【055】総督のお仕事
二十日以上も村を空けていたのだから、仕事は山積みだ。しかも、来客の対応に加え、エムフィビレの件を聞きつけて押しかけてくる病人までいて大忙しである。
そんな中、おれがまず足を向けたのは、空き家を改築して作った病院だった。留守の間に到着していたクリス・ティーチアスさんが、すでに病人の様子を診てくれているらしい。病院へはミレーユも同行してくれた。
「クリス兄、久しぶりだね」
ミレーユの年上の従弟にあたるクリスさんは、彼女と同じ金髪を持つ、背の高い痩身の男性だ。大きく優しい目はミレーユによく似ているが、その優しげな雰囲気と長身との組み合わせは、急に背だけ伸びた親戚の高校生を思わせる。
急ぎ足で近づいてきたクリスさんに、ミレーユがおれを紹介すると、彼は少し興奮気味に身を乗り出してきた。
「さっそくですが、異世界の書物を拝見してもよろしいでしょうか」
ミレーユは明らかに引いていたが、異世界の書物で釣ってしまった以上、おれに責任がある。そこで用意しておいた、あちらの世界の文庫本を取り出した。
「クリスさんの好みに合うか分かりませんが、まずはこちらをどうぞ」
差し出したのは、ミゲル・デ・セルバンテスの『ドン・キホーテ』。1605年から1615年にかけて書かれた小説で、時代背景もこちらの世界に通じるものがあると思い選んだ作品だ。見慣れぬ薄紙に、均一な文字で印刷されたその書物は、内容以前にその存在自体がすでにクリスさんの好奇心を強く引きつけているようだった。文庫本で四冊にもなる大作だから、当分これで十分だろう。
さっそく本を開こうとするクリスさんは「まずは患者の病状の説明でしょ」とミレーユに促されて、患者について教えてくれた。
クリスさんの説明によると、患者は六名で症状を聞く限りでは、一番多いのは、肺炎や結核と思われる症状が四名だった。また、おそらく脳梗塞の後遺症による半身マヒの症状が一名、アンデット系のモンスターとの戦闘で呪いを受けた者が一名だった。
全員、意識ははっきりしており、今日明日に命の危険が迫っているわけではなかった。クリスさんの白魔導による対症療法が功を奏しているのだろう。
この日は病院全体を包み込むように『慈悲の力』を解き放ち、魔力のありったけを注ぎ込んだ。入院患者たちの治療と同時に、同じ病棟で働くクリスさんの予防も兼ねた処置である。
後でクロスフォードさんに聞いた話では、治療の相場はおおよそ決まっているらしい。肺炎や結核の症状なら金貨一枚、半身マヒは金貨十枚、アンデッドの呪いに至っては銀貨五枚で話がついているという。
「明日から一人ずつ本格的に治療していきます。今日は安静にしていてください」
そう告げ、後のことをクリスさんに任せて庁舎へ戻った。もっとも、すぐに読書にふけろうとする彼に対して、ミレーユが「まずはちゃんと仕事をしてからにしなさい」ときっちり釘を刺していたが。
おれたちの家兼庁舎に戻ると、食堂ではカナミたちがすでにくつろいでいた。テーブルにはカナミのほか、サラス、シャオメイさん、ディオゴさん、そしてレイモンドさんの姿がある。
「ミレーユ! ナミリ! ちょうど今から昼食だよ。一緒に食べよ!」
カナミに見つかってしまったおれとミレーユは、顔を見合わせて苦笑しながら席に着いた。厨房をのぞくと、ポールさんがこちらに向かって軽く手を挙げ、OKサインを出している。どうやら準備は万端らしい。
ポールさんの分も合わせて八人分の昼食がテーブルに並び、和やかな食事になる……はずだった。だが、実際にはレイモンドさんの悩み相談の場となっていた。
「この世界には管楽器がないんです……」
プロのジャズプレイヤーであるレイモンドさんにとって、トランペットやサックスといった管楽器が存在しないのは致命的だった。こちらの世界にはピアノならあるが、彼の腕前は「プロ」ではなく「ちょっと上手なアマチュア」程度にすぎないという。
