の染め粉で髪を茶色に染め、地味な布地の衣服を纏う。化粧で顔の印象を変え、普段よりも落ち着いた雰囲気に仕上げてある。


 王都の市場には人の姿こそあったが、何もかもが“最低限”だった。暮らしは、かろうじて回っている……ただ、それだけ。


 しばらく往来を歩いた後、私は露店の近くにある木陰の段差に腰を下ろした。


 エル兄の足取り。国側の動向。

 何でもいいから拾える情報はないかと、人の話に耳を澄ませていた。そんな時だった。


 不意に、肩に手を回される。


「君、ひとり? 俺と遊ぼうよ」


 甘ったるい声に、眉を顰めて振り向けば、唇の端に自信ありげな笑みを貼り付けた、軽薄そうな男が立っていた。明らかに遊び慣れている様子だ。


「結構です」


 そう言って身体を引こうとするが、男はあろうことか私に密着し、ぐいと腰を引き寄せてくる。


「いいじゃん、ちょっとだけ」

「……やめてください」


 苛立ち混じりの声で拒んだその瞬間、通りの向こうから、兵士の声が飛んできた。


「またサボりかよ、ゲイル!」


 私の隣にいた男──ゲイル、と呼ばれたその人は舌打ちし、不機嫌そうに顔をしかめた。


「チッ、タイミング悪ぃ……」


 そして名残惜しげに私から離れると、艶っぽい目で笑ってこう言った。


「君、めちゃくちゃ俺の好み。また会ったら、今度こそ遊んでね」


 軽い口調を残して、ゲイルは悠々と去っていった。

 その背中を目で追いながら、私は昨夜の会話を思い出していた。


(ゲイル……って、もしかして……)



 その夜、クラージュ様が隠れ家へ戻ってくるなり、私はすぐに彼の元へ駆け寄った。


「クラージュ様! お話があります」


 私の真剣な顔を見て、彼は気配を読むように目を細めた。


「何があった?」


「今日、都で情報を集めていたとき……“ゲイル”という男に声をかけられました。しつこく絡んできて……。でも、すぐに同僚らしき兵士が来て去っていきました」


「……ゲイル?」


 クラージュ様の声がわずかに低くなる。やはり彼も、昨夜の話を思い出したらしい。


「赤茶色の髪に同色の瞳で筋肉質。女慣れした軽薄な男でした。“ゲイル”で“兵士”なら可能性は高いかと」


 私が真剣に告げると、クラージュ様の眉間に深い皺が刻まれた。


「……アリシア、その男に何かされたか」


「いえ、肩と腰に腕を回されたぐらいです」


 私は身を乗り出すようにして言った。


「これは好機なのではないでしょうか。彼に近づいて、情報を引き出せれば──」


「……アリシア」


 私の言葉を、クラージュ様が遮るように呼ぶ。


「お前……何を考えている。男と女の力の差を知らぬわけではあるまい。どこかに連れ込まれでもしてみろ。誰も助けに行けないかもしれないのだぞ。無茶はするなと言ってあるはずだ」


「でも、クラージュ様──」


「お前は、イヴォンの大事な娘だ。俺にさえ最期まで会わせなかった程に、お前の身を案じていた。あやつの想いを知っているなら、自分を軽んじるな」


 いつになく強い声だった。けれど、私は引かなかった。


「軽んじているつもりはありません。だって、貴方のために出来るかもしれないことが、こんなに近くにあるのに! 私だって、出来る限りクラージュ様のお役に立ちたいんです!」


 必死に訴えた言葉が、空気の中で震えた。


 その瞬間、クラージュ様の表情がかすかに歪んだ。苦しげに眉を寄せ、わずかに視線を落とす。唇が、かすかに動いた。


「……もう既に、役立っている。……俺が、お前の存在に救われていると、そう言ってもか……」


「え……?」


 小さな呟きを拾いきれず、聞き返した私の声に、彼のまなざしが揺れる。だがその答えを待つより先に、突然、両手首が掴まれた。


「──っ!?」


 息を呑む間もなく、背が壁に打ちつけられた。


「……怖いか。相手は兵士だ。俺よりも力が強いかもしれんぞ」


 目の前には、強い切迫を宿した、これまでに見たことのないクラージュ様の顔があった。深い紫紺の瞳が、私の心を射抜くように鋭く光っている。


「これを振りほどいてから言ってみろ」


 低く、抑えた声。逃げようとした足がすくむ。喉が震えて、言葉にならない。

 視線を逸らそうとしたとき、クラージュ様の顔がさらに近づいた。呼吸が、頬にかかる。


 ──接吻(キス)される。


 そう思った瞬間、私はぎゅっと目を閉じた。

 けれど、唇には何も触れなかった。代わりに、彼の囁きが耳元をかすめる。


「もしや、俺を二人目の兄だとでも思っていたか?……違う、男だ。俺はもう、お前を妃にすると決めた」


 凍てつくような静けさの奥に、闇に引き込むかのような暗い熱を孕んだ眼差しが、私を見据えていた。


「他の男の元へ行くのは──たとえ演技でも、許さん」


 そう告げると、クラージュ様は私から静かに手を離した。


 支えを失った脚がふらつき、私はその場にへたり込んだ。まだ、息が整わない。

 目を見開いたまま、私は彼を見上げた。


「クラージュ……様……?」


 けれど彼は、私の問いに何も返さなかった。


 ただ、感情を押し殺したような表情で背を向け、静かに部屋を出ていった。


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