15.クラージュの過去②(三人称視点)
クラージュが馬車から降りると、どこからか現れた自分と背格好の似た男が、すぐさまその馬車に乗り込んだ。引き綱を握るのもまた、ロイによく似た風貌の男だ。二人を乗せた馬車は何事もなかったように揺れ、静かに街道を進んでいった。
何が起きているのかをクラージュが理解する前に、ロイはクラージュの頭に外套を深く被せた。
「こちらです。説明は後できちんといたしますから。……今から貴方は、“ヨルカ”です」
いつもの軽薄さの影もなく、ロイの顔は真剣そのものだった。その気迫に呑まれつつ、クラージュは内心の混乱を押し込めて、一言も発さず彼の後を追った。
ロイに連れて来られたのは、繁華街の一角にひっそりと佇む、古ぼけた娼館だった。
「……娼館?」
まさかこの男は、真剣な顔で罪人を連れ出したかと思えば、都での最後の夜遊びを決め込むつもりだったのか。それともここで衛兵でも呼び、自分を陥れるつもりか。
どちらにしても碌でもない考えしか浮かばず、クラージュの眉間に深い皺が寄る。
その横で、ロイはすっかり軽薄な調子を取り戻し、楽しげに彼の肩に腕を回してきた。
「今日はどの女にしようかなぁ? うーん、決めた。俺はリリーちゃん! ヨルカはサフィアお姉様なんかいいんじゃないか? 初めてなら手ほどきしてもらえよ~」
「は……!? お前、いい加減に……」
怒鳴りかけたその瞬間、ロイが彼の耳元で素早く囁いた。
「シッ。合わせて」
その声音は低く鋭く、有無を言わさぬ威圧を孕んでいた。クラージュは思わず言葉を飲み込み、眉をひそめたまま頷く。たとえ状況が掴めずとも今は従うべきだと、直感が告げた。
ロイは何事もなかったかのように顔をほころばせると、再び間延びした陽気な声で店内に呼びかけた。
「こんばんはぁ、今日も来ちゃったよ〜! サフィアお姉様にリリーちゃんでよろしくぅ!」
明るい声が店の奥へと響いていく。
すると、重たいベルの音がひとつ鳴り、続いて奥のカーテンがゆっくりと開いた。
現れたのは、紅を溶かしたような艶やかな赤髪の女だった。豊かな曲線を湛えたその身に、緋色のドレスが絡みつくように揺れている。
「まあ、ロイ。ふふ……また来たの? 本当に好きねぇ。それに今夜は、可愛いお友達まで連れてきたのね?」
女は濡れたような眼差しでロイとクラージュを見つめ、口元に意味深な笑みを浮かべる。
「他のお客様もいらしているけれど、特別にふたりとも愉しませてあげるわ。リリーは今日いないの。でもロイも私が面倒見てあげる。ゆっくり、楽しんでいって」
サフィアは妖艶な微笑を湛えたまま、くるりと身を翻し、ドレスの裾を滑らせながら奥の階段へと先導した。
「ヒュ〜〜!」と一度口笛を吹いたロイは、ヨルカに「よっしゃ、楽しもうぜぇ!」と笑みを投げかけ、軽く背を押す。
階段は軋む音を立てながら、地下へと続いていた。薄暗い通路を抜けると、行き止まりに古びた壁──と、思しきものが現れる。だがサフィアが壁の一部に手をかけ、ある手順で木枠を押し込むと、音もなく横にずれた。
現れたのは、広い石造りの地下室だった。
ろうそくの灯りが点々と揺らめき、壁には地図や文書、印のついた旗がかかっている。
その中心に、齢40ほどの男が一人、静かに立っていた。
「クラージュ殿下……! 手配が間に合って、本当によかったです」
男は安堵のあまり、今にも涙を零しそうな面持ちで、クラージュの前に跪いた。
クラージュは、その顔に見覚えがなかった。
「お前は……何者だ?」
静かに問いかけると、男は深く頭を垂れ、名乗った。
「クラージュ殿下にはお初にお目通りいたします。私の名は、イヴォン・レジェと申します」
深く頭を垂れたままのその男に、クラージュは眉をひそめた。
「……レジェ? 聞き覚えのない名だな」
「当然でございます。私は王家の記録には残らぬ者。……一応、平民にございますゆえ」
イヴォンは顔を上げ、まっすぐにクラージュを見据えた。その瞳には、恐れも躊躇いもなく、強い意志を秘めているように見えた。
「……ただの平民には見えんな。なぜ、俺を迎えに来た?」
クラージュの問いに、イヴォンは静かに言葉を重ねた。
「その前に、殿下にお伺いしたいことがございます。この国の現状、そして、次代の王がジルベール王太子殿下であることを、どうお考えでしょうか」
男の声は落ち着いている。ただ、深く静かな問いだった。
だがクラージュはすぐに察する。
この男は、答えによって語るか否かを決めるつもりなのだ。命を賭けるに値する相手か、それを“見極め”ようとしている。
クラージュは目を細め、短く息をついた。
「こちらの問いに答える前に条件を突きつけるとは、大した度胸だな。……だが、いいだろう。偽りなく応じる」
ゆっくりと、クラージュは言葉を紡ぐ。
「兄は、王の器ではない。
人の上に立つには、誇りも、義も、慈しみも足りん。民のためではなく、己のために王冠を望んでいる。欲望を満たすためなら、どんな手でも使う。あれが王になれば、いずれ確実に世は乱れるだろう」
淡々と語るその声には、透徹した諦念と冷静な観察があった。
「だが、俺にはどうすることもできん。父王には疎まれ、王族としての資格もすでに失った。
ジルベールは権力者たちに巧みに取り入り、既に掌握している。今や、俺に与する力ある者など、……ひとりとしておらぬ」
重苦しい沈黙が落ちる。
やがて、イヴォンは穏やかな微笑を浮かべると、まっすぐにクラージュを見つめた。
「ありがとうございます。その御言葉を聞けたことで、私のなすべき道が定まりました」
そう言って背筋を正し、跪いたまま、今一度深く頭を垂れる。
そして、熱を帯びた凛然たる声で、宣誓の言葉を告げた。
「我ら、“影の一族”レジェ家──ならびに、その志を同じくする者たちは、崇高なる初代国王のご遺志を胸に、クラージュ殿下こそ、我らが唯一の主君と定め、命を賭してその御志に従い、この国に変革をもたらすことを、ここに誓い申し上げます」
イヴォンの礼を合図に、ロイも、サフィアも、無言のままクラージュの前に跪いた。
思わず息を呑む。
まさか、このような場所で。初対面の男と娼婦、更には兄の腰巾着だと信じていた者に忠誠を誓われるとは──。
クラージュはわずかに目を見開き、身じろぎもできずに三人を見下ろしていた。