「トランペットとかサックスって、いくらくらいするんですか?」
ポールさんとカナミに尋ねてみる。ポールさんは首をひねり、楽器には疎いらしい。一方のカナミが「そこそこ良いものなら三十万円くらいかな」と答えた。
「そんなに高いのか……。今の自分には無理だな……」
レイモンドさんが肩を落としたそのとき、ディオゴさんが口を挟んだ。
「たとえあちら側で買えたとしても、こっちには持ち込めないだろう?」
「それが、持ち込めるんですよー」
カナミが得意げに答えてしまったので、おれは仕方なくアイテムボックスと『交易の門』の仕組みを説明した。話を聞き終えたディオゴさんの表情が一変する。
「金なら心配いらん! トランペットとサックスを頼めないか?」
言うが早いか、テーブルの上に麻袋をどんと置いた。ずしりとした音とともに、中をのぞけば、数えきれないほどの金貨がぎっしり詰まっている。
「と、とんでもない金額じゃないですか!?」
思わず冷や汗をかくおれに、ディオゴさんは胸を張り、誇らしげに笑った。
「南の大陸じゃ名の知れた貿易商だからな」
「それでは、確かにお預かりします」
おれは金貨十枚――日本円にして百万円相当――だけを受け取り、袋を返した。あちらの世界に目覚めれば、その金は円に換わることになる。
すると、ポールさんが素朴な疑問を口にする。
「でも、ディオゴさん。トランペットやサックスって、どんな楽器かご存じなんですか?」
「いや、まったく分からん。ただ、レイモンドからずっと話を聞かされていてね。未来の楽器の音色をどうしても一度、耳にしてみたいんだ」
「私も……レイモンドさんの音楽を聴いてみたいです」
ディオゴさんに続いて、シャオメイさんも控えめにそう告げる。その瞳には、未知の音楽への憧れが静かに宿っていた。
昼食を終えたおれたちは、庁舎に隣接する練兵場へと足を運んだ。もっとも、そこはエムセブルグの広大な練兵場に比べればずっとこぢんまりとした場所だ。
その場では、ベルトウィンさんの指導の下、エレンと東郷さんが木刀を打ち合わせている。鋭い音が響くたびに、二人の気迫が空気を震わせた。
傍らには木刀を手にしたトニーさんが立ち、真剣なまなざしで二人の立ち合いを食い入るように見つめていた。
しばらく立ち合いを見守っていると、東郷さんの重い打ち込みにエレンが押され、体勢を崩した。その隙を逃さず、東郷さんの木刀がすっと差し込まれる。
「……参りました」
息を整えながらエレンがそう告げる。トニーさんに尋ねてみると、すでに五本立ち合い、結果は五本とも東郷さんの勝ちだという。
ベルトウィンさんが別格なのは承知していたが、エレンの上を行く者がいる。上には上がいるものだ。――その事実を、改めて思い知らされる光景だった。
稽古がひと段落したところで、おれはベルトウィンさんに街へ鍛冶師が来ていることを伝え、ぜひ一緒に訪問してほしいと頼んだ。
ベルトウィンさんは快くうなずき、そのまま鍛冶師のもとへ同行してくれることになった。
「……ドワイト、なぜお前がここにいるんだ?」
鍛冶師のドワイトさんは、ベルトウィンさんの愛刀を打った名匠だという。本来、ベルトウィンさんが宛てた手紙には「弟子をエムセルに寄越してほしい」と記されていたはずだが、どうやら本人が来てしまったらしい。
「ちょうど区切りの時期でね。鍛冶場は息子に任せた。これからはじっくり刀を鍛え抜き、極みの一振りを仕上げてみせるさ」
その意気込みに水を差すようで心苦しかったが、この村では旅人や商人が通る際の武器や馬具の手入れが主な仕事になることを伝えた。
するとドワイトさんは、静かにうなずいて言った。
「もちろん承知している。鍛冶に興味を持つ村の若者がいれば紹介してほしい。それくらいの仕事なら、すぐにできるように私が指導してみせますよ」
そんな心強い言葉に背中を押され、エムセルが村から街へと成長していく未来を、確かに思い描くことができた。




