02.義兄、エルネスト②
突然“エルネスト・レジェ”として生きることになった少年は、ずっと奇妙な感覚が拭えなかった。
寝床が与えられ、毎日の食事は三度用意された。ふかふかのベッドが落ち着かなくて、なかなか眠りにつけなかったし、空腹に慣れ切った胃に、味のしっかりとついた食事は重すぎて、受け付けるまでに時間を要した。
年齢も設定され、誕生日まで決められた。
こんな贅沢を覚えさせて、何を企んでいるのだろう。いつ、どんな残酷な状態で放り出すつもりなのかと、疑心暗鬼に陥っていた。
何より彼が気味悪かったのは、家の内部のみならず、商家の客までも“エルネスト”が昔から居た存在のように扱うことだった。
誰もがエルネストに笑顔を向け、親しげに話しかけてきた。
半年経っても警戒を解こうとしないエルネストに、イヴォンはあくまでも余裕をもって接していた。
「そんなに怖がらなくても、なんにもしないのに」
「うまい話には必ず裏があるって、散々教え込まれてきたからな。何企んでる?」
「別にぃ。まあそろそろ慣れてくれればいいなーとは思ってるけど。ひとまず僕が今君に望むことは、アリシアと仲良くなってほしいってことくらいかな」
イヴォンはニッと笑った。
アリシアは、ひたすらに無邪気だった。
朝、顔を合わせれば「おはよー!」と抱きついてくる。
食事中は「これ、おいしいねぇ。エル兄もアーン!」と、スプーンを差し出してくる。
ただただ純粋で、まっすぐな少女だった。
だが、エルネストはそんな彼女が苦手だった。アリシアが何も知らないのは当然なのに、その無知さが、彼の苛立ちを誘った。
彼女の笑顔を厭う自分の心は、どれほど穢れているのだろう。
醜さを突きつけられるようで、彼女の瞳に映る自分を見ることが、ひどく恐ろしかった。
それでもエルネストは、得体の知れないイヴォンの監視下にあった。
“兄”という役割を与えられている以上、それを拒めば、生きることさえ許されないかもしれない。そう危惧して、彼は嫌々“エル兄”を演じていた。
✽
ある日のこと。アリシアが突然散歩に行きたいと言い出した。
「エル兄といきたい」と駄々をこねたので、困ってイヴォンを見上げると、「お願いできる?」と任された。
仕方なく、エルネストはアリシアとふたり、渋々手を繋いで散歩に出かけた。
王都は海を背に築かれた都で、通りを幾筋か抜けていけば、潮風が頬を撫で、寄せる波の音が耳に届く。
海沿いを歩いていると、アリシアは「あ!」と声を上げた。砂浜にキラリと光るものを見つけたようだ。
そこへ向かって駆け下りていったアリシアは、何かを拾い上げると「見てぇ!!」とエルネストの目にそれを近づけた。
深い緑色のシーグラスだった。
太陽の光を反射してキラキラと輝く硝子片を、アリシアはエルネストの瞳と見比べて興奮していた。
「エル兄と、おんなじいろ!」
捻くれていたエルネストは、少し曇ったようなその色を見て鼻で笑った。
「確かに。いい具合に濁ってる」
「にごってるってなぁに? ねえ、ほら! とってもきれい!
