【056】カナミの誕生日
おれたちがガラパゴス諸島に上陸してはしゃいでいた頃まで時間を遡る。あちら側のカナミから女性用水着を用意してと言われたものの、一人で選ぶことなんて当然出来ず、そのうえ日本は今、真冬の最中だ。手軽に水着を買うこともかなわず、藁にも縋る思いでこちらのカナミに相談する。
カナミから一日待ってと言われ、素直に頷いたのだが――その翌日、カナミはエレン、ミレーユ、サラスのサイズをきっちり測り準備万端といった様子だ。
「サイズは完璧だと思うで。みんな体形はほとんど変わってないし。後は届くのを待つだけやね。……で、このお礼代わりに今週の土日は空けておいてくれない?」
「いきなりやな……。何か用事でもあるのんか?」
まぁねと、なんだか含みのある言い方をするカナミに首を傾げつつも、予定を空けておくことにした。
そして金曜日。「一泊二日で旅行行くから、準備しといてね」とメッセージを受け取った。
唐突な提案に面食らったものの、土曜の朝には言われるまま集合場所の新大阪駅へと向かった。ホームはすでに旅行客でごった返しており、新幹線に乗り込むと、車内も観光客や家族連れでにぎやかだ。
窓の外を流れる景色を眺めながら、カナミは楽しそうにお菓子をつまんでいる。
「実は東京に行くの、初めてやねん。部活の遠征でいろんなとこ行ったけど、不思議と東京だけは機会がなくって……」
「そうなん? おれも東京は初めてや。二人で迷子にならんか心配やな」
そう笑い合ったが、そんな不安は杞憂だった。東京駅に着いた後、スマホの案内を頼りにスムーズに移動し、迷うことなく浅草にたどり着く。
浅草寺の雷門を背景に人混みに紛れながらも、カナミは終始笑顔だ。仲見世通りでは人形焼きを頬張り、射的に挑戦しては子どものようにはしゃいでいる。その無邪気な姿に、おれも自然と頬が緩んだ。
「ナミリ、見て! スカイツリー! めっちゃ大きい!」
カナミは空に突き刺さるようにそびえる塔を見上げ、目を輝かせて感嘆の声を上げた。その表情は、まるで初めて遺跡を目にしたときのように純粋で、胸の奥まで高揚感が伝わってくるようだった。
夕方、銀座の一角にある高級そうな店に連れていかれる。中に入ると、そこには驚きの人物がいた。
「こちらの世界では、はじめましてですね」
店の奥に立っていたのはポールさんだった。確か、あちらの世界でおれたちと行動を共にしているポールさんは2020年を生きていると言っていたから、ここでは五年先の未来を歩んでいるはずだ。
「未来のことは教えられませんよ。あちら側の歴史が変わってしまいますから」
ポールさんは穏やかな笑みを浮かべながら、グラスにビールを注ぎ、そっとおれたちの前へと差し出した。
「カナミは未成年やから、お酒はアカンやろ」
そう口にすると、彼女は満面の笑みを浮かべて答えた。
「今日が誕生日やからね。無事、二十歳になったんよ」
一瞬、時間が止まったように感じた。あらためて「おめでとう」と告げると、カナミの頬がほんのり赤く染まる。グラスを掲げ、カチリと軽やかな音を立てて乾杯した。
「大人の仲間入りやな」
「うん、これからは一緒にお酒も楽しめるんやね」
「お二人の関西弁が新鮮ですね。あちらでもたまに出ていましたけど」
ポールさんが感慨深げに言うと、カナミが笑みを浮かべて続ける。
「スマホをいじってるときに、ふと気になって『ポール・ノワール』って検索してみたんよ。そしたら、このお店のオーナーシェフの名前が出てきて……。それで、店のメールに『カナミです。もし心当たりがあったら返信ください』って送ったら、ポールさんから返事があって――こっちもほんまにびっくりしましたよ」
カウンター席でポールさんの料理を味わいながら他愛もない会話をしていると、調理の合間にポールさんも雑談に加わってきた。
半身のまひが癒え、再び包丁を握れるようになるまでに三年。その間も、あちらの世界で料理を続けていたおかげで、腕は衰えるどころかむしろ磨きがかかったのだという。しばらくはリハビリを兼ねて以前勤めていた料亭に立ち、経験を積み直した後、ついに一年前にこの店を開いたのだ。
