01.義兄、エルネスト①
「アリシア。僕は君の本当の兄ではないから。──僕のことなど忘れて、生きろ」
兄、エルネストは苦しげに顔を歪めながら私に告げた。鬱蒼と草木の茂る山中の暗がりの中、追っ手の松明がじわじわと迫り、視界の端に赤い灯が浮かび始めている。
切なく撫でられた頬に、私は茫然と手をやった。何を言っているのか理解できずに困惑する私を、兄は渾身の力で突き飛ばした。
「ヨルカ! 頼む」
ヨルカと呼ばれた男は、感情の読み取れない表情のまま頷くと、私を肩に担ぎ上げて、険しい山道を走り出した。
「嫌! 嫌だ!! 離して!!!! エル兄ッ」
引き離されたくなくて。それならいっそ死んだ方がマシだと思って、私は必死に暴れて大声で兄を呼んだ。
けれどその瞬間、首の後ろに鋭い衝撃が走り、私はそのまま意識を失った。
✽✽✽
エルネストは己の腹に刺さったままの矢を忌々しげに握りしめた。追手の持つ灯りが近づいている。大事なあの子が逃げ切るまで、自分が時間を稼がなければ……。
彼は矢を力任せに引き抜くと、ヨルカらの進行方向と逆側へ、わざと血を散らしながら進んだ。
「アリシア……」
左耳を飾る硝子片に触れ、荒くなる息とともに少女の名を呟けば、途切れそうな意識も浮上した。
重い体を引き摺りながら行き着いた先は低い崖だった。真下には川が見える。ここに身を投げ込めばきっと、自分たちの安否は暫く敵にも摑めないだろう。
ふ、と息を洩らすと同時に、赤い雫がつうっと口元を伝い落ちた。
アリシアの人生は、この先どれほどの波乱に満ちるのだろうか。
何も知らずにいてほしかった。これからもずっと自分が傍で見守っていきたかった。そんな想いが彼の目頭を熱くした。
エルネストは、彼らの代わりとなる重たい岩を二つ選ぶと、最期の力を振り絞り、なるべく大きな水音がたつように川へと蹴り飛ばした。
ドボン、ドボン、と二度鳴ったその音に反応し、駆けつけた衛兵たちを挑発するように、エルネストは奴らを見据え、ゆっくりと中指を立てた。
「バイバイ、アリシア」
──ドボン──
エルネストの体が水面に打ち付けられる音が、夜の静寂を裂いた。崖の先にいくつもの血痕だけを残し、彼は消えた。
衛兵たちが慌てて川を捜索したものの、その流れは広大だった。結局、彼らは遺留品ひとつ見つけられぬまま、退却していった。
✽✽✽
エルネストには昔、名前が無かった。
物心がついたときには既に、彼に血縁の家族はいなかった。貧民街で、同じく家族がいない子供たちと身を寄せ合って暮らしていた。
そこに行き着いた順のナンバー、“23”が彼の呼び名だった。
年長者指導の元、生き残る術としてスリやひったくり、万引きを覚えた。犯罪の依頼を受ける者もいた。
幾度失敗して体罰を受けても、それしか金を手に入れる方法を知らない子供たちは、その技を磨くしかなかった。
23が推定6歳に見られる頃には、彼はこの世界で頭角を現し始めていた。
気配の消し方も、まるで手品のように物を掠め取る技術も、他の子供たちとは比較にならないくらい鮮やかなものだった。
彼の手腕で“稼ぎ”が増えたと褒められ、「お前は英雄だ」などと持て囃されて、23は完全に天狗になっていた。
そんなある日のことだった。市場に出た23は、いかにも裕福そうな男がカバンの口を開けたまま歩いているのを発見した。
男はニコニコと嬉しそうに周囲を見回しており、まさに隙だらけだった。
当然のごとく、その男に狙いをつけた23は、いつものように獲物のカバンに自然な動きで腕を滑り込ませた。
だが次の瞬間、思いもよらぬ強い力が、彼の手首をがっちりと掴んだ。