あ。みずいろも、はっけん! ありしゃの目のいろ!!」
ふたつのシーグラスを大切そうに握りしめたアリシアを見て、エルネストは何だかギュッと心臓まで掴まれた気がした。
その胸の軋みを誤魔化すように、エルネストはぶっきらぼうに告げた。
「もういいだろ、帰るぞ」
「はーい!」
帰路、アリシアとともに貧民街の近くを通りかかった時。エルネストはふと、あの番号で呼ばれていた仲間たちのことを思い出した。
決して昔に戻りたいわけではない。だが、今の生活はあまりにも居心地が悪くて、自分の居場所や在り方がわからなくなる。
喉の奥に、形の定まらない苦さがじわりと広がっていった。
そのとき、アリシアの手からシーグラスが落ちた。
「あっ! エル兄のガラス!」
そう叫んでアリシアは深緑の硝子片を追いかけて走り出した。
「おい、そんなのどうでもいいから離れると……」
危ないぞ、と言いかけた口を噤んだ。黒い感情がエルネストの心に湧き上がる。
──危ない目に? 遭えばいい──
──別に世話する義理もないし──
エルネストはその場から逃げ出した。少しでも立ち止まると罪悪感に駆られそうで、ひたすらに走った。走って走って辿り着いたのは、何故か先程の海岸だった。
「なんで、ここに」
この場所に来た理由が自分でも解らず、エルネストは茫然と立ち尽くした。
貧民街に戻ろうにも、今のエルネストは身綺麗すぎた。身包みを剥がされて散々に痛めつけられる未来は目に見えている。かといって、レジェ家に戻れるはずもない。
「最低だ、オレ」
何だかもう、生きている理由も見出だせなくて、エルネストは海に足を踏み入れた。濁った水面が自分を呼んでいるように感じた。深く沈めば楽になれるだろうか? そう思って、もう一歩踏み出した時だった。
既視感のある温もりに、手首を掴まれた。
振り向くと、イヴォンだった。
「バカ野郎!」
初めてイヴォンから平手をくらったけれど、エルネストは当然の事だと受け入れた。
「すみません」
俯いて淡々と謝ると、イヴォンがしゃがみこみ、目線を合わせてくる。
「何に対して僕が怒っているかわかる?」
そんなことは決まっている。
「アリシアを置いていったこと」
「だけじゃない!」
そう言ってイヴォンはエルネストを抱き締めた。
「アリシアだけじゃない。エルネストも僕の子なんだ! 心配するだろうが!」
こんなの知らない、とエルネストは思った。
知りたくなかった。知ったらもう離れられないじゃないか。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
繰り返すうちに涙が溢れて止まらなくなった。幾度も頭を撫でてもらって落ち着いてくると、ようやく彼女のことを思い出した。
「アリシア!! そうだ、オレ……!」
エルネストがハッと顔をあげてイヴォンを見ると、イヴォンは気まずそうに言った。
「アリシアなら大丈夫。初めての子供だけのおでかけなんて不安でいっぱいでさ、こっそり跡を付けてたんだよねー。もう使用人が連れて帰ってる」
かわいこぶって舌を出す中年男を見て、エルネストは思わず、泣きながら笑った。
「だから帰ろう。アリシアも待ってるよ」
差し出した手を、エルネストは初めて素直に受け入れた。
「ごめんなさい。それと……ありがとう、父さん」
ふおおおおん、と変な雄叫びをあげて、嬉しそうに目を潤ませたイヴォンは、エルネストを再び抱き締めた。
エルネストは照れ臭くて、緩む表情をイヴォンの肩に埋めて隠した。
イヴォン主導の元、繋いだ手をブンブンと振りながらスキップして帰る不思議な父子を、街の人たちは生温かい目で見守ったのだった。
✽
レジェ家に着くと、アリシアがトタトタと走ってきて、二人を出迎えた。
「パパー! エル兄、おかえりなさい!」
いつもと変わりない様子のアリシアを見て、エルネストは胸を撫で下ろした。
「ごめん、ごめんね。アリシア」
神妙な表情で謝るエルネストに、アリシアはフフッと笑って言った。
「エル兄ってば、まいごになったんでしょー? おドジさんだね。きをつけなきゃだめだよ!」
妙にお姉さんぶるアリシアに、エルネストはもう一度「ごめん」と謝った。
「あ、エル兄! ちゃんと見つけたの。エル兄のガラス」
ほら、と見せられたアリシアの手に乗る深緑色のシーグラスを、今度は綺麗だと思うことができた自分に、エルネストは驚いた。
「でー。こっちが、ありしゃのガラスでしょ? こうかんこして持ってよーね」
「交換?」
「うん、そう! もう、まいごにならないように」
「これ持ってたら迷子にならないの?」
「だってね、こうかんこした目のガラス持ってたら、なかよしさんってことでしょ?
もしエル兄が、またまいごになっても、ありしゃと、ぜったい会えるおまじない、かけておくね!」
アリシアは何やらむにゃむにゃと呪文のようなものを唱えながら、ふたつのガラスをギュッと抱きしめた。
「ずっといっしょだよ!」
はい、と目を輝かせながら空色の硝子片を手渡してきたアリシアを、エルネストは初めて自ら抱き寄せた。
「アリシア、ずっと一緒にいてくれるの?」
「あたりまえだよ!」
ニコニコと笑うアリシアを、エルネストはどうしようもなく愛しいと思った。初めて芽生えた感情だった。
「ありがとう、アリシア。じゃあ “僕”がずっと君を護るね」