「まだ右手の感覚が若干、鈍るときがあるんですけどね」
苦笑しながら、そう言うポールさんに「右手を見せてください」と言って、ポールさんの右手を手に取ると、そこに『慈悲の力』を注ぎ込む。
「あちらの世界に比べれば十分の一くらいの効果ですが、少しは良くなると思います」
「まさかこちら側で『慈悲の力』のお世話になるとは思っていませんでした」
「良くなるといいですね」
おれとカナミに笑顔で応えたポールさんは厨房の奥から、「お礼に秘蔵の一品を」と貴重な日本酒を持ち出し、おれたちの杯に注いでくれた。
「これはすごいですね。さわやかなフルーツのようです」
カナミもかなり気に入ったのか、あっという間に杯を空けてしまった。自由に飲んでくださいと一升瓶をそのまま置いて行ったが、大丈夫だろうか。ポールさん、カナミが酒豪なのを忘れていないか……。
少し時間が経ち、このままのペースで飲み続けるとカナミの記憶が怪しくなりそうだったから、カバンから箱を取りだしカナミに渡す。
「これ、誕生日プレゼント。さすがに気づいてたで……」
「なんや、バレてたんか。いきなりお酒飲んでびっくりさせようと思ってたんやけどなぁ。さっそく開けてみていい?」
おれが頷く前に、すでに包装を解きにかかっているんだが……。ウキウキで包装を解いていたカナミの手がピタッと止まる。
「ちょっと、ナミリ、これはさすがに……」
現れたのは、フランスの老舗宝石店の直線的で端正なケースが印象的な、シンプルでクラシカルな腕時計だ。
「大けがでまともに動けなかったとき、何か月も励ましてくれて……。どれだけ助けられたか分からへん。それにリハビリまで付き合ってくれて、世話になりっぱなしやった。だから……受け取ってほしいねん」
そう言って時計を手に取り、カナミの腕にそっと巻いてやる。カナミはうっとりと文字盤を見つめ、その目には小さなきらめきが宿っていた。
「おや、これは私の国の老舗ブランドですね。良い選択をされました。カナミさん、一生ものの贈り物になりますよ」
ポールさんがにこやかに褒めると、カナミは恐る恐るおれの顔をのぞき込み、囁くように尋ねた。
「……ねぇ。値段、聞くのがちょっと怖いんやけど……。これ、いくらしたん?」
「まぁ、このところ治療でまとまった報酬をいただくことが多くてな……」
言葉を濁しながら、そっと指を八本立てる。次の瞬間、酒でほんのり赤らんでいたカナミの顔が、みるみる青ざめていったのは言うまでもなかった。
「この時計な、もし別れることになっても返さへんからな」
開き直ったカナミはそのまま酒のペースをさらに上げ、気づけばポールさん秘蔵の日本酒をあっという間に空けてしまった。半ば呆れたように「相変わらずの酒豪ですね」と苦笑しながら、ポールさんは片付けを始め、締めに鯛の炊き込みご飯と味噌汁、漬物を並べてくれた。
「もうお腹いっぱい」と言いながらも、カナミはしっかりと完食。そのまま二人でポールさんの店を後にする。
「ここまで私の体が回復できたのは、あなた方のおかげです。代金は受け取れませんよ。それに今日はカナミさんの誕生日祝いでもありますからね」
頑なに受け取りを拒むポールさんの厚意に甘え、この日はありがたくご馳走になることにした。
タクシーに揺られ、少し高級なシティホテルへ向かう。すっかり出来上がったカナミが運転手に場所を伝えられるか心配だったが、ホテル名を告げるだけで問題なく到着した。
フロントで「余市 華奈美」の名を告げてチェックインを済ませる。その間、カナミはロビーのソファに腰を下ろし、少し上気した頬でぼんやりしていた。
「余市様、二名様で承っております」
スタッフから簡単な設備の説明を受け、鍵を手渡される。
「2702号室でございます。ごゆっくりおくつろぎください」
……ん? 二部屋じゃなくて一室なのか? 思わず確認しようと振り返ったが、カナミはすでに立ち上がり、「さぁ、部屋で飲み直そ!」と上機嫌に言い残し、颯爽とエレベーターへ向かっていったのだった。




