17.レジェ兄妹との初対面(クラージュ視点)
エルネスト・レジェ。
その名を聞いたことは、何度もあった。
イヴォンが、やたらと“息子”として自慢げに話す男。アリシアを護るために拾い、育て、仕込んだ、元孤児の少年。
実際、彼はすでに完全に、家族の一員としてレジェ家に馴染んでいるようだった。
彼と初めて顔を合わせたのは、隠れ家の応接間だった。父王が病床に伏したと、まことしやかに囁かれ始めた、イヴォンと出会って5年ほど経った頃のことだ。
イヴォンに伴われて入ってきたエルネストは、部屋に足を踏み入れるなり、迷いなく膝を折り、穏やかな声音で名乗った。
「クラージュ殿下。お初にお目にかかります。エルネスト・レジェと申します」
その所作には無駄がなく、跪いた姿勢ひとつとっても、鍛え抜かれた者ならではの静かな緊張が感じられた。
「殿下。エルネストにはすべてを話しております。私が言うのもなんですが、頼れる息子です。何なりとお申し付けください」
イヴォンの言葉に促され、エルネストは顔を上げた。俺は、その瞳に目を引かれた。
まっすぐに俺を見据える碧色の眼差しは、“この男もまた、世の闇を知っている”……そう直感させるだけの影を宿していた。そして、その視線に込められていたのは単なる忠誠心だけではない。見定めようとする意志、そしてその奥底には、おそらく本人すらまだ気づいていない、揺れ動く感情の気配があった。
しばしの間、言葉のない沈黙が流れた。まるでイヴォンと実の親子のように信頼し合う彼に、俺は正直なところ、いくばくかの嫉妬を覚えていたのだと思う。
「……お前が、俺の婚約者の“義兄”か」
ふと、そんな言葉が口をついた。その瞬間、彼の瞳にかすかな揺らぎが生じた。
「はい。……彼女の安全こそが、私の第一の務めでございます」
努めて平静を装っているのは明白だった。
言葉にしきれぬ何かを抑え込むように、彼は再び頭を垂れる。
自分でも整理のつかぬ感情に、わずかに動揺している──そう見て取れた。
(今、この瞬間に、自覚したか)
その表情は、とても“兄”が浮かべるようなものではなかった。
俺は、未だ会ったこともない少女に対して、知らず知らずのうちに、独占欲めいた感情を募らせていた。
✽
それから時が経ち、世の乱れが加速する中で、イヴォンを中心とした革命計画が本格的に始動した。
エルネストは参謀格として手腕を発揮し、貧民街をまとめ上げ、人員の確保、物資の調達、同志の潜伏先の分散に至るまで、実務のあらゆる面で目覚ましい働きを見せた。
理性的で冷静な指揮官としてイヴォンにも重用され、俺にとっても、自然と信頼を寄せる片腕の一人となっていた。
──そして、決行前夜。
俺は都の隠れ家で待機していた。翌日、ジルベールを無事に拘束した暁には、速やかに政権交代を布告する段取りとなっていた。
そのとき、ロイが駆け込んできた。レジェ家に付けていた護衛が倒れていたという。
胸騒ぎを覚えて急行したものの、レジェ家の家屋にいるはずのアリシアの姿が見えない。
逸る気持ちを抑えながら、俺は“ヨルカ”として集会が行われているはずの山へと急ぎ向かった。
すると、そこで目にしたのは、想定を大きく外れた惨状だった。
闇に包まれた山中。
焼け焦げた帷幕。倒れ伏す戦士たち。
空気は油と鉄、そして血の匂いに満ちていた。風がそれらを遠くへと運んでゆく。
「……襲撃だ。奇襲を受けた」
まだ息のある同志が、かすれた声でそう呟いた。
俺は生存者を求めて駆け回り、そしてついに衛兵に追われるエルネストとアリシアの姿を見つけた。
矢をつがえ、俺は即座に1人の衛兵を射抜くと、周りを見渡す数人を斬り伏せた。
「状況を!」
駆け寄ると、エルネストが肩で息をしつつ答えた。
「……父は、討たれました。生き残りは殆ど……、けれど、アリシアだけは……」
その腹には矢が深く刺さっていた。
脂汗をかきながら、それでも彼は、妹を庇うように周囲を警戒している。
「今の僕ではおふたりの足手まといになります。だから、……囮になります」
そう小声で俺に告げたエルネストは、アリシアの頬を優しくひと撫でした。
「アリシア。僕は君の本当の兄ではないから。──僕のことなど忘れて、生きろ」
そうしてエルネストは、自らの全体重を込めて彼女の身体を突き飛ばした。
「ヨルカ! 頼む」
俺は迷わず駆け寄り、彼女を受け止めた。この場に留まれば、全員が危険だ。ならば、俺がすべきことはただひとつ。
俺はアリシアを肩に担ぎ上げた。
「嫌! 嫌だ!! 離して!!!! エル兄ッ」
身体を暴れさせ、金切り声を上げるアリシアを、俺は黙って押さえつける。 このままでは見つかると判断し、後頭部に手刀を打ち込んだ。
瞬間、彼女の身体が弛緩した。
そのまま、俺は振り返ることなく駆け出した。闇の中を、音もなく。やがて背後に響いた怒号は、進行方向とは逆に、次第に遠ざかっていった。
振り向くな。立ち止まるな。 今は、彼の選択に報いるしかない。こんな形で初対面を果たすとは想像だにしなかったイヴォンの娘を担ぎながら、俺はただ前を見据えて走り続けた。
その夜は、同じ山中にある、俺とイヴォンが数年かけて少しずつ中を整えた拠点に身を潜めた。アリシアを小さなベッドに横たえると、彼女は魘されるようにうわ言を漏らした。俺はその手を握ってやりながら、思考を巡らせる。
奇襲……なぜ察知された。どこで、誰から漏れたのか。
幼少期から、王宮で幾度となく陥れられてきた記憶が、俺を容赦なく疑心暗鬼へと引きずり込む。
ロイが、実は二重スパイだったのではないか。
サフィアの娼館に、敵の密偵が紛れていたのでは。
イヴォンの顧客のあの男、今となってはやけに胡散臭い。
思考が暗い渦に呑まれそうになり、頭を冷やそうと、部屋を出た。
水瓶に溜めた水で顔を洗い、自分を引き締めてから部屋に戻ると──
アリシアが、過呼吸を起こしていた。
涙を流し、喉の奥で息を詰め、酸素を求めるように胸を掻き毟りながら藻掻いている。
俺は迷わずベッドに膝をつき、彼女の顔を両手で支えると、震える唇に自分の唇を重ねた。
荒い吐息が俺の口の中に流れ込み、代わりに、俺の呼吸が彼女の肺へと届いていく。
苦しみの中で俺にしがみつく彼女の手には、切実な力がこもっていた。
落ち着け──そう念じながら、背をゆっくりと擦り、ただ無言のまま、深く息を繋ぎ続ける。
やがて、彼女の震えが少しずつ静まっていくのを感じた。
今や、誰も容易に信じられぬ混乱の只中で。
頼る者を失い、ひとり残されたこの娘に、俺は自分勝手にも救いを求めていたのかもしれない。
彼女が正気を取り戻し、空色の瞳に俺の姿が映ったその刹那。
この切迫した状況で、鼓動の高鳴りがやけに耳に障るほど大きく響いたのに、俺は気がつかない振りをした。