慌てて振り解こうにも敵わず、脛を蹴っても相手はビクともしない。青褪めたまま逃げようと藻掻く少年を、男は余裕の表情で一瞥した。
「ふーん……? こっちにおいで」
体罰だ。慣れているとはいえ、痛いのはやはり嫌だった。
「ごめんなさい、もうしません。許して下さい」
心にもない謝罪を並べながら、23は何とかこの場から逃れようと必死に暴れた。
けれど気づけば、いつの間にか見知らぬ家屋の風呂場へと放り込まれ、ぬるま湯をかけられ、体中を念入りに擦られ、拭かれていた。
訳も分からぬまま茫然と立ち尽くしていると、眼前で刃物が銀色の閃きを放つのが見えた。
まさか体罰どころか斬首なのかと、恐怖に駆られて思わず目を閉じる。ザクリ、と音がして、何かが切られた感覚があった。しかし何処も痛まない。
おそるおそる瞼を持ち上げると、いつもより視界が明るいのに気づいた。前髪を切られたようだ、と理解した頃には、既に後ろ髪も切り揃えられていた。
「うん、いいね。毛だらけだからもう一回流そうか〜」
脳天気な男の声に従う使用人達が、忙しなく少年の身なりを整えていく。
あれよあれよという間に身綺麗にされた23は、訳がわからないまま、気がつくと男の前に、机を挟んで座っていた。
「名前は?」
「……」
「歳は?」
「……」
「まあ何だっていいんだけど。警戒心すごいなぁ」
あはは、と男は笑って頬を掻いた。
「じゃあ僕から自己紹介。イヴォン・レジェだよ、商人やってる。君をここに連れてきたのは、お願いがあるからなんだよねー」
「……? 仕事の依頼か?」
「あ、口きいてくれた!」
訝しがる少年に対し、イヴォンは人好きのする笑みを浮かべた。
「ここにつれてきた理由、体罰だと思ったかな? びっくりさせてごめんね。ああ、でももっとびっくりするかも。君ってさ、家族いる?」
「……」
「居ないと見越して言うけど。君、僕の息子になってよ」
「……はっ?」
余りにも驚いた23は、警戒も忘れて口を開いた。
「意味わかんねぇ。普通、体罰だろ。息子ってアンタの子? なんで?」
「君の手並みが良かったから。色々と教え甲斐ありそう」
「?」
「僕さぁ、めちゃくちゃ可愛い一人娘がいるの。もうすぐ3歳なんだけどさぁ。会ってくれる?」
そう言って彼は奥の部屋に向かって、
「アリシアー、おいでー!」
と叫んだ。
「パパ! おかえりなしゃい!」
弾む声とともに、覚束ない足取りで駆けてきた少女は、イヴォンの前で転んだ。イヴォンに助け起こしてもらいながら、彼女は好奇心に満ち溢れた瞳で23を見た。
「パパ、これなぁに?」
「これ何、じゃなくて『この人誰?』だよ」
幼子の言葉を正しながら、イヴォンは少女を自分の膝に乗せた。
「この人はアリシアのお兄ちゃん。“エルネスト”だよ。エル兄って呼んであげて」
「は!?」
否定しようと顔を上げるも、イヴォンの有無を言わさぬ圧力に“エルネスト”は口を閉ざした。
「おにいちゃん!? やったぁ! “ありしゃ”、おにいちゃん、ほしかったの!」
アリシアは嬉しそうにエルネストに笑いかけ、手を差し出した。
「よろしくね! えるにい!」
金持ちの道楽に付き合わされているのだと気づいたエルネストは、冷めた気持ちで少女を見つめた。
真新しい薄桃色のワンピースに、月光のように輝く銀色の髪。艷やかな肌に、苦労を知らない無垢な空色の瞳。
何だかとても憎たらしくて、エルネストは差し出された少女の手を取ることはしなかった。
数字の読み方は造語です。ep.3まで三人称視点が続きます。
性癖全開で頑張ります、よろしくお願いします(,,ᴗ ͜ ᴗ,,)
重い展開もございますが、楽しんでいただけると幸いです。
主要3人の設定画を活動報告にあげましたので、よろしければご覧下さいませ